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マリー・ド・メディシス:フランスの宗教戦争から絶対王政へ

 マリー・ド・メディシスはフランス王妃(1573ー1642)。フランス宗教戦争を終わらせた国王アンリ 4 世と結婚した。アンリの死後、息子のルイ13世の摂政をつとめた。成人したルイ13世と対立するようになり、最終的には悲惨な運命をたどることになる。これからみていくように、フランス絶対王政の確立に不可欠なあの人物を政治的に引き上げたのはマリーだった。
 よって、マリーの生涯を知ることで、フランスが宗教戦争の惨状から絶対王政の確立へと至る道筋を理解することができる。

マリー(Marie de Médicis)の生涯

 マリーはイタリアのフィレンツェでトスカナ大公フランチェスコ・デ・メディチの娘として生まれた。有名なメディチ家出身である。

アンリ4世との結婚:宗教戦争の終結という背景


 1600年、マリーは20代後半の頃、フランス王アンリ4世と結婚した。これは政略結婚だった。
 その背景として、16世紀後半、フランスでは宗教戦争が起こった。当初はカトリックの王権が熱狂的なカトリックを抑え込みながらも、プロテスタント諸侯と戦った。だが、アンリ4世は即位する前からプロテスタントとして育っていた。
 1589年、フランス王アンリ3世が没した。そのため、アンリ4世がフランス王に即位することになった。当時のカトリックの強国スペインがこれを阻止しようとして、本格的に介入してきた。フランスの宗教戦争がさらに激化していった。
 アンリ4世はこの宗教戦争を終わらせようとした。そのため、プロテスタントに信仰の自由を認めながら、自身はカトリックに改宗した。1598年には、ナントの勅令をだし、ついに宗教戦争を終わらせた。

 だが、フランスはまだ宗教的不和の火種が残っていた。アンリは貴族や民衆の信頼を勝ち取るために、様々な手段をとった。その一つが外国のカトリック勢力として重要なメディチ家出身のマリーとの政略結婚だった。
 1601年、マリーはのちのルイ13世を産んだ。だが、アンリの女性問題などにより、両者の関係は良好とはいえなかった。

 アンリ4世の暗殺:摂政へ

 1610年、アンリ4世が暗殺された。アンリは国内で宗教戦争の再来を防ぐために、様々な融和策をとっていた。だが、カトリックの狂信者によって暗殺されたのだった。
 同年、ルイ13世がフランス王に即位した。まだ幼かったので、マリーが摂政となった。
 摂政の時代、マリーはスペインやローマ教皇という外国勢力との関係強化を図った。この時期、スペインとローマ教皇は国際的な舞台において、イギリスなどのプロテスタント勢力にたいしてカトリックを武力や外交などで守ろうとする主要な勢力だった。
 そのマリーの対外政策がフランスのカトリックとプロテスタントの貴族たちから少なからず反対された。彼らはスペインと教皇がフランスにとって有害だと考えたためである。だが、マリーはコンチーニの影響を受けながら、その政策を続けた。

 1614年からは、全国三部会の開催を余儀なくされた。アンリ4世の暗殺などをうけて、この三部会は荒れた。これに、聖職者身分でリシュリューが参加していた。彼は調停役として活躍した。そのため、マリーはリシュリューに一目置くようになった。

 ルイ13世との対決

 ルイ13世が正式に統治できる年齢に至った。それでもなお、マリーは実権を握り続けた。
 だが、1617年、ついにルイの計略によって、コンチーニが暗殺された。1619年、マリーはついにルイにたいして反乱をおこした。だが、1620年の戦いで敗北し、追放された。政治的な要職へと引き上げられていたリシュリューもマリーの亡命に同行した。

 ルイとの和解

 1622年、リシュリューがルイとマリーを和解させるための交渉を始めた。紆余曲折を経て、マリーを王権のもとに戻すのに成功した。マリーはリシュリューへの褒美として、枢機卿の地位をローマ教皇から得た。

 ルーベンスの絵画(マリー・ド・メディシスの生涯)

 同年、マリーはフランドルの著名な画家ルーベンスを呼び寄せた。新築のリュクサンブール宮殿のために絵画を制作させるためだった。ルーベンスは1625年までに、21枚の一連の大きな絵画『マリー・ド・メディシスの生涯』を描いた。これは彼の代表作の一つになった。

 決定的な対立へ

 1624年、マリーはリシュリューを宰相にするようルイを説得した。ルイはこれを受け入れ、リシュリューが実権を握るようになる。かくして、フランスの絶対王政が本格的に始まった。

 だが、リシュリューはマリーの期待を裏切った。リシュリューはフランスの国益のために、スペインなどのカトリック勢力ではなく、プロテスタントに接近したためだった。
 そこで、両者は対立するようになった。マリーはリシュリューが失脚するよう画策した。だが、最終的にルイはリシュリューを信任し続けた。むしろ、1631年、マリーを国外に追放した。

 その後、マリーは外国を渡り歩き、ドイツのケルンで極貧のうちに没した。上述のルーベンスがマリーを外交官として支えようとしたが。

マリーとフランス絶対王政

 以上のように、リシュリューをフランス王権の中枢へと導いたのはマリーだった。そのため、マリーは意図せぬ仕方でフランス絶対王政の確立に寄与した。
 同時に、マリーは自身が協力関係を築こうとした強国スペインの没落をもたらすことになった。というのも、リシュリューのもと、フランスは30年戦争でスペインを打ち負かすことになるからである。17世紀後半には、フランスはヨーロッパで覇権を握る勢いとなるのにたいし、スペインは斜陽となる。

 マリー・ド・メディシスと縁のある場所:パリのルーブル美術館

 ルーブル美術館は上述のルーベンス作『マリー・ド・メディシスの生涯』を全て所蔵している。アンリ4世との結婚やルイ13世の摂政など、マリーの没落前の人生を鮮やかに描いている。
 マリーの生涯を追うことができるだけでなく、バロックの代表的画家ルーベンスの代表作を堪能することができる。

ルーブル美術館のユーチューブ公式チャンネルによるルーブル美術館の紹介(画像をクリックすると始まります)

マリーと縁のある人物

リシュリュー:マリーが政治的に引き上げた聖職者で政治家。マリーがフランスの宮廷から追い出された後も、宰相としてフランスの行く末を定める。

アンリ4世:マリーの夫で国王。そもそもマリーがフランスに嫁ぐ前に、フランスでは一体何が起こっていたのだろうか。

マリー・ド・メディシスの肖像画

マリー・ド・メディシス 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

ミシェル・カルモナ『マリ・ド・メディシス : 母と息子の骨肉の争い』 辻谷泰志訳, 国書刊行会, 2020

Jean-François Dubost, Marie de Médicis : la reine dévoilée, Payot & Rivages, 2009

Clarice Innocenti(ed.), Women in power : Caterina and Maria de’ Medici, Mandragora, 2008

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