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皇帝ネロ:壮健な暴君

 ネロは古代ローマの皇帝(37ー68 )。放蕩や贅沢、迫害などで暴君として後世に広く知られることになった。同時代の著名な哲学者で自身の教育係でもあったセネカを死に追いやったことでも知られる。

目次

ネロの生涯:出自と幼少期

 ネロは貴族の出身だった。父は貴族のグナイウス・ドミティウス・アヘノバルブスで、母はアグリッピナである。母は、皇帝アウグストゥスの曽孫にあたる。フルネームはネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス

 父が没した後、母は当時の皇帝クラウディウス1世と結婚した。その際に、この新たな家庭にネロを養子として迎えた。さらに、ネロを皇帝の後継者にすべく画策した。たとえば、皇帝の娘オクタウィアと結婚させた。さらに、当時名声を得ていた哲学者セネカを彼の家庭教師にした。そのようにして、ネロを皇帝にふさわしい身分に引き上げようとした。

 ついにネロは皇帝の次期後継者になった。それでも、母は満足できなかった。そこで、54年、皇帝クラウディウス1世を殺害した。かくして、同年、ネロが皇帝に即位した。

初期の皇帝ネロ

 ネロは当初から暴政を振るっていたわけではない。当初は、セネカや近衛長官 のブルスの進言を用いた。元老院の役割に重きを置き、属州を防衛するなどした。

 だが、母はネロの統治に介入してきた。母はネロが自身の傀儡にならないことを悟ると、クラウディウス1世の子ブリタニクスを新たな皇帝候補として擁立しようとした。ネロはブリタニクスを毒殺した。さらに、59年には、母をも殺害することになった。

暴君ネロ

 ネロの政治は次第に暴政へと変わっていった。セネカは権力の中枢から遠ざけられるようになった。ネロは享楽と芸術に没頭し、愛人らが政治を左右するようになる。

 そのような中で、ネロが暴君と呼ばれるようになる契機の一つが起こる。64年、ローマで大火が生じ、この都市の半分ほどが焼失した。ローマ市民はこれをネロの仕業とみた。ネロはその矛先をそらすために、当時広まりつつあった新興のキリスト教徒に責任があると断じた。彼らを多数捕らえて、火刑などに処した。

 この頃になると、ネロを打倒しようとする陰謀が次々と計画されるようになる。65年、その一つが露見した。セネカはその関与を疑われ、自決するよう命じられた。セネカはかくしてこの世を去った。この一件もネロの暴君としての有名なエピソードとなる。のちに、絵画や版画の画題として広まることになる。

 ネロはギリシアへ向かった。オリンピアでの競技を開催した。自ら参加し、八百長によって優勝した。なお、身体能力が特に優れていたわけではないが、不摂生な生活を繰り返していた割に、ほとんど病気にならないほど健康な体をもっていた。

ネロの最期

 68年、スペインなどで反乱が次々と起こった。元老院はネロに死刑を宣告した。ネロはついに軍隊にも突き放された。そのため、ローマからただ脱出するほかなかった。逃亡のさなか、逮捕されるよりも自決を選んだ。かくして、この世を去った。

ネロと縁のある人物

セネカ:幼少期のネロの教育係であり、のちにネロのもとで政務を担当した。セネカを死に追いやったことがネロの暴君と呼ばれる最たる理由だった。死の恐怖を超越しようとする哲学者セネカと暴君ネロの対比は後代の文学や芸術の主題となった。

アウグストゥス:ネロの曽祖父で、古代ローマの最初の皇帝。当時、ローマは内乱の状態にあった。アウグストゥスはこれを収め、ローマに平和と繁栄を与え、黄金時代を到来させた。

ネロの肖像画

皇帝ネロ 利用条件はウェブサイトにて

おすすめ参考文献

バリー・ストラウス『10人の皇帝たち : 統治者からみるローマ帝国史』森夏樹訳, 青土社, 202

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この記事を書いた人

国内の大学院を修了した歴史系の独立研究者です。

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