三好達治は昭和の詩人(1900―1964)。はじめは軍人の道を進んで北朝鮮にも赴任した。だが、文学にも興味を持ち、東京帝大に入り、詩を発表した。フランス文学の翻訳を行いながら、詩集『測量船』で文名を高めた。日本の伝統詩と西洋近代詩を融合させた新しい詩を生み出した。三好は交友範囲が広かった。その中でも、三好が生涯の師として仰いたのは、これからみていくように、あの卓越した詩人だった。
三好達治(みよしたつじ)の生涯
三好達治は大阪で印刷業者の家庭に生まれた。早くから文学に興味を抱いた。父の意向で、陸軍の学校に入った。士官候補生となり、10代の終わり頃に北朝鮮に赴任した。1920年には、陸軍士官学校に進んだ。だが、実家が経済的に困窮していたため、1921年に中退した。
1922年、三好は京都に移り、第三高等学校に入った。桑原武夫や梶井基次郎らと知り合った。この頃には、詩をつくるようになった。
詩人として:師との出会い
1925年、高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部仏文科に入った。ここで、小林秀雄や堀辰雄らと知り合った。梶井基次郎らが創刊した同人誌『青空』に参加し、作品を発表した。
梶井が体調不良により、転地療養した。1927年、三好は梶井を見舞いにいった。その頃、詩人の萩原朔太郎や作家の川端康成らと知り合った。三好は萩原の詩に大きな影響を受け、生涯の師と仰ぐようになる。
フランス文学の影響:詩作と翻訳活動
1928年、三好は大学を卒業した。萩原の妹のアイとの結婚を望んだ。だが、萩原の母は文人は朔太郎だけで十分だとして、三好に結婚を望むなら一般の就職を求めた。三好はこれに応じ、書店に就職した。しかし、結局この結婚は破断となった。三好は文筆活動を本格的に開始する。
同年、フランスの昆虫学者ファーブルの『昆虫記』の和訳に取りかかった。また、フランスの詩人ボードレールの詩集『 巴里の憂鬱』の翻訳も始めた。さらに、詩誌『詩と詩論』を創刊した。
『測量船』
1930年には、最初の詩集『測量船』を公刊した。これは三好の処女詩集である。『測量船』は、優れた抒情詩集として高く評価されている。その言葉と韻律も甘美でみずみずしい。
その詩を読むことで、三好が描こうとする視覚的イメージが明確に伝わってくる。同時に、その内側に感傷を秘めている。このような特徴は、たとえば本書に所収された次の詩に表れている。例を二つあげよう。
乳母車
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
郷愁
蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
『測量船』によって、三好は国民的詩人として名を高めた。ここにおいて、日本の伝統詩と西洋近代詩を融合させた新しい抒情詩を生み出していった。
『南窗集』
1932年、三好は喀血して入院した。この頃に、親友の梶井を病気で亡くした。1934年には、岸田國士の仲介で佐藤智恵子と結婚した。
三好はフランスの詩人で田園詩を得意としたフランシス・ジャムの影響を受け、詩集『南窗集(なんそうしゅう)』を公刊した。ここでは、三好は四行詩を試みた。そこでは、他の日本近代詩とくらべて、より自由な口語体の詩を試みた。
また、『測量船』の頃と比べて、感傷を抑制し、自然をより客観的に捉え、きめ細やかなイメージを描き出している。彼の自然の捉え方が簡潔で澄んだものになったのは、俳句の影響であると指摘されている。
このような特徴はたとえば次のような詩にみられる。
家鴨
にび色の空のもと ほど近い海の匂ひ
汪洋とした川口の 引き潮どきを
家鴨が一羽流れてゆく
右を眺め 左を眺め
蟹
村長さんの屋敷の裏 小川の樋に
泥まみれの蟹がのぼつて
ひとりで何か呟いてゐる
新らしい入道雲が 土手の向うにのび上る
