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モンテーニュ:どのような時代や経験が『エセー』をうみだしたのか

 ミシェル・ド・モンテーニュはフランスの作家(1533ー1592)。名家の生まれであり、彼自身もエリートの道を進んだ。だが30代半ばでそれまでのキャリアから身を引き、思索の道に移ろうとした。その成果は『エセー(随想録)』にみられた。フランスのルネサンスの主だった人物であり、当時の宗教戦争を終わらせるための活動にも従事した。モンテーニュの名言も紹介する。

モンテーニュ(Michel de Montaigne)の生涯

 ミシェル・ド・モンテーニュはフランス南西部のペリゴール地方で貴族の家に生まれた。幼少期から、モンテーニュは自宅で人文主義教育を受けた。ラテン語の教育を受けた。古典古代のウェルギリウスやホラティウスなどの著作に親しんだ。

 さらに、ボルドーのギュイエンヌ学院で学んだ。その時に、スコットランドの人文主義者ブキャナンにも師事した。トゥールーズの大学に移り、おそらく法学を学んだ。

 その後、ペリグーの御用金裁判所につとめた。1557年には、ボルドー高等法院の参議に任命された。
 そこでは、同僚のエチエンヌ・ド・ラ・ボエシーと親交を深めた。彼の人文主義に影響を受けた。だが、ボエシーは早々に没してしまった。モンテーニュは他の同僚の娘と結婚した。

 思索の生活へ:『エセー』の初版

 1568年、父が没した。モンテーニュは領主としての地位や財産を相続した。1570年、37歳のときに、彼は隠居して思索の生活に入ろうとした。そのため、ボルドー高等法院の参事を辞した。
 自身の邸宅に読書室を設けた。千冊ほどの古典書などに囲まれながら、思索と執筆を開始した。当時の私的図書室としては、大規模なものだった。

 1570年には、モンテーニュは上述のボエシーの遺稿集を編纂して出版した。その頃から、『随想録(エセー)』の思索と執筆を開始した。1580年、これを二巻本として、ボルドーで公刊した。

その思想の特徴

 本書では、モンテーニュは読書と経験や観察に基づいて、様々なトピックについて論じている。当時の政治・宗教的な問題だけでなく、日常的な話題をも扱っている。

複数の視点

 モンテーニュの主な関心の一つは、同一の現象を複数の視点からみたら、どうみえるのかということだった。複数の視点で考察する、あるいは相手の立場で考えてみる。こういった試みは今日からみれば当たり前のように思われるだろう。

 だが、当時はそうではなかった。むしろ、自分自身の信じる神や信仰を他者にも押し付け妥協しないような宗教戦争の時代でもあった(もっとも、これが当時の思潮のなかでどれだけ主流的だったかは議論の余地がある)。このような時代にあって、様々な視点にたって考えることを試みた。

自分自身の立場であること:特殊性と偶発性

 その際に、モンテーニュは『エセー』が自分自身の思索の試みであることを自覚し、そう明示した。
 よって、『エセー』で提示された議論やその結論が自分自身には通用しても他人には通用しないかもしれないと考えた。あるいは、16世紀のフランスの一部では通用するかもしれないが、時と場所が変われば通用しないかもしれない、と。

 『エセー』の内容をどう吟味し、受け入れるかどうかを決めるのは読者の自由である。このように、読者にたいして判断の自由を意図的に提示した点がモンテーニュの新しさの一つだった。
 モンテーニュは同一の現象を同一の視点で説明した場合に、その理論が普遍的に通用するのだというスタンスにたいして懐疑的だった。そのような哲学者の普遍主義的な態度からはしばしば距離を取ったのである。

 例外や特殊なケースを見逃さず、特殊性や偶発性にたいして開かれた態度をとった。あるいは、モンテーニュはそもそも哲学的議論のような体系的な論じ方からもしばしば距離を取った。
 その代わりに、モンテーニュは一貫して個人的な視点に立ち、自分自身を研究することを目的としていた。 モンテーニュは自身の内面を注意深く観察する。
 モンテーニュは自身の判断や嗜好そして身体のはたらきを明らかにする(このような試みの結果、自己や他者そして社会を認識するような近代的な自己が形成されたとも評されている)。書物はいまや社会的・文化的権威を伝達する物というよりも、自己認識や思索の記録となった。

