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ナポレオン・ボナパルト3世

 ナポレオン・ボナパルト3世は19世紀フランスの大統領で皇帝(1808ー1873)。ルイ・ナポレオンとも呼ばれた。フランス第二共和政においては、著述活動などを通して支持を獲得し、大統領に選ばれた (1850ー1852)。クーデターによって帝政を誕生させ、皇帝に即位した (1852 ー1870)。
 20年間の治世では、フランスの経済発展やインフラの近代化、クリミア戦争やイタリア統一戦争への関与などを行った。以下では、ナポレオン3世と日本の関係についてもみていく。

ナポレオン3世(Napoleon III)の生涯

 ナポレオン3世はフランスのパリで生まれた。父はナポレオン1世の弟だった。ナポレオン3世は皇帝に即位するまでルイ・ナポレオンと呼ばれた。

 ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗北し、失脚した。そのため、ボナパルト家はフランスから追放された。ルイ・ナポレオンはスイスで長らく暮らした。1830年代、イタリアでの反乱に参加した。

 フランスでの権力掌握の試み:どのように支持を獲得していったか

 1832年、ナポレオン1世の一人息子が没した。そのため、ルイ・ナポレオンがボナパルト家の当主となった。ここから、ルイ・ナポレオンはナポレオン1世のように皇帝として君臨するための準備を本格化させた。

著述活動

 たとえば、同年、『政治的な夢』を公刊した。そこで、フランスにナポレオン1世の時代のような栄光と自由を取り戻すことができるのは皇帝だけであると論じた。もちろん、自らがそれになるというつもりである。
 1839年には、『ナポレオン的思想』を公刊した。この時期、フランスではナポレオン1世の時代を栄光の時代として懐かしむ人々が一定数存在した。あるいは、現状の7月王政に不満を抱く人々もいた。ルイ・ナポレオンはこのような人々の支持を得ようとした。

 本書において、ルイ・ナポレオンはナポレオン的思想の特徴をこう説明する。それは社会や産業および貿易の発展や人道を推進するものである。そこでは、国民の権利と権威が、さらには秩序と自由が調和する。

 ルイ・ナポレオンがこのような思想をフランスで実現することは神の摂理であり、それによってフランスはさらに進歩していく、と。このような仕方で、ルイ・ナポレオンは民衆への支持を拡大しようと試みた。

 ただし、彼は当初、政治家としては冴えない人物だった。彼のフランス語はドイツ訛りでたどたどしく、演説が下手だった。では、どのようにしてルイ・ナポレオンは支持を獲得していったのか。

軍事行動

 著述での宣伝活動のかたわら、ルイ・ナポレオンは軍事行動によってフランスでの実権を得ようと画策した。たとえば、1840年、ルイ・ナポレオンはフランスで反乱を行った。だが失敗し、逮捕された。監獄代わりの要塞に終身の禁錮刑となり、投獄された。

 再び著述活動

 その間、勉学に励んだ。同時に、反体制派の人々と関係をもち、彼らの新聞などに自身の記事を投稿した。1844年、パンフレット『貧困主義の撲滅』を公刊し、社会と経済の改革プログラムを示した。
 ナポレオンはこれらの著述活動により、次第に支持者を獲得し始めた。特に、労働者や農民は彼を社会の救世主とみなすようになった。
 この時期の7月王政が様々な混乱や無秩序を引き起こしていたのも、支持獲得の一因だった。1846年には、ナポレオンはロンドンに脱出するのに成功した。

 フランスの大統領へ

 転機は1848年の二月革命だった。この革命により、フランスは王政から共和政に移った。この新たな共和政のもとで、選挙が実施された。
 ルイ・ナポレオンの支持者の一部が小さなボナパルティスト党を結成し、彼を議員候補に指名した。ナポレオンは選挙で当選し、議員に選出された。さらに、同年末、大統領選挙に出馬した。
 ここでは、扇動者としての才能を発揮した。たとえば、ルイ・ナポレオンは自身がナポレオン1世の栄光の時代を再来させるとして、ナポレオン1世の名前を積極的に利用した。ナポレオン1世の名前は最も素朴な農民でさえ知っているほど知名度が高かったのである。

