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パスツール:微生物の研究で世界を変える


 ルイ・パスツールは19世紀フランスの化学者で細菌学者(1822―1895)。微生物が発酵や病気を引き起こすことを論証し、医学などの学問分野で大きな貢献をした。さらに、研究成果を利用して、ワイン産業や養蚕業などに大きな影響を与えた。発酵、コレラ菌や炭疽菌、自然発生説、狂犬病、ワクチン接種にかんして功績をあげた。
 ところが、これからみていくように、見過ごすことのできない問題をも同時に引き起こしていたことが明らかになってきた。

パスツール(Louis Pasteur)の生涯


 ルイ・パスツールはフランスのドールで職人の家庭に生まれた。ブサンソンの大学を卒業した。1843年、パリの高等師範学校に入り、化学者デュマに師事した。1847年に博士号を取得した。

 化学者としての活躍:微生物による発酵の理論

 1848年、パスツールはストラスブール大学の化学教授となった。酒石酸の研究を行い、光学的活性によって分子の非対称性の存在を明らかにした。この発見を通して、立体化学への貢献をした。

 1854年、パスツールはリール大学の化学教授となった。リールではワインなどの醸造業が営まれていた。これらの業者から、酒造の工程で発生する問題の解決を依頼されるようになった。
 そのため、パスツールは発酵の問題に取り組むようになった。牛乳についても発酵の問題に取り組むようになった。この時期、発酵の仕組みがまだまだ解明されていな方t。

 1857年、パスツールはパリの高等師範学校で化学部長となった。引き続き発酵と微生物の研究を続けた。パスツールはすべての発酵過程には必ず微生物が関与していることを実験で示した。

 さらに、パスツールは発酵には様々な種類が存在し、それぞれの発酵にはそれぞれの微生物が関わっていることを示した。このようにして、発酵が微生物によるものであることを論証した。また、1860年、アルコールの発酵が酵母に由来するものであることを論証した。

 白鳥の首型フラスコによる自然発生説の否定

 1861年には、生命が物質から自ずと誕生することがあるという自然発生説にパスツールは取り組んだ。西洋では古代からこの説が信じられてきた。18世紀には、顕微鏡の普及により、微生物にかんしてこの説が論争の的になっていた。
 自然発生説を否定することで、パスツールは自身の微生物理論がより普及すると考えた。パスツールは白鳥の首の形をしたフラスコを使用して実験し、この説を否定した。その手順はこうである。
 牛肉のスープ(ビーフブロス)をこのフラスコで煮沸する。煮沸されたスープは殺菌されたため、そのまま放置していても、微生物は発生しない。
 だが、フラスコの首を折れば、煮汁は空気に触れるため、次第に白濁していき、微生物の汚染がみられる。このようにして、煮沸したスープは空気に触れなければ無菌のままであり、よって自然発生はないことを論証した。
 自然発生説は生命の起源という大きな問題に関わっていたので、パスツールはこの点で科学や哲学などに貢献した。当時はダーウィンが『種の起源』を公刊して、この問題に別の角度から取り組んでいた時期だった。
 パスツールはそれとは異なる仕方でこれに貢献したといえる。同時に、滅菌と無菌操作という技術の開発にも寄与した。これらの成果を認められて、1862年、パリの科学アカデミーの会員となった。

 研究の応用:ワインの低温殺菌法の開発

 上述のように、パスツールがそもそも発酵の研究に打ち込んだきっかけは、酒造業者からの依頼だった。そのため、パスツールは研究成果をワインやビールの醸造に応用した。
 1863年、当時の皇帝ナポレオン3世もまた彼の研究に着目し、ワインが輸送中に腐ってしまう問題の解決などをパスツールに依頼した。
 パスツールはそれまでの研究において、発酵液に空気すなわち酸素を通すと発酵プロセスが停止するということを発見していた。ワインが腐敗する仕組みについても、微生物が原因であると示した。

 その解決策として、60℃ぐらいでの低温殺菌法を案出した。これは様々な食品で現在も利用されている。ただし、ワインでは微生物が熟成において必要であるので、現在では利用されていない。
 ビールにかんしては、輸送中の品質劣化を防ぐ方法や発酵プロセスをコントロールする方法などを開発した。

養蚕業への貢献

 1863年、パスツールは美術学校の物理学や化学の教授に任命された。その関連で、当時のフランスの養蚕業の問題に関わるようになった。当時、フランスの養蚕業は蚕の病気により深刻な打撃を受けていた。

 この病気はヨーロッパへと、さらに日本や中国へと広がった。パスツールは蚕について門外漢だった。だが、この問題の解決を恩師のデュマに依頼され、取り組むことを決めた。
 パスツールはその病気の病原菌を特定するのに成功することで、この問題を解決した。同時に、この問題を通して、パスツールは感染症に関心を深めるようになった。

 医学への貢献:ニワトリコレラ

 1867年、パスツールはパリ大学の化学教授となった。だが、1868年には脳梗塞を発症し、半身不随となった。だが、研究を続けた。1877年、炭疽菌の研究を開始した。
 1879年には、パスツールは鶏のコレラ菌の研究を進めた。ニワトリコレラの培養物が何世代もかけて弱毒化していきながらも、なお病原性を保持していることを発見した。

 さらに、パスツールは生きた鶏にこの弱毒株を接種した。その鶏が完全な病原株に対して抵抗性を持つことを証明した。 このようにして免疫の存在を明らかにし、免疫学の基礎付けを行った。

炭疽菌の研究

 当時、多くの羊が炭疽菌によって死に、これが産業に大きな打撃となっていた