穏健な懐疑主義

 本書の他の特徴として、懐疑主義的姿勢がある程度みられると評されている。16世紀のヨーロッパでは懐疑主義の思潮が復活するが、モンテーニュはこれに貢献したともいわれている。
 この懐疑主義は上述の特徴を言い直したものといえる。すなわち、一つの立場に深く立ち入って思考するが、これを絶対的なものとはみなさない。絶えず他の視点をも参照し、移動し続けようとする。

 ただし、モンテーニュは全ての知識や人間の営みを完全に否定したり転覆したりするような極端な懐疑主義は採用しない。この極端な懐疑主義もまたある意味で絶対的なスタンスである。そのため、モンテーニュは穏健な懐疑主義である。
 Que sais-je?という自身への問いかけ(私は何を知っているのだろうか)が有名である(クセジュ文庫の「クセジュ」である)。
 なお、モンテーニュ相対主義者として理解されることもある。

なぜ『エセー』か?

 このようにみてくると、モンテーニュが本書を『エセー』と名付けた理由も判明してくる。当時、エセー( essai)という単語は「試み」や「実践」そして「試金石」という意味をもっていた。本書はさまざまな「試み」に満ちている。モンテーニュは様々な観察、考察、議論を試みている。

  だが、これらの判断や観察などを究極的で普遍的な結論として提示してはいない。モンテーニュ自身がしばしば相矛盾する議論を二つ以上提示している。
 さらに、 自身の考察が彼自身の判断の産物であり、他の人とは異なるかもしれないと主張する。そのため、本書は自分自身の思索の試みであり、エセーなのである。

『エセー』での思索の例

 ここでは、当時のスペインによるアメリカの「発見」と征服にかんするモンテーニュの議論をとりあげよう。モンテーニュは具体的にどう論じていたのかがわかる。
 その背景からみていこう。周知の通り、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」した。コロンブスはスペイン王権のもとでこの航海を行ったので、スペイン人がアメリカの探検と征服を行っていた。たとえば、1519−21年に、スペイン人のコルテスがメキシコのアステカ帝国を征服した。
 モンテーニュはそのときの両者の接触を、あるいは征服の過程を、それぞれの視点から説明した。スペイン人の征服成功が馬や銃火器に大きく依存したという。馬と銃火器はスペイン人からすれば馴染みの深い戦争道具だった。

 だが、アステカ人には未知のものだった。アステカ人は当時の銃火器の大きな音や煙に圧倒された。アステカ人が圧倒的少数のスペイン人に征服された一因は馬や銃火器に驚愕したからだ、とモンテーニュは論じる。このように、モンテーニュは両者の視点を移動して論じている。
 モンテーニュは本書で、スペインのアメリカ征服を不正として批判した。当時、スペイン人は優れた人々が野蛮人を征服するのは正当だとして、アメリカ征服を正当化していた。

 ここでも、モンテーニュは視点の移動を行う。人はそれぞれ、自分の習慣でないものは何でも野蛮と呼ぶ、と。だが、実際には、アメリカの先住民は実直で欲望にとらわれず、徳の高い人々である。強欲で横暴なスペイン人がこのような優れたアメリカ先住民を滅ぼした。すなわち野蛮なのは先住民ではなくスペイン人だ、と。
 ちなみに、このような批判は当時のフランスやイギリスなどで登場し始めていた。もともとは、これはスペイン人のラスカサスが1550年代の著作で行っていた批判だった。
 それが、当時の強大なスペイン帝国に脅威を感じた人々に影響を与え、スペイン批判のために利用された。モンテーニュもまたこの流れに属した。その背景には、これからみていくように、フランス宗教戦争でのスペインの脅威があったといえる。