 さらに、2月革命が起こるほど現状への不満が高まっていた中で、ナポレオン1世の栄光の時代への憧れや追憶は強まっていた。ルイ・ナポレオンはナポレオン1世のようなフランスの救世主としての役割をアピールした。

 ルイ・ナポレオンはナポレオン1世と同様に、当時のロマン主義的な崇拝の対象となるほど人気が高まっていった。
 農民やブルジョワには彼らが革命の混沌の時代において求めている秩序を、下層民には支援を約束した。その結果、540万票の圧倒的勝利を得て、大統領に当選した。

 大統領として:議会との対立へ

 ルイ・ナポレオンは自身の権力を着実に拡大していった。だが、他の議会勢力と対立し、思うような政権運営を行えなかった。そこで、敵対勢力の不人気な政策を利用して、自身の人気をさらに高めることにした。

 たとえば、議会では300万人の貧困層の選挙権を剥奪する政策が可決された。ナポレオンはこれを大々的に批判し、下層民からの支持をさらに高めた。
 ほかにも、ナポレオンはカトリックのフランス人の支持を強めるべく、カトリック系の学校を設立する自由を認めた。
 その背景として、フランス革命によって、フランスでは教育からキリスト教が排除されていた。そのため、この政策はナポレオンの反動を示すと考えられた。
 ナポレオンはさらに権力基盤を固めようとした。だが、現行の憲法がその妨げとなった。大統領の任期は4年間で、再選禁止だったからである。
 そこで、ナポレオンは憲法改正を合法的に進めようとした。だが、そのために必要な議員の同意を集められなかった。

 クーデターから第二帝政へ

 そこで、ナポレオンは1851年の12月、議会を軍によって解散させ、次のようにクーデターを実行した。11月末までに、ナポレオンはこの計画を立て、軍隊を確保していた。12月1日から2日の夜に、行動を起こした。 党の幹部は逮捕され、議場は軍隊に占拠された。

 夜の間に、議会の解散を告げる大統領の文書がパリ中に貼り出された。そこには、こう書かれていた。
 議会が内戦のために武器を調達していたので、解散された。大統領の義務は共和制を維持することであり、大統領自身がフランスで唯一の主権者の人民による厳粛な審判を仰ぐ、と。
 ナポレオンは議会が否定していた普通選挙制を再び導入した。さらに、新しい共和制憲法を国民投票の評決にかけると発表した。こうして、自身が人民の守護者であるとアピールした。

 だが、クーデターへの反対は生じた。たとえば、220人の代議士が抗議し、短期間投獄された。ほかにも、文学者として有名なヴィクトル・ユゴーが共和派の代議士として抗議運動を展開した。しかし、ナポレオンの人気にはかなわなかった。
 1852年、ナポレオンは憲法を改正し、フランスを共和制から帝政へ移行させた。1853年、自ら皇帝ナポレオン3世に即位した。

 ナポレオン3世の功績

 国内政策:産業発展

 ナポレオンは20年間の治世において、自由貿易政策と産業革命を推し進めることで、経済的発展をもたらした。鉄道など、近代的なインフラの整備を行った。特に、都市パリの近代化と大改革を遂行した。

 19世紀の発明ブームの中で、発明家を積極的に支援した。発明や産業とインフラの発展の関連で、1855年と1867年にパリ万国博覧会を開催した。
 そこには日本もパビリオンを出展した。その結果、日本の浮世絵がフランスの印象主義に影響を与えるなどのインパクトがみられた。
 同時に、ナポレオンは下層階級を支援する政策も展開した。たとえば、パンの価格を定めて、彼らの生活を安定させた。1860年代には、経済政策などの様々な面で自由主義的な政策を進めた。ストライキの権利や結社の自由を認めた。
 このような政策ゆえに、中産階級はナポレオンを空想主義的な社会主義者だとみなした。また、報道の自由などを認めたが、しばしば大きな制限を付していた。
 これらの政策をめぐって、たとえばヴィクトル・ユーゴーらと対立した。ユーゴーはこの時期に議員としても活躍していた。