旅人
ひとたび經て 再びは來ない野中の道
踏切り越えて 菜の畑 麥の畑
丘の上の小學校で 鐘が鳴る
鳩が飛びたつ
鹿
午前の森に 鹿が坐つてゐる
その背中に その角の影
微風を間ぎつて 虻が一匹飛んでくる
遙かな谿川を聽いてゐる その耳もとに
三好達治の短歌
1934年には、三好は堀辰雄らと詩誌『四季』を創刊し、詩壇の一勢力を築いた。同時に、この時期には、三好は短歌制作にも精を出した。次のような歌には、南窗集に通底するものがある。
白骨温泉にて
うら山に
銃の音せり
時をへず またも音せり
鶫落ちけむ
日のあたる
石垣の裾の 鷄ら
たちて歩めり
一羽のこれる
落葉松の林に入りぬ
繍眼兒らは
われをさけつつ
枝うつりする
もろもろの
想ひのはてよ
落葉松のしづ枝にたちて
松の香をかぐ
古典への回帰
1930年代半ばから、日本は太平洋戦争ないし第二次世界大戦へと徐々に傾いていく。そのような時代状況の中で、詩人は定型的な文語詩を求められるようになっていった。
三好はこの時代の空気に順応し(1937年には『改造』の特派員として上海に派遣され、ルポルタージュを執筆した)、漢詩と古典への関心を強めた。1939年には詩集『艸(くさ)千里』を、1941年には『一点鐘』 を公刊した。それらには和歌や漢詩の要素が存分にみられた。たとえば、次のような詩が挙げられる。
新雪(『艸千里』より)
山山に 雪ふれり
秋ひと夜
山山に 新らしき雪はふりけり
この現つこそかなしけれ
岨みちに
年老いし馬は嘶き
鳥のまねする落葉らは
ななめに溪を下りゆく……
宴にいそぐ風情かな
山峽のこの山の間ゆ
見はるかす
國原遠く
稻の穗はいま熟すらむ 遠ちのしじまや
かぎろへる 遠ちのしじまをとりかこみ
ひとひらの雲もあれざる 鋭き峰に
鋭き峰々に 雪ふれり
雪ふれり 秋一夜
一夜へて 新らしき雪はかがよふ
信濃路や
みすず刈り刈る 鎌の音に
鶫どりはたとたちたり
木の間がくれをゆきゆきて
旅人なれば 石の上に
我れは憩ひぬ
うつつなき旅の心は
あなあはれ いづこにかなづさふべしや
うつつなる天地のうち
一点鐘二点鐘(『『一点鐘』』より)
靜かだつた
靜かな夜だつた
時折りにはかに風が吹いた
その風は そのまま遠くへ吹きすぎた
一二瞬の後 いつそう靜かになつた
さうして夜が更けた
そんな小さな旋じ風も その後谿間を走らない……
一時が鳴つた
二時が鳴つた
一世紀の半ばを生きた 顏の黄ばんだ老人の あの古い柱時計
柱時計の夜半の歌
山の根の冬の旅籠の
噫あの一點鐘
二點鐘
その歌聲が
私の耳に蘇生る
そのもの憂げな歌聲が
私を呼ぶ
私を招く
庭の日影に莚を敷いて
妻は子供と遊んでゐる
風車のまはる風車小屋
――玩具の粉屋の窓口から
砂の麺麭粉がこぼれ出る
麺麭粉の砂の一匙を
粉屋の屋根に落しこむ
くるくるまはれ風車……
くるくるまはれ風車……
卓上の百合の花心は
しつとり汗にぬれてゐる
私はそれをのぞきこむ
さうして私は 私の耳のそら耳に
過ぎ去つた遠い季節の
靜かな夜を聽いてゐる
聽いてゐる
噫あの一點鐘
二點鐘
戦争をめぐって:戦争詩
1942年には、師の萩原が没した。日本が第二次世界大戦に突入していく中で、三好は戦争詩『寒柝(かんたく)』などを公刊した。三好は当時の日本の戦争に煩悶や葛藤などを特に抱くことなく、日本への従来の愛着ゆえに戦争詩を制作したと評されている。
三好の詩の中でも戦争詩は比較的研究されてこなかったものである。戦争詩としては、たとえば上述の『艸千里』に次のような詩が所収されている。
おんたまを故山に迎ふ
ふたつなき祖國のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかの兵ものは つゆほども
かへる日をたのみたまはでありけらし
はるばると海山こえて
げに
還る日もなくいでましし
かのつはものは
