マリア・テレジアは神聖ローマ帝国の皇后(1717ー1780)。オーストリアの大公妃、ハンガリーおよびボヘミアの女王。18世紀のヨーロッパ政治を代表する人物の一人。オーストリア継承戦争や七年戦争でフリードリヒ2世と戦った。美しく多産な母としても知られ、マリー・アントワネットの母としても有名。
この記事では、ハプスブルク家や神聖ローマ帝国の激動の時代を、マリア・テレジアがいかにして悪戦苦闘しながら女帝や母として乗り切ろうとしたかをみていこう。
マリア・テレジア(Maria Theresia)の生涯
マリア・テレジアはオーストリアのウィーンで、神聖ローマ皇帝カール6世の長女として生まれた。ハプスブルク家の出身である。若い頃から美貌で知られた。
ハプスブルク家の相続ルールに基づき、マリアはカール6世の後継者に定められた。カール6世は平和裏に相続がなされるよう外交政策を行った。1736年、マリアはロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚した。
女帝としてのマリア・テレジア
1740年、父カールが没し、マリア・テレジアが23歳で後継者となった。マリア・テレジアは長いハプスブルク家の歴史の中で唯一の女性の当主となり、その所領を相続した。だが、プロイセンのフリードリヒ2世はこの相続を認めず、シュレージエンに進軍を開始した。かくして、オーストリア継承戦争(1740 ー1748)が始まった。
この時期、マリア・テレジアはまだ政治家としての経験が浅かった。さらに、軍事関連の経験はなおさらだった。マリア・テレジアはこの時期の状況について、のちにこう述懐している。
すなわち、自分には金も信用も軍隊も、経験も助言もなかった、と。だが、マリア・テレジアはこれ以降に、毅然とした聡明な君主として成長していく。
オーストリア継承戦争
オーストリア継承戦争は当初からプロイセンが圧倒的に有利だった。プロイセンは強力な軍隊でシレジアやボヘミアの大部分を占領した。ハプスブルク家は危機的な状況に陥った。
だが、マリア・テレジアはこの戦争で巧みな外交手腕を発揮した。たとえば、ハンガリー領では、そもそも自身をハプスブルク家の後継者として認めてもらう必要があった。これに失敗すれば、ハンガリーで反乱が起こる恐れもあった。
テレジアは自らハンガリー議会に出向き、自身を後継者として認めるよう説得した。さらに、プロイセンの恐怖を背景に、自身をその戦争で支援するよう説得した。これらに概ね成功した。
テレジアはイギリスやオランダなどにたいしては、プロイセンの恐怖を利用して一致団結させ、自身の味方に組み入れた。同時に、何度も戦争を行ってきたオスマン帝国と戦争が起こらないよう外交施策をとった。これらの外交手腕により、テレジアは早くもヨーロッパで名声を得た。
国内の改革:兵制の改革など
国内では、テレジアは強力なプロイセン軍に勝利するために、様々な制度改革を行っていった。強力な常備軍の整備や教育、公衆衛生などである。中央の権力を強化し、地方の特権や自律を弱めた。教会への統制も強めた。
もちろん、これらの国内改革には時間がかかる。そのためにも、戦争では時間を稼ぐ必要があった。そのため、テレジアはゲリラ戦や消耗戦を展開した。一時的な停戦にも成功した。
だが、そもそも戦力に圧倒的な差があったので、反転攻勢には成功しなかった。この時点で無理に勝利しようと試みるのではなく、一度戦争を終わらせるのが得策だと判断した。そのため、1748年、この戦争は終わり、オーストリアはプロイセンに敗北した。
テレジアの地位と夫フランツの皇帝即位
戦争を経て、テレジアはハプスブルク家の当主として、オーストリア大公妃やボヘミアおよびハンガリーの女王としての地位を確保した。だが、シュレージエンは失った。なお、テレジアは事実上の女帝だったが、正式には神聖ローマ帝国の皇帝には即位しなかった。夫のフランツ1世が皇帝に即位した。
戦間期:外交革命
テレジアはプロイセンに報復しようと画策した。そのための準備を急速に進めた。たとえば、宰相カウニッツの主導のもと、外交上の変革を実施した。従来の同盟相手だったイギリスから離れ、1756年、従来の敵だったフランスと同盟を組んだのである。
ハプスブルク家はフランスと100年以上も敵対していたので、この同盟は周辺国を驚かせた。そのため、これは外交革命とも呼ばれる。さらに、テレジアはロシアとも同盟関係を結んだ。
同時に、テレジアは神聖ローマ帝国の内部での権力基盤を安定化させた。たとえば、オーストリア継承戦争で敵対し、打ち倒したバイエルン公にたいして、寛大な措置をとった。そのような懐柔策などによって、帝国の諸侯からの支持を勝ち取った。
さらに、国内の諸改革も続けた。政府の機関の無駄を省いて支出を抑えた。貴族の諸侯を抑え込み、歳入の安定化を図った。農奴制を改革し、生産力を高めようとした。軍制を改革し、軍隊の強大化を図った。特に、大砲や砲兵の改革を急いだ。プロイセン軍にたいしてこの点で大きく遅れていると思われたためである。
7年戦争
かくして、テレジアは七年戦争(1756 ー1763) でプロイセンに挑んだ。これはシュレージエンの奪還と、プロイセンという脅威を弱体化させるために行った。イギリスがプロイセンを支援した。
当初、テレジアの同盟軍はフリードリヒ2世のプロイセンに優位に立った。だが、フリードリヒの卓越した軍事的才能やロシアでの代替わり、フランスがイギリスとの植民地での戦争に敗れたこと(フレンチ・アンド・インディアン戦争)などにより、事態は大きく変わっていった。結局、テレジアはフリードリヒ2世には勝利できなかった。シュレージエンを取り返すこともできなかった。
