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マルセイユの歴史と旅行の魅力を紹介

 マルセイユはフランス第二の都市で、地中海沿岸にあります。2500年前からアフリカ西岸やイギリスなどと貿易する地中海貿易の主要都市として発展してきました。20世紀後半には、工業や金融でも重要性を高めています。フランス第二の都市として文化活動も活発で、多くの魅力的な美術館や博物館があります。古代の遺跡や中世の史跡なども残っています。古くから海外の移民を受け入れてきたため、フランスでありながらアフリカや東方の異国情緒も感じさせる独自の魅力をもっています。

 以下では、まずマルセイユのおすすめ観光スポットを厳選して紹介します。マルセイユの観光の魅力をより深く知りたい、旅行の体験をより面白く豊かなものにしたい。そういった方々に、この記事は最適です。というのも、マルセイユの豊かな歴史との関係でそれらの観光スポットを紹介するためです。

 観光スポットのセクションの次に、マルセイユの歴史を時系列に沿って概説します。歴史をしっかりと理解してから観光スポットの魅力を知りたいという方もいらっしゃるでしょう。そのような場合には、目次から歴史のセクションに移動してください。その後で観光スポットのセクションを御覧ください。

マルセイユの観光スポット7選(2024年度版)

 サン・ヴィクトール修道院

 この修道院はマルセイユで最も古い教会建築です。サン・ヴィクトールは2世紀にマルセイユで殉教したローマの軍人です。古代ローマ帝国において、キリスト教は長らく禁止され、迫害も起こりました。4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認されます。5世紀、サン・ヴィクトール修道院が建てられました。

 11世紀には塔が建てられました。この修道院はマルセイユのランドマークとなっていきます。その後も改築を行いました。サン・ヴィクトール修道院は教皇ウルバヌス5世を輩出しました。彼のもとで、この修道院は要塞化を施され、港湾防衛の役目も担うことになりました。

要塞化されたサン・ヴィクトワール修道院 利用条件はウェブサイトで確認
要塞化されたサン・ヴィクトワール修道院

 サン・ヴィクトール修道院の特徴は、初期キリスト教美術を鑑賞できるところです。地下聖堂の構造は創建されて間もない頃からあまり変化していません。5世紀あたりに建てられた壮麗な石棺や墓も残っています。

 マルセイユ大聖堂(Cathédrale Sainte-Marie-Majeure)

 現在のマルセイユ大聖堂は19世紀なかばに建設が開始されたものです。かつて、この場所には初期のキリスト教会や旧マルセイユ大聖堂が建てられていました。19世紀なかば、のちのナポレオン3世のもとで、現在の大聖堂の建設が開始されました。19世紀末に完成し、現在に至ります。

19世紀後半のマルセイユ大聖堂(右上)とマルセイユの街並み

 この大聖堂は全長150メートルほどで規模が大きく、マルセイユという大都市にふさわしいものとなっています。かつて地中海全域で貿易を行っていたマルセイユらしく、建物のデザインはギリシャやイスタンブールの東方教会を彷彿させるものになっています。内部では15世紀の聖ラザロの祭壇画など、優れたキリスト教芸術の作品を見ることができます。

 ローマ・ドック博物館(Musée des docks romains)

 20世紀後半のマルセイユの都市再開発の際に、古代ローマ時代の遺構が発見されました。当時の門や城壁、塔などです。さらに、200メートルほどの倉庫や埠頭の跡地も発見されました。そこでは、穀物やワインなどの大きな容器もたくさん見つかりました。この跡地にローマ・ドック博物館は建てられています。

 そもそも、マルセイユはいまから2500年前から、周辺地域だけではなくアフリカの北部や西部、北欧、イギリスなどとも海洋貿易を行う商業都市として発展しました。まだ海図や航海技術が未熟な時代であり、経度も緯度も正確には測れない時代のことです。

 彼ら勇敢なマルセイユの海洋商人たちの交易や航海に関する品々がこの博物館で展示されています。当時の錨やランプ、貨幣や食器、そして難破船などです。

 マルセイユ美術館(Musée des Beaux-arts)

 マルセイユ美術館は1801年に当時のフランスの文化政策の一環で設立されました。19世紀後半にロンシャン宮殿に移されました。ここでは、15世紀から現代までの美術作品を鑑賞できます。

 マルセイユ出身の芸術家としては、フランス・バロック美術の彫刻家ピエール・ピュジェや、近代の風刺版画家オノレ・ドーミエ、同時期の画家アドルフ・モンティセリが特に注目すべきといえます。

