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オスカー・ワイルド:世紀末のダンディズム

 オスカー・ワイルドは19世紀後半のイギリスの(劇)作家(1854―1900)。芸術を人生の中心に置く審美主義的言動や、機知に富んで華やかな振る舞いなどで、世紀末の社交界の華となった。『サロメ』などの作品を世に送り出し、当時の社会風俗を描きながら風刺も展開した。だが最後は社交界を追われることになる。

オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の生涯

 ワイルドはアイルランドのダブリンで医者の家庭に生まれた。父は医者をしながら、文学や民俗学などにも興味をもっていた。母は詩人だった。

 ワイルドはダブリンのトリニティ・カレッジとイギリスのオックスフォード大学で学び、1878年に卒業した。その年、早くも詩を発表して成功を収めた。
 この頃には、ワイルドはペイターの審美主義的で芸術を人生の中心に置く考えに強く影響を受けた。

 作家としての活躍

 1880年代に入り、ワイルドは華やかな風姿や振る舞いと機知によって社交界に華々しく登場した。世紀末の社交界で「ダンディズム」の体現者として活躍した。
 1881年には『詩集』を公刊した。アメリカで講演を行い、その艶かしさや言動で注目を浴びた。

 1884年、ワイルドは結婚した。1888年には、子どもたちのために、童話『幸福な王子とその他の物語』を制作した。ワイルドの童話の特徴については後述する。

 1891年に『意向集』を公刊し、フランスの詩人ボードレールらに着想をえながら、自身の美的態度を表した。

『ドリアン・グレイの肖像』

 1891年には、ワイルドは小説『ドリアン・グレイの肖像』を公刊した。これはワイルドの唯一の長編小説である。
 この物語は三人の主要な登場人物を中心にして展開される。まず、主人公はドリアン・グレイであり、美しい男性である。次に、画家のホールワードであり、グレイの肖像画を描いた。この肖像画が本作のタイトルとなっている。最後に、ウォートン卿である。
 グレイは自分自身の美しさを維持したいと考える。肖像画となった自分もまた美しいと見惚れる。普通なら、肖像画の美は生身の自分の美よりも長く保たれる。
 だが、グレイはこれを逆転させたいと願う。生身の自分の美のほうが長く保たれるように、と。この物語はこの点を中心に進む。
 ホールワードとウォートンはグレイの愛を求めて行動する。ホールワードは道徳的な人物であり、グレイにも道徳的な振る舞いを勧める。ウォートンは享楽的な人物であり、グレイに享楽的な生き方を勧める。「誘惑から逃れる唯一の方法は、誘惑に屈することだ」、と。
 グレイはウォートンの勧めに従う。享楽的で残酷的な生き方に染まっていく。グレイが道徳的に退廃していけばいくほど、生身の彼自身ではなくその肖像画の彼の姿が醜悪になっていく。享楽に溺れて心が醜くなるほど、肖像画も醜くなる。
 肖像画が描かれてから、20年経った。グレイ自身は美しさを保っていた。だが、肖像画は醜悪を極めていた。この肖像画の状態を画家ホールワードが知り、事態が急展開していく。グレイと肖像画が迎えた結末とは。
 この作品はながらく不道徳だと批判されてきた。美を最重要視するような芸術主義的な生き方を実践すること。その生き方がどのような道徳的悪をもたらそうと関係なく、美を実践すること。このような芸術主義が推奨されている、と。
 だが、本作の性質はより複雑である。その結末ゆえに、本作を道徳的な作品とみる評価もある。
 ながらく、ワイルドは芸術主義や耽美主義の代表者として理解されてきた。そのため、本作はこの評価がどれだけ正しいかを知るためのよい手段にもなる。

 アルフレッド・ダグラスとの出会い

 1891年、ワイルドはアルフレッド・ダグラスと出会った。その後、ダグラスはワイルドの同性の恋人になったと考えられている。ダグラスの父はワイルドに激怒し、これがワイルドの晩年に響くことになる。

 1892年には、持ち前の機知を駆使して、風習喜劇(当時の習俗、特に社交界の風習をコメディタッチの会話劇で描いたもの)の『ウィンダミア夫人の扇子』を制作した。
 1893年、同種の作品として『取るに足らない女』を公刊し、才能を世間に認められるようになっていった。

『サロメ』

 同年、一幕劇の代表作『サロメ』をフランス語で公刊し、これが翌年に英訳された。当初、ワイルドは上述のダグラスに英訳を依頼した。だが、その語学力に疑念を抱くようになり、別の人物が翻訳することになった。
 この作品は聖書に題材をえている。新約聖書のマタイ伝の中で、ユダヤ王ヘロデの孫娘として、サロメという娘が登場する。サロメはヘロデのもとで行われた舞踏会で最も優れた踊りを披露した。

 ヘロデはサロメに何でも望むものを褒美として与えると約束する。その頃、キリストに洗礼を施していたヨハネがヘロデ王のもとに囚われていた。サロメはヨハネの首がほしいとヘロデ王に求めた。

 ヘロデ王はしぶしぶこの願いを聞き入れた。ヨハネの首が斬られ、サロメに与えられた。この物語はしばしばキリスト教の絵画などの題材となった。

ワイルドの『サロメ』

 ワイルドが題材としたのはこの物語だった。大筋はだいたい同じである。特徴的なのは、サロメがヨハネに恋をしているという設定である。そのため、サロメはヨハネに言い寄った。だがヨハネはこれを拒否した。