 以上のように、モンテーニュは象牙の塔にこもっていたのではない点でも哲学者ではなかった。モンテーニュがどのような時代状況の中で、どのような役割を担っていたのかを知ることは、『エセー』の性格を理解する上での不可欠である。

フランス宗教戦争の渦中へ

 同時期、フランスで宗教戦争の嵐が吹き荒れる中で、モンテーニュはそれとは無関係にただただ隠居して思索と著作に打ち込んだ。そう思う人もいるかもしれない。そうだとしたら、そのイメージは誤りである。

 モンテーニュは宗教戦争の中で調停役として活動することもあった。フランス宗教戦争は1517年のドイツでのルターの宗教改革以降の流れに属している。当初、フランス王権は宗教改革運動にたいして敵対せず、むしろ好意的でもあった。

 だが、1534年の檄文事件(カトリックを偶像崇拝と断じたポスターが各地に貼られた事件)などをきっかけとして、王権はこの運動を厳しく取り締まるようになった。

 改革派はスイスなどに亡命した。有名な神学者カルヴァンなどがスイスからフランスの宗教状況に影響力を行使し、フランスでの宗教改革を推進した。フランス貴族の一部がこれを支援した。

 1562年、ついに、フランスでのカトリックとプロテスタントの対立は宗教戦争という内戦に至った。そこでは、カトリックのフランス王権とプロテスタント諸侯および熱烈なカトリック諸侯の三者の勢力図がみられるようになった。この戦いは激しさを増し、フランスの内部分裂を激化させた。

 たとえば、1572年のサン・バルテルミの虐殺が有名である。カトリック王権がプロテスタントの主要な諸侯をパリで騙し討ちにした事件である。この知らせがパリ市内に届き、カトリックのパリ市民は市内でプロテスタントの虐殺を開始した。

 さらに、このような虐殺はフランス全土に波及した。プロテスタントは犠牲者を尊い殉教者とみなし、復讐の炎を燃え上がらせた。
 それまで身体が神聖にして不可侵とされてきたフランス国王の命すら奪っても問題ないという理論がプロテスタントから出されるようになった。これは暴君征伐論と呼ばれている。

モンテーニュの立場:ポリティーク

 このような宗教戦争がフランスを滅亡させるのではないか。そのような危惧を抱く人々が登場し、一つの政治勢力を形成するようになった。
 彼らはプロテスタントを滅ぼそうとして国が滅ぶよりも、一定の宗教的寛容をプロテスタントにも認めて平和を取り戻すべきと訴えた。

 モンテーニュもこのグループに属した。これはポリティークと呼ばれている。新旧両派への調停活動はこの戦争を終わらせる活動の一環だった。

 1580年、モンテーニュは上述の『随想録』を一通り出版できたので、旅行にでかけた。ドイツやオーストリア、スイスとイタリアを訪れた。イタリアでは湯治をおこなった。この旅行記が1774年になって公刊されることになる。

 ボルドー市長へ

 1581 年、モンテーニュはイタリア滞在中に、ボルドーの市長に選ばれたという知らせを聞いた。フランス王アンリ3世の要請だということもあり、引き受けた。
 最初の二年間は平穏に過ぎた。だが、最後の二年間は宗教戦争の対立に直面した。1585年、任期の末期でペストがボルドーを襲い、人口が激減した。

当時のボルドー

 この時期もモンテーニュはボルドーの新旧両派の調停に尽力した。また、1583年には国王アンリ3世とプロテスタント側のリーダーのアンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)の交渉にも関与した。

 再び思索と著述へ

 任期満了後、モンテーニュは再び思索の生活に戻ろうとした。『随想録』の加筆を開始した。だが、宗教戦争の影響で避難を余儀なくされたこともあった。
 また、カトリックでかつての皇太后カトリーヌ・ド・メディシスがプロテスタントのリーダーのアンリ4世と対立した際には、調停役を依頼されたりもした。

 ただし、うまくいかなかった。そのような宗教戦争の渦中へと引き出されることもある状況のなかでも、モンテーニュは思索を続けた。1588年に『随想録』を三巻本で公刊した。 