国外政策:クリミア戦争

 対外関係としては、国内での人気や対外的な威信を高めるために、1854年にクリミア戦争の引き金をひいた。これにより、イギリスなどと同盟を組んで、ロシアの南下政策を阻止するのに成功した。

イタリア統一戦争

 クリミア戦争には、イタリアのサルディーニャもまたフランスの同盟国として参加していた。この時期、イタリアはまだ統一国家として独立しておらず、オーストリアなどの支配下にあった。

 19世紀、イタリアでは独立するための運動が活発に行われていた。サルディーニャがクリミア戦争に参加したのは、イタリア独立運動へのナポレオンの支援を得るためだった。
 ナポレオンはこの期待にこたえた。イタリアからオーストリアを追い出すために、軍隊を派遣した。1859年には勝利を重ねた。だが、他国の介入の可能性やイギリスからの疑念の眼差しを考慮して、ナポレオンはこの戦いから手を引いた。

 それでも、まもなく、イタリアは統一と独立に成功する。このように、ナポレオンはイタリア統一に一定の貢献をしたといえる。ちなみに、クリミア戦争に参加したサルディーニャの国王エマヌエーレ2世がイタリアの初代国王となった。

植民地帝国の構築

 ナポレオンは活発に海外への拡張を推進した。その目的は国内での経済発展を促進する一環で、商品の輸出先を拡大することだった。
 さらに、フランスの偉大さを復活させようという狙いや、ヨーロッパ文明とキリスト教を西欧以外の地域に伝播させようとする狙いもあった。
 具体的には、アフリカでは、ナポレオンは1857年頃にはアルジェリアの征服を完了した。セネガルやギニアにも派兵し、植民地を形成した。アジアでは、1858年にはイギリスとともに中国に介入し、1859-60年には北京への遠征に参加した。

 インドシナにも進出し、カンボジアなどに保護領を設置した。インドシナの植民地への往来を容易にするためにも、エジプトのスエズ運河の建設を支援した。
 エジプトは当時、フランス資本で急速に発展していた。中東では、1860年にシリアに遠征し、レバントへの従来の利害関心を強めた。

 ナポレオン帝国の終わりへ:メキシコ出兵

 ナポレオンの対外拡張政策の中で、メキシコ遠征が痛手となった。19世紀、メキシコはかつての宗主国スペインから独立を果たしていた。だが、その独立戦争などで多額の借金をした。フランスはイギリスとともに、この借金を支払わせようとして、1861年にメキシコ遠征を開始した。
 このメキシコ遠征において、ナポレオンは他の目的ももっていた。第一に、メキシコを新たな豊かな国に作り変えることで、フランス製品の輸出先にすることである。
 第二に、国内のカトリック勢力の支持を強めることである。メキシコはカトリックの国だった。ここにフランスの真のカトリックを広め確立するという政策は、フランスのカトリックの人氣を得るのに適していた。
 第三に、アメリカ合衆国という新たなライバルと競うためである。アメリカ大陸でアメリカ合衆国の勢力を抑え込むための有用な道具としてメキシコを利用しようとした。

その失敗

 しかし、メキシコ遠征は失敗した。ナポレオンはオーストリアのマクシミリアン大公を新たなメキシコ皇帝に据え、フランスから軍隊と資金を送った。だが、ナポレオンはメキシコ人の根強い抵抗に打ち勝つことが出来なかった。
 この時期、アメリカ合衆国では南北戦争が、すなわち内戦が行われていた。南北戦争が終結する見通しが立った。アメリカ合衆国はフランスがモンロー主義(南北アメリカの外部の国がアメリカに干渉するのに反対する主義)に反するとして、フランスを威嚇し始めた。