 サロメは自らの望みを果たすために、策謀をめぐらす。サロメがこのような策略家として描かれたところもワイルドの特徴である。
 サロメは舞踏会の日に踊り、王から褒美としてヨハネの首をもらう。サロメは狂喜し、断首されて血まみれのヨハネに口づけし、その首をもって狂ったように踊り続ける。このようなサロメ像が定着していった。
 本作は1896年にパリで初演された。ヨーロッパで成功していく。教会などの反発を受けイギリスでは長らく公開での上演が禁止になった。ロンドンでは、1905年に限定的な仕方で初演された。日本では1913年に初演された。あらすじはこちらへ。

 ビアズリーによるサロメの挿絵

 画家のビアズリーの『サロメ』の挿絵は有名である。特に、次のものはクライマックスのシーンであり、サロメがヨハネの首をもっている。
 挿絵のタイトルは、「あなたに口づけするわ、ヨハネ」である。この挿絵はフランス語版ではなく英語版につけられたものだ。

ピアズリーとワイルド

 ビアズリーがワイルドといつ出会ったかについては、諸説ある。1892年ごろには会っていたようだ。ワイルドはビアズリーのそれまでの作品を気に入った。1893年4月には、ワイルドは上掲のイラストを確認していたようだ。

 二人はファースト・ネームで呼び合うようになり、ワイルドは最終的に英語版の挿絵としてビアズリーに仕事を依頼することにした。ビアズリーはすべての作品を年末には完成させた。関連する作品は20点ほどになる。

挿絵をめぐって

 ビアズリーのサロメの挿絵はセンセーションを巻き起こした。ビアズリー自身もまた、この挿絵によって多くの興奮と罵倒を呼び起こしたと述べている。
 この挿絵にかんして、ワイルドは不満を漏らしていたともいわれている。ワイルド自身のサロメは宝石と悲哀に包まれており、神秘的で、ギュスタヴ・モローの描くようなサロメである。

 だが、ビアズリーの描いたサロメは、いわば、早熟な学生が本の端に描いた落書きのようなものだ、とワイルドは評した。とはいえ、ワイルドはその後もビアズリーとの関係性を悪化させなかった。

 童話:『幸福な王子とその他の物語』

 ワイルドの童話については、多様な解釈がなされている。
 この時代の童話は、民俗学的な民話からいわゆる子供向けの童話への移行期だった。たとえば、いわゆる『グリム童話』はグリム兄弟が民俗学的な資料収集を行った結果として生み出された作品である。

 彼らは様々な民族の精神的特徴をそこから汲み出そうとしていた。だが、『グリム童話』などは次第に童話としても捉えられるようになった。その場合、これらの作品は子供向けの道徳的な教訓を期待して読まれることになった。
 ワイルドの『幸福な王子とその他の物語』を道徳的な教訓集として捉えた場合、この作品はワイルドの作風に合わないものとして、あまり注目されてこなかった。
 というのも、ワイルドは芸術至上主義な「破壊的な作家」であり、芸術のためには道徳を犠牲にすると考えられてきたためだ。

 この作品について論じられる場合であっても、これは童話ではなく民話なのか、それともやはり童話として教訓的なものなのかについて、議論が分かれている。
 これを道徳的な教訓集でもあると捉えたなら、ワイルドが一般的に思われるほど道徳を無視した作家ではないことになる。

 晩年

 ワイルドは上述のダグラスとの関係で、ダグラスの父によって同性愛で告発されて裁判となった。1895年、有罪が確定し、二年間投獄された。
 釈放後、フランスへ移った。そこでは、獄中に制作していた『レディング監獄のバラード』を公刊した。1900年、パリで病没した。

ワイルドの名言

ロマンスの本質は不確実性である

自分を愛することは生涯のロマンスの始まりである

恋に落ちると、人は必ず自分を欺くことから始まり、必ず他人を欺くことで終わる。それが世間でロマンスと呼ばれるものだ

人を善人と悪人に分けるのは馬鹿げている。人は魅力的か退屈かのどちらかだ

女性はみな母親のようになる。それが女性の悲劇だ。男性はそうならない。それが男性の悲劇だ

子どもは親を愛することから始まる。成長するにつれて親を批判し、時には許すようになる

事実として、日本というものは全体が純粋な創作物である。そのような国は存在しないし、そのような人民もいない。

ワイルドと縁のある人物や事物

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オスカー・ワイルドの肖像写真

オスカー・ワイルド 利用条件はウェブサイトで確認

 オスカー・ワイルドの代表的な作品

『ドリアン・グレイの肖像』(1891)
『意向集』(1891)
『ウィンダミア夫人の扇子』(1892)
『取るに足らない女』(1893)
『サロメ』(1893)
『真面目が大事』(1895)
『レディング監獄のバラード』(1898)

おすすめ参考文献

田中孝信『セクシュアリティとヴィクトリア朝文化』彩流社, 2016

宮崎かすみ『オスカー・ワイルド : 「犯罪者」にして芸術家』中央公論新社, 2013

Michèle Mendelssohn, Making Oscar Wilde, Oxford University Press, 2020

Jarlath Killeen, The fairy tales of Oscar Wilde, Ashgate, 2007

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