ピュジェの作品(ただし別の美術館所蔵)
モンティセリの作品(ただし別の美術館が所蔵)

 ヴィエイユ・シャリテ・センター(Centre de la Vieille Charité)

 17世紀後半に建てられた礼拝堂などの教会建築物を利用した文芸センターです。ここには複数の博物館や研究施設が集められています。その中でも一般的な観光客向けの博物館として、二つご紹介します。

地中海考古学博物館(Musée d’Archéologie Méditerranéenn)

 1つ目は地中海考古学博物館です。センターの一階にあります。マルセイユは地中海の主な貿易都市として、地中海を囲む様々な地域と交流をもっていました。そこで、この博物館ではエジプトやギリシャ、フェニキアやローマなどの様々な考古学的資料を展示しています。

 石碑や陶器、祭具などです。特に、古代エジプトの資料の展示に力を入れています。そもそも、かつての古代エジプトの発掘ブームは19世紀フランスのナポレオン1世に始まるものです。フランスの古代エジプト研究の成果をここで垣間見ることができます。

アフリカ・オセアニア・アメリカ先住民博物館(Musée d’Arts Africains, Océaniens et Amérindiens )

 2つ目はアフリカ・オセアニア・アメリカ先住民博物館です。それぞれの地域の伝統文化の品々を展示しています。たとえば、それぞれの地域の儀式で使用されていた仮面の違いを実際に見て知ることができます。

 装飾芸術・陶器・ファッション博物館(Musée des Arts décoratifs, de la Faïence et de la Mode)

 この博物館はかつてのボレリー城(Château Borély)の中にあります。ボレリー城は18世紀後半に避暑地の別荘として建てられたものです。この博物館では、18世紀以降のタペストリーや家具などの装飾芸術や陶器、衣服などが展示されています。

 その中でも注目したいのが陶器です。17世紀後半以降、マルセイユでは陶器の生産が盛んでした。イタリアのマヨリカ陶器のように釉薬を用いた陶器です。フロワ夫妻やボンヌフォワなどが優れた作品を生み出しました。18世紀にはマルセイユの工芸品として国際的に有名になりました。

ボンヌフォワの作品(ただし別の美術館が所蔵)

 マルセイユ歴史博物館(Musée d’Histoire de Marseille)

 紀元前5世紀頃から現在までの歴史資料が展示されています。実物の史料だけでなく、模型や現代的な視覚資料をも駆使して、マルセイユの歴史を紹介しています。その大筋はあらかじめ本記事の歴史セクションで確認しておくと、より理解が深まります。

 他の美術館や博物館としては、1960年代までの近現代美術を扱ったカンティーニ美術館や、それ以降を扱った現代美術館、自然史博物館、子供博物館などがあります。

マルセイユの歴史

 古代ギリシャ人の交易都市

 都市マルセイユの始まりは紀元前600年頃だとされています。当時、古代ギリシャ人が周辺に植民都市を形成していました。その一つのフォカイアから、ギリシャ人がさらに現在のマルセイユの土地に移住し、植民都市を建設しました。この都市はマッサリアと呼ばれ、これがマルセイユの名前の起源となっています。

 マルセイユの人々はフランス南部のニースなどの都市も建設しました。地中海西部で積極的に貿易を行いました。さらに、果敢にもアフリカの北部や西海岸、北欧、イギリスとも貿易を行っていました。塩やサンゴなどの様々な地域の産物を中継貿易して発展したのです。

 古代ローマとの関係

 紀元前3世紀頃には、マルセイユはガリア人やカルタゴ人と敵対関係にありました。彼らと戦うために、ローマと同盟を結び、防衛に成功していきます。その後、ローマで内乱が始まった際に、有名なユリウス・カエサルがポンペイウスと対立しました。

 マルセイユはポンペイウスを支持しました。しかし、カエサルが勝利したため、マルセイユはカエサルに攻め込まれました。その結果、多くの領土を失いました。

カエサルによるマルセイユ攻略 利用条件はウェブサイトで確認
カエサルによるマルセイユ攻略

それでも、自由都市としての地位を維持しました。西欧でギリシャ文化を保持する例外的な都市でした。

 なお、この古代ギリシャ・ローマの時期の遺構は20世紀以降に発見され、現在は博物館になっています。

 中世の衰退と繁栄

 その後、マルセイユにはキリスト教が次第に普及していきます。4世紀頃にはマルセイユ司教が活動するほどまでに発展しました。416年にはサン・ヴィクトール修道院が建てられました。