 ナポレオンはアメリカ合衆国と戦争することを避けた。そのため、1867年、メキシコから撤兵した。後ろ盾を失ったメキシコ皇帝マキシミリアンはその後、メキシコ人によって殺害された。

普仏戦争

 それまでの間に、フランスはプロイセンと様々な点で利害対立を繰り返していた。プロイセンがスペインと結合する可能性がでた際に、ナポレオンはこれを阻止しようとした。

 その結果、1870年、ついにフランスはプロイセンと戦争を開始した。ナポレオンはすでに病気で弱っていた。自ら捕虜となり、皇帝の地位から追放されることになった。フランスは第二帝政から第三共和政に至る。かくして、ナポレオンの時代は終わった。

 ナポレオン3世と日本

 ナポレオン3世は当時の日本人にとって、いわば叔父の威光で光り輝く存在としてみられた。重要なのはやはりナポレオン1世である。
 日本人がナポレオン1世を最初に知ったのはおそらく1812年のことだ。当時、日本はヨーロッパ諸国の中ではオランダのみと公式の交流を行っていた。だが、ロシアやイギリスが日本への進出を図っていた。1812年、いわゆるゴロウニン事件で日本に到来したロシア人を通して、幕府はナポレオン1世を知ることになった。
 その頃、ナポレオン1世はヨーロッパで快進撃を続けていた。1789年のフランス革命に際して、周辺国はフランス革命を失敗させようとして干渉戦争を開始した。フランスは当初、危機的状況に陥った。

 だが、ナポレオンなどの軍事的勝利のおかげで、フランスは周辺国の攻撃を押し返した。さらに、周辺国への進出を開始し、ドイツやオーストリア、ポルトガルなどを制圧していった。トラファルガーの戦いではイギリス本島にも攻撃を仕掛けた。さらに、ロシアとも戦争を開始した。

日本での評判

 日本では、幕府はオランダ人からナポレオン1世について聴取した。19世紀初頭の日本はイギリスやロシアを外的脅威とみなしたため、ナポレオン1世は日本自身の関心を惹起した。その結果、ナポレオン1世は内憂外患の日本の危機を乗り越え、イギリスとロシアの外敵から日本を解放する救世主のような人物とみなされるようになった。
 この頃、上述のように、ナポレオン3世は1857年に中国へ干渉した。同時期、日本は幕末だった。ペリーによる日米和親条約以降、1858年にフランスも徳川幕府と条約を結んだ。1862年と1864年、幕府はヨーロッパに使節を派遣した。

 その際に、使節はパリのチュイルリー宮殿でナポレオン3世に謁見した。1864年にはフォンテーヌブロー城を見学した。その頃にナポレオンに贈答した甲冑がこの城の博物館に現在も保管されている。ナポレオン3世はナポレオン1世と同様の威光に輝く人物とみなされた。
 その後、日本は幕末から明治維新に至る。駐日のフランス大使たちはこの薩長同盟と幕府の対立を理解した。イギリスが薩長同盟に味方するのに対し、フランスは最終的に幕府に味方した。

 当時の東アジアにおけるイギリスとの植民地競争がその背景にあった。結局、幕府が敗北し、フランスはこの賭けに失敗したことになる。まもなく、ナポレオン3世自身が失脚することになる。

 ナポレオン3世と縁のある人物

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ナポレオン3世の肖像画

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おすすめ参考文献

ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』幸田礼雅訳, 白水社, 2010

高村忠成『ナポレオンIII世とフランス第二帝政』北樹出版, 2004

Xavier Mauduit, Napoléon III, PUF, 2023

François Lachaud(ed.), D’un empire, l’autre : premières rencontres entre la France et le Japon au XIXe siècle, École française d’Extrême-Orient, 2021

J.P.T. Bury, France, 1814-1940, Routledge, 2003

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