ヨーゼフ2世との共同統治へ
1765年、夫のフランツが没し、息子が皇帝ヨーゼフ2 世として即位した。テレジアは死ぬまで、息子と共同統治を行った。
ヨーゼフ2世は啓蒙思想に大きな影響を受け、啓蒙専制君主の一人として知られるようになっていった。テレジアの宿敵たるフリードリヒ2世もまた、啓蒙専制君主の一人として知られた。ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世を尊敬し、称賛した。よって、テレジアと対立した。
1772年、ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世とともに、第一次ポーランド分割を行った。テレジアはこれを不道徳極まりないとして反対だった。だが、ヨーゼフは断行した。
魔女狩りや魔女裁判の司法改革
1766年、テレジアは国内改革での司法改革の一環で、魔女裁判に関する法律を制定した。これは、魔女裁判の衰退や終焉を後押しするものだった。すべての魔術的な現象が実在することにたいして、根本的な疑いを示した。
ただし、この法律では、悪魔の力に基づく真の黒魔術が存在すると考えられていた。そのような場合には、君主の同意のもとで、死刑がくだされる余地が残された。もっとも、ほとんどの魔女の疑いは迷信にすぎないというスタンスをとっていた。
この時代に、西洋の魔女裁判のほとんどが終わりを迎えようとしていた。他のヨーロッパ諸国でも、テレジアの法律と同様の法律が制定された。
それらの中で、テレジアの法律の特徴は、この法律だけが魔女裁判の衰退に大きく寄与した点にある。他の国では、魔女裁判の衰退はすでに進んでいたので、これらの法律はその衰退にほとんど寄与しなかった。
だが、ハンガリーでは、18世紀前半にも魔女裁判が盛んだった。1100人ほどが魔女裁判で起訴され、300人ほどが処刑されていた。テレジアの法律はこれを大きく抑制することになった。
ただし、オーストリアでは、魔女裁判はすでに終りを迎えていた。最後の処刑は1750年に行われていた。
魔女裁判について、くわしくは次の記事を参照。
多くの子供を産んだ母として
他方で、テレジアは家庭的でもあり、身体が丈夫だった。夫フランツ1世との間に16人の子供をもうけ、10人が成人することになる。後継ぎとしては男子が求められた。だが、最初の子供は女の子であり、エリザベートと名付けられた。
なかなか男子がうまれず、テレジアは焦りを感じた。だがついに長男のヨーゼフが生まれた。これは上述のヨーゼフ2世となる。ほかにも、のちに息子のレオポルト(2世)もうまれた。
テレジアにとって、上述の戦争と出産は同時進行で行われた。たとえば、オーストリア継承戦争では5人を出産し、戦間期にも5人、7年戦争では1人を出産した。よって、妊娠と出産の間も休むことがなかった。
マリー・アントワネット
テレジアは娘たちをパルマやナポリ、フランスのブルボン家のもとへと政略結婚させ、自国の安定を図った。その中では、1770年にフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットが有名である。
アントワネットは末娘であり、当初はしっかりした教育を施されていなかった。だが、フランス王権がアントワネットに関心を示すと、急いで様々な教育を施された。
アントワネットが嫁いだ後も、テレジアはアントワネットにたいして手を焼いていた。定期的に書簡を送り、死ぬまで、様々な忠告や警告を発した。アントワネットのフランス語が下手なことや軽薄なこと、後継者としての子供を産んでいないことなどを叱責した。
女帝のイメージの他に、母としての多産さがテレジアのイメージとして今日にも受容されている。
モーツァルトなどの音楽を愛するハプスブルク家:シェーンブルン宮殿
オーストリア・ハプスブルク家は長らく音楽などの芸術を愛好し、その発展に寄与してきた。たとえば、17世紀後半、皇帝レオポルト1世の時代に、ウィーンが芸術の一大都市として発展するようになった。今日の芸術の都市ウィーンの始まりである。マリア・テレジアもまた音楽を愛好していた。たとえば、かの有名なモーツァルトもまたテレジアの前で演奏を行った。
テレジアはシェーンブルン宮殿の再建も行った。晩年、テレジアはヨーゼフ2世との共同統治で対立することが多くなり、この宮殿で休むことが多くなった。これは19世紀前半にウィーン会議の開催場所として利用されることになる。
テレジアと縁のある人物
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マリア・テレジアの肖像画
おすすめ参考文献
エリザベート・バダンテール『女帝そして母、マリア・テレジア : ハプスブルク帝国の繁栄を築いたマリー・アントワネットの母の葛藤と政略』ダコスタ吉村花子訳, 原書房, 2022
A. Wess Mitchell, The grand strategy of the Habsburg Empire, Princeton University Press, 2019
Barbara Stollberg-Rilinger, Maria Theresa : the Habsburg empress in her time, Princeton University Press, 2021