 しかし、その後のマルセイユは西ゴート族などの侵略を、9世紀にはサラセン人の侵略を受けます。この衰退の時期は十字軍の開始で終わりました。11世紀末、ヨーロッパ諸侯は聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するという第一次十字軍を派遣しました。マルセイユはその行軍ルートに位置したため、商人たちが集まりました。かくして、商業で賑わうようになりました。

 12世紀から、マルセイユは地中海貿易で再び経済的繁栄の時期に入ります。エジプトやコンスタンティノープル、チュニジアやセウタ、スペインなど地中海エリアの全域で盛んに交易をおこないました。東方の香辛料や絹織物などの中継貿易地となりました。

 経済的発展とともに、マルセイユは市民が領主からの自律をもとめ、共和主義の自由な都市になろうと試みました。14世紀のペスト流行や15世紀のアラゴン王による略奪をへて、15世紀後半には繁栄を取り戻しました。

 フランスの一部へ

 1481年、マルセイユはプロヴァンス地方の一部としてフランスに併合されました。16世紀も地中海貿易に従事しました。

16世紀の地中海貿易

 16世紀前半、地中海エリアでは二つの大きな変化が生じました。第一に、スレイマン大帝が率いるオスマン帝国が地中海エリアに進出してきたのです。スレイマンは1529年にオーストリアでの第一次ウィーン包囲を行い、失敗しました。その後は、地中海エリアへの進出に本腰を入れます。

 アフリカ北部を占領したのみならず、ギリシャやイタリアとスペイン南部などにも激しい攻撃を仕掛けました。神聖ローマ皇帝やローマ教皇らがこの戦いに応じました。しかし、マルセイユはむしろこの戦いを利用できました。

 フランス王は神聖ローマ皇帝と敵対していたため、むしろスレイマンと手を組んだためです。そのため、マルセイユはこの時期も地中海貿易で利益をあげました。

 第二の変化はマルセイユにとって打撃となったものです。コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したことで、大西洋貿易が本格化していったことです。その結果、ヨーロッパの海洋貿易の中心は地中海から大西洋に移っていきます。そのため、長期的にみるとマルセイユの地中海貿易は衰退期に入っていきます。

16世紀のマルセイユ 利用条件はウェブサイトで確認
16世紀のマルセイユ

 それでも、マルセイユは急速に衰退したわけではありません。地中海貿易を継続しました。東方からは絹や絨毯を、アフリカ北部からは小麦やサンゴを、そして西洋の布を取引しました。さらに、交易で輸入した原材料を用いて、加工業を発展させました。たとえば、砂糖や石鹸です。

17世紀のフランス絶対王政

 17世紀のフランスは絶対王政の確立に邁進しました。宰相のリシュリューやマザランそしてルイ14世によって、これは確立されました。その過程で、マルセイユは従来の反骨精神をもやし、1658年にルイ14世にたいして反乱を開始しました。

 これが1660年に鎮圧され、ルイ14世に屈服しました。マルセイユ市政府への監視として、サン・ニコラ要塞が建てられました。

 17世紀後半には、フランス王権は海洋貿易を推進しました。この政策がマルセイユの貿易を後押ししました。たとえば、レヴァントの貿易などが成功し、小麦や香辛料などを輸入しました。

 それらの原材料を用いた石鹸や砂糖、製紙などの産業が発展していきます。さらに、マルセイユは地中海貿易のみならず大西洋貿易にも参加するようになりました。フランスがカリブ諸島に進出することで、これが加速していきます。

18世紀のペスト

 マルセイユは繁栄し、1720年頃には人口が10万人ほどに達しました。ところが、1720−22年に、凄まじいペストに襲われます。マルセイユの人口が半減するほどの甚大な被害を受けました。

マルセイユの18世紀のペストの様子 利用条件はウェブサイトで確認
18世紀のペストの様子

それでも、マルセイユはこの危機を乗り越えて、繁栄を取り戻しました。

18世紀のマルセイユ 利用条件はウェブサイトで確認
18世紀のマルセイユ

 フランス革命

 1789年、フランス革命が起こります。革命軍はフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットと対立し、旧来の体制を打倒しようとしました。これに対し、ルイ16世はオーストリアなどに支援を求めました。そのため、オーストリアなどがフランス革命への干渉戦争を開始し、状況は混沌としていきます。