この日あきのかぜ蕭々と黝みふく
ふるさとの海べのまちに
おんたまのかへりたまふを
よるふけてむかへまつると
ともしびの黄なるたづさへ
まちびとら しぐれふる闇のさなかに
まつほどし 潮騷のこゑとほどほに
雲はやく
月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々と樂の音きこゆ
旅びとのたびのひと日を
ゆくりなく
われもまたひとにまじらひ
うばたまのいま夜のうち
樂の音はたえなんとして
しぬびかにうたひつぎつつ
すずろかにちかづくものの
莊嚴のきはみのまへに
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
國のしづめと今はなきひともうなゐの
遠き日はこの樹のかげに 鬨つくり
讐うつといさみたまひて
いくさあそびもしたまひけむ
おい松が根に
つらつらとものをこそおもへ
月また雲のたえまを驅け
さとおつる影のはだらに
ひるがへるしろきおん旌
われらがうたの ほめうたのいざなくもがな
ひとひらのものいはぬぬの
いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる
うへなきまひのてぶりかな
かへらじといでましし日の
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ふたつなき祖國のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
萩原アイとの別れ
萩原朔太郎が没した後、1943年に三好は妻と離婚した。その後、福井県の三国町に移った。1944年、そこにアイが引っ越しし、ともに住むことになる。だが、当時はすでに戦争末期で厳しい生活状況だった。さらに三好はアイに暴力を振るっていたといわれている。そのため、1945年にはアイは三好のもとを去り、もはや会うことはなかった。
晩年
戦後、三好は東京都の世田谷区に移り、そこを終の棲家とした。1953年、『駱駝の瘤にまたがつて』などを発表した。同年、この詩集などにより芸術院賞をえた。1957年に『日本現代詩大系』を公刊した。
これにより、1958年には毎日出版文化賞をえた。1962年、それまでの成果を集めて『定本 三好達治全詩集』を公刊した。これにより、1963年には読売文学賞をえた。同年、師匠についての評論『萩原朔太郎』を公刊し、高い評価を得た。1964年、病没した。
三好の詩の特徴
三好はとくに萩原朔太郎と室生犀星の影響を受けたといわれている。三好の師の萩原朔太郎から、三好は 「形而上的な思想の面が欠けている」と批評されていた。三好は思想性に欠けているという評価と概ね同義である。
すなわち、三好の詩は物事への哲学的思索や深い洞察などを含むものではなかった。三好の特徴は抒情にあり、「拝情」にある。これは耽美主義や陶酔の詩情である。物事を美しく情緒豊かに描き直す。
同時に、三好の特徴はその詩情を自由奔放に表現するのではなく、むしろ韻律によって厳しく規制するところにもある。彼の詩の背後にはこのような自己規制が見て取れる。
三好達治と縁のある人物
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三好達治の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
三好達治の代表的な作品
『測量船』(1930)
『南窗集』(1932)
『艸千里』 (1939)
『一点鐘』 (1941)
『寒柝』(1943)
『駱駝の瘤にまたがつて』(1952)
『萩原朔太郎』(1963)
おすすめ参考文献
國中治『三好達治と立原道造 : 感受性の森』至文堂, 2005
杉山平一『三好達治風景と音楽 』編集工房ノア, 1992
吉田精一『日本近代詩鑑賞』創拓社, 1990