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マウリッツ(オラニエ公):オランダの独立を勝ち取った軍事的リーダー

 マウリッツ・フォン・ナッサウは16世紀末からオランダで活躍した政治家で軍人(1567ー1625)。ネーデルラントの80年戦争で、優秀な軍事的リーダーとして知られる。父親はオランダの建国の父として知られるオラニエ公ウィレム1世。スペインとの休戦時には国内で大きな対立が起こり、重大な判断を迫られた。その結果・・・。

マウリッツ(Maurits van Nassau)の生涯

 マウリッツは現ドイツのディレンブルフで貴族の家庭に生まれた。父はオニラエ公ウィレム1世である。

 16世紀後半、ネーデルラント(現在のオランダやベルギーの地域)はスペイン王フェリペ2世を主君としていた。だが、1568年、一部の貴族がフェリペにたいして反乱を開始した。マウリッツの父ウィレムはその主導者の一人だった。だが、1584年に暗殺された。なお、この反乱軍がいずれ独立してオランダ共和国となる。

 その頃、マウリッツはライデン大学で数学者ステヴィンらのもとで学んでいた。だが、ホラントの総督に任命された。その後も、ゼーラント、ユトレヒトやヘルダーラントやオーバーエイセルの総督になる。

 革新的な軍事的リーダーへ

 若きマウリッツは、反乱側の事実上の宰相となるオルベンバルネフェルトに支えられた。マウリッツは反乱軍の最高司令官となった。そこで、軍事改革を実行していった。

 当時のネーデルラントの戦争では、傭兵が利用されていた。彼らへの給料支払が滞ることは珍しくなかった。それも一因となって、しばしば傭兵の蜂起が生じた。これが戦局に影響していた。マウリッツは兵士の蜂起を予防すべく、厳しい軍事規律をしくと同時に、給料の支払いを着実に行おうとした。

 ほかにも、上述のステヴィンの兵器開発を推進したり、軍事訓練を改良するなどして、自軍を強化した。

 フランスで国王アンリ3世が暗殺されたのも転機となった。ネーデルラントに展開していたスペイン総督ファルネーゼがフランスに転戦した。プロテスタントのアンリ4世がフランス王に即位するのを妨害するためだった。

 これにより、ネーデルラントでのスペイン軍は弱体化した。また、スペインは多くの国での戦争を同時に展開していたので、戦費が過大になり、ネーデルラントへの軍資金が減った。

 このような状況で、1590年代からマウリッツは軍事的に成功を重ねていった。ネーデルラント北部で反乱軍の支配地域を広げた。

 ただし、ネーデルラント南部への反転攻勢はあまりうまくいかなかった。反乱軍はネーデルラント全域をスペイン王の支配から解放したとしていた。だが、ネーデルラント南部はそもそも反乱軍ではなくスペイン王に忠誠を誓い続けていた。南部の人々はマウリッツを自分たちの解放者とはみなさず、彼の進軍に敵対した。

 戦局は次第に膠着していった。スペインと同様、反乱軍もまた戦費が財政を圧迫していた。さらに、1604年、スペインと戦争していたイギリスがスペインと和平条約を結んだ。イギリスは反乱軍に財政支援など行っていたため、これらの支援が途絶えたのは反乱軍には大きな痛手だった。

 それでも、マウリッツはスペインとの戦争継続を望んだ。だが、オルベンバルネフェルトは和平を望んだ。フランス王アンリ4世などの仲介により、1609年、反乱軍とスペインは12年間の休戦条約を締結した。このタイミングで、反乱軍がオランダとして正式に独立したと考えることもできるだろう。

 休戦条約中の対内不和:オルベンバルネフェルトの処刑へ

 休戦条約により、オランダへのスペインの外圧が弱まった。そのため、オランダで対内的な不和が生じた。休戦条約の成立直後から、宗教的な対立が生じ、政治的な対立と連動し始めた。

 また、この頃、オランダは東インド会社を東アジア海域に派遣した。その海域でのポルトガルの拠点を奪っていった。1609年には、日本で長崎に平戸商館を設置した。1612年、マウリッツは幕府に国書を送った。その時の贈り物が家康などを喜ばせた。

 上述の対内的な対立は次第に激化していった。イギリス王ジェームズ1世がこれに介入し始めた。当初、マウリッツはその対立にたいして明確な立場を示していなかった。だが、オルデンバルネフェルトとマウリッツの対立がそれらの対立と結びついた。ジェームズ1世はマウリッツ側への支持を固めた。

 1618年、ついにマウリッツはオルデンバルネフェルト側の都市などを攻略した。オルデンバルネフェルトや彼の右腕だったグロティウスなどを逮捕した。

 1619年、特別法廷を設置して、オルデンバルネフェルトを裁き、処刑した。この裁判方法などには法的な問題があると批判された。

 晩年

 1621年、スペインとの休戦期間が終わり、戦争が再開した。マウリッツは軍事リーダーとして目立った成功を収めなかった。マウリッツはオルデンバルネフェルトの処刑に後ろめたさを感じていたようで、次第に体調を崩していった。1625年に病没した。

マウリッツと縁のある人物や事物

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マウリッツの肖像画

マウリッツ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

佐藤弘幸『図説オランダの歴史』河出書房新社, 2019

Graham Darby(ed.), The origins and development of the Dutch revolt, Routledge, 2001

Marco van der Hoeven(ed.), Exercise of arms : warfare in the Netherlands, 1568-1648, Brill, 1998

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