 その後、モンテーニュは没するまで思索と著述に時間を費やした。1592年に没した。『随想録』の増補版が1595年に公刊された。

 領主としての活動

 モンテーニュがそもそも公職を辞して思索と著述に専念できたのはなぜか。それはモンテーニュの家系が新興ブルジョワ貴族だったからである。 モンテーニュの家系はもともと商人だった。

 ミシェルの曽祖父が商人として蓄財に成功し、15世紀後半にペリゴール地方のモンテーニュという地の領地を貴族から購入した。そこから、ブルジョワ貴族のモンテーニュ家が形成された。

 モンテーニュ家の社会身分の上昇は当時の一般的な動向に合致していた。15世紀後半から16世紀なかばまで、フランスでは人口が増大し、経済や商業が発展した。ミシェルの曽祖父もこの中で成功した商人の一人である。

 さらに、物価が上昇した。旧来の貴族は相対的に生活が苦しくなってきた。そのため、商業で成功したブルジョワは彼らの領地を買えるようになった。

 この新興ブルジョワ貴族は子孫に商人の職を継がせるよりも、教会や行政や法律などのより良い仕事につかせようとした。そのために人文主義教育を施すようになった。
  3世代にわたって貴族の土地を所有し、商業から身を引いた場合には、貴族として社会的に認知されるようになり、貴族としての諸特権を得られた。

 ミシェルの祖父は商人となったが、子どもたちに教会や法律の職業に就かせるのに成功した。ミシェルの父がモンテーニュの領地を管理し、城を修復してそこに住むようになった。ミシェルの父は三代目だったので、貴族となった。ミシェルはこの城で生まれた。

 ミシェル・ド・モンテーニュにとって、領主としての財産管理も仕事の一つだった。当時のフランスは人口の8割以上を農民が占めていた。モンテーニュは自身の城で主にブドウ畑の管理をしており、領地の農民と普段から交流をもっていた。

 フランス宗教戦争によって、飢餓やペストがフランスを襲うようになり、農民は厳しい生活を強いられるようになる。反乱を起こす農民もでてきた。
 モンテーニュは領主としてこのような状況下で領地管理も行っていた。モンテーニュはこのような実務をこなしながら、『エセー』の思索と著述を行っていた。

 モンテーニュの意義

 モンテーニュは『随想録』により、個人的な随想録という新たな文学形式をうみだし、後世に影響を与えた。
 18世紀にはフランスの哲学者ヴォルテールがモンテーニュを「狂信者の中の哲学者」と呼んで称賛した。現在では、懐疑主義や相対主義などと関連付けて論じられやすい。

 モンテーニュの名言

死はたしかに人生の終着点だが目的ではない

私は私に旅行の理由を尋ねる人に、たいていこう答える。私は何を探しているのかではなく、何から逃げているのかをよく理解している。

たとえ私達が他人にかんする知によく精通することができたとしても、少なくとも自分自身の知に関してのみ精通することができる。

私たちに何かを禁じることは、私たちにそれを妬ましくさせることだ。

暗記するということは、知ることではない。それは自分が与えたものを自分の記憶の中に保管しておくことだ。

いつも一人でいることよりも、もはや一人でいることができなくなることのほうが耐え難い。

ゴールを通り過ぎた者は、それに到達していない者と同じくらい、それをとり逃している

私たちは自分で思っているよりも豊かだ。しかし、なにかを借りたり求めたりするよう仕向けられている。

よい結婚とは、目が見えない妻と耳が聞こえない夫のそれだろう。

モンテーニュ

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おすすめ参考文献


大西克智『『エセー』読解入門 : モンテーニュと西洋の精神史』講談社, 2022
山上浩嗣著『モンテーニュ入門講義』筑摩書房, 2022

Fausta Garavini, Montaigne : politique, religion, culture, Classiques Garnier, 2021

Ullrich Langer(ed.), The Cambridge companion to Montaigne, Cambridge University Press, 2005

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