岡倉天心は明治から大正に活躍した官僚で美術家(1862―1913)。東京帝国大学のフェノロサによる日本古美術の復興運動に尽力すると同時に、弟子の横山大観らとともに西洋美術を摂取した新しい日本画の樹立を推進した。さらに、万博への日本出展での貢献や講演を行い、あの世界的に有名な本を英語で出版するなどして、日本の美術や文化を西洋にしかるべき仕方で紹介した。
岡倉天心(おかくらてんしん)の生涯
岡倉天心は横浜で福井藩士の家庭に生まれた。名は覚三であり、天心は号である。1853年にアメリカからペリーが浦賀に来航して以来、1859年に横浜が開港され、西洋列強が日本との貿易を始めた。岡倉天心の父は藩士として横浜での商いに携わっていた。
天心は幼少から漢学と英語を学んだ。1874年、一家は東京に移った。天心は東京開成学校に入り、1877年には東京帝国大学に進学して政治学と理財学を学んだ。また、お雇い講師フェノロサの講義にも出席した。1880年、大学を卒業した。
フェノロサと日本美術への貢献:新しい日本画
1880年、天心は文部省につとめ始めた。当時、西洋列強に追いつき追い越そうとする明治日本の中で、日本美術は日本人によっても低く評価されがちだった。だが、フェノロサはこの日本美術の価値を再評価しようと試みていた。天心は優れた語学力を見込まれ、当初は通訳などとしてそれに協力した。
そこで、古社寺の調査などに参加して、日本の古美術の研究を進めた。同時に、天心はフェノロサなどともに、西洋美術を吸収した新しい日本画の制作も推進した。これらの目的のために、1884年、鑑画会を設立した。
さらに、1886年、天心はフェノロサとともに、文部省の任務として、ヨーロッパで美術関連の視察を行った。視察を通して、天心は日本人が安易に西洋美術を日本に導入して模倣するのではなく、日本の伝統と社会のもとで育ってきた日本美術を発展すべきと考えた。ただし、日本美術は海外との主要な交易品となるので、海外のニーズに合わせた形で発展すべきとも考えた。
このように、天心はフェノロサとよく協力し合った。ちなみに、天心は後に東大での「泰東巧芸史」において、フェノロサをスペンサー主義かつヘーゲル主義と評することになる。
すなわち、芸術をスペンサー主義のように社会学的な観点から捉え、社会的進化や発展の形式として研究した。同時に、芸術をヘーゲル主義のようにある時代や民族の理念や精神の表れとして捉えた、と。
東京美術学校(東京藝術大学)の設立:校長へ
1887年、天心は帰国し、視察の成果を活かして、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立に寄与した。1890年には、29歳で、その校長となった。日本美術史の講義を行った。第一期の学生として、横山大観などが入学した。
同時に、天心は日本の古美術の調査や保存にも寄与した。日本全国の国宝について調査を進め、日本の優れた作品を適切な仕方で管理するために帝国博物館の設立に尽力した。1890年には、帝国博物館の美術部長となった。また、同年、第3回の内国勧業博覧会で審査官をつとめた。この経験が、後述のように、万博でのキャリアにつながる。
日本美術院の創設へ
1898年、東京美術学校で内部対立が生じ、校長の天心が辞任することになった。これは東京美術学校での西洋化政策の強まりも一因だった。天心は帝国博物館の職も辞任した。
そのかわりに、天心は橋本雅邦(はしもとがほう)、横山大観(よこやまたいかん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)らとともに、日本美術院を創設した。新しい日本画の制作に邁進した。
海外への日本美術・文化紹介:横山大観らとともに
さらに、天心は活動を海外にも広げた。1893年のカナダ万国博覧会では、天心は評議員に選ばれた。日本の絵画や彫刻などの真価を認めてもらうべく、様々な工夫を行った。たとえば、当時の万博では、日本絵画は美術品ではなく装飾品として、より低い価値しか認められていなかった。
そこで、天心は画題として西洋で絵画として認識されやすい肖像画などを優先させることで、日本画を美術品として承認させるのに成功した。1900年のパリ万博の準備でも評議員として貢献した。
英語での著述活動へ
1903年には、天心は英語で『東洋の理想』を公刊し、日本の美術や文化を海外に紹介し始めた。この背景には、1893年の中国視察や1901年のインド旅行があった。これらにおいて、天心はそれぞれの美術を調査するとともに、西洋列強の植民地支配の現状をも観察した。そこで、東洋の真の価値を、とくに日本の価値を西洋に示そうと試みた。
1904年、アメリカでセントルイス万博が開催された。ここでは、天心は学者として招聘された。「絵画における近代の問題」という題目の講演が好評を博した。その結果、美術史家として名声を高めた。
同年、天心はアメリカのボストンに横山大観らととも、に渡り、ボストン美術館の東洋部顧問となった。なお、このボストン美術館の東洋部はフェノロサが創設にかかわったものだった。翌年には東洋部長となり、アメリカで定期的に仕事を行った。
1906年には、天心は『茶の本』を公刊した。本書は茶の湯を日本の生活文化の一つとして、あるいは芸術として紹介したものと評されている。本書を契機として、茶道の著作が他の著者によっても執筆されるようになった。そのため、茶道の著作の先駆としても知られている。
拠点を茨城へ:五浦の六角堂
1903年、天心は茨城県五浦を気に入った。そのため、1905年、邸宅と六角堂を自らの設計で建てた。1906年、日本美術院をそこに移し、横山大観などとそこに移住した。その後は、ボストンと五浦を拠点とした。なお、六角堂は現在、茨城大学の研究所となっている。
1907年には、天心は文部省の美術審査委員会の委員となった。1910年には東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義した。その後も国際的に活動したが、1913年に病没した。ちなみに、生前は岡倉覚三を名乗っていた。海外でもこの名前で知られた。
岡倉天心の『茶の本』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
岡倉天心の代表作です
岡倉天心の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
岡倉天心と縁のある人物
●横山大観:岡倉天心の弟子。近代の日本画家の第一人者の一人。
岡倉天心の代表的な著作
『東洋の理想』(1903)
『日本の目覚め』(1904)
『茶の本』 (1906)
おすすめ参考文献と青空文庫
斎藤隆三著『岡倉天心』吉川弘文館, 2020
大久保喬樹『岡倉天心と思想』玉川大学出版部, 2021
岡倉登志『岡倉天心『茶の本』の世界』筑摩書房, 2024
※岡倉天心の多くの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person238.html)。