 そのような状況で、マルセイユでは革命支持のために義勇軍が募集されました。500人ほどの義勇軍はパリに向かって「 ラ・マルセイエーズ」を歌いながら行進しました。これが群衆を熱狂させ、現在のフランス国家として採用されるに至ります。

 フランス革命はロベスピエールによる恐怖政治の時期に入ります。大量の革命支持者がかつての同胞によってギロチンで処刑されたのです。マルセイユはこの恐怖政治に反対して反乱を起こしました。しかしすぐに武力で制圧されました。

 恐怖政治の後、ナポレオンが台頭しました。周辺国による干渉戦争を押し返し、むしろそれらの国々を制圧していきました。イギリスなどがナポレオンに対抗するために、海上封鎖の作戦を展開します。

 その結果、マルセイユは経済的に大打撃を受けました。かくして、反ナポレオンの動きをみせます。ナポレオンは1815年のワーテルローの戦いで敗北し、完全に失脚しました。

 19世紀のフランス帝国主義

 19世紀、フランスは海外での軍事行動によって植民地をつくり、海洋帝国になります。1830年にはアルジェリアを征服し、1885年にはインドシナ半島を征服しました。マルセイユはこれらの植民地との貿易で栄えました。

 さらに、1869年のエジプトのスエズ運河の開通が重要です。この開通によって、マルセイユはアフリカ北部のみならず東アジアとの交易も可能になったのです。マルセイユは貿易の発展に伴い、北部や東部への港湾整備を進めました。道路の整備など、その他の都市開発も進められました。

19世紀のマルセイユ 利用条件はウェブサイトで確認
19世紀のマルセイユ

皇帝ナポレオン3世の別荘として、ファロ城が建てられました。マルセイユの活況はナポレオンの帝国主義政策によるものでした。しかし、この帝政の時代にはマルセイユは共和主義の支持者でした。

 世界大戦

 第二次世界大戦において、1942−44年にマルセイユはドイツ軍に占領されました。マルセイユはドイツ軍への抵抗活動の主要拠点となりました。そのため、ドイツ軍は旧港などを爆破しました。

 戦後、マルセイユは大々的に都市開発を進めます。その一因として、1950−60年代に、アジア・アフリカの植民地が次々と独立しました。その結果、マルセイユはアルジェリアやインドシナとの貿易で大打撃を受けました。

 そこで、新たな産業の開発が求められました。マルセイユ周辺地区の開発が進み、大規模な工業・港湾施設や団地が建設されました。コルビュジエの特徴的な集合住宅も建てられました。

 現在

 現在においても、地中海の主要な港湾都市としての地位を維持しています。ヨーロッパでは四番目に大きい港です。主な輸入品は原油です。ほかにも様々な原材料や製品を輸入しています。この伝統的な貿易・商業以外にも、戦後になって重工業が発展してきました。

 旧植民地から多くの移民労働者を受け入れ、労働力不足を補いました。主な産業は石油や機械などです。船舶や輸送、倉庫などの事業も行われています。金融でも重要な都市です。

 現在のマルセイユの北部は労働者階級が住み、南部には中流階級以上が住んでいます。現在は失業率が高いため、治安が懸念される場所もあります。観光の歴史的地区は旧港エリアにあります。フランス第二の都市として文化活動も盛んです。

 2013年には、欧州文化首都に選ばれました。観光も主な産業の一つです。高速鉄道でパリとは3時間で、リヨンとは1時間でつながっています。現在の人口は85万人ほどです。

現在のマルセイユの街並みの動画(画像をクリックすると始まります)

 フランスのおすすめ観光地

リヨン:フランス第3の都市。フランス南東に位置し、絹織物産業や貿易で発展してきました。スイスやイタリアなどと近いため、それらの国との深い交流から様々な影響を受けてきました。世界中の織物作品を集めた稀有な博物館があります。

ナント:フランス北西部のブルターニュ地方の主要都市。ブルターニュ公爵の城があり、ここでは世界史で有名なナントの勅令が出されました。フランスの歴史にとって決定的な役割を果たした都市です。その歴史と観光の魅力を紹介します。

おすすめ参考文献

深沢克己『マルセイユの都市空間 : 幻想と実存のあいだで 』刀水書房, 2017

鳥海基樹『マルセイユ・ユーロメディテラネ : 文化化と享楽の衰退港湾都市再生 』美学出版, 2022

Alèssi Dell’Umbria, Histoire universelle de Marseille : de l’an mil à l’an deux mille, Agone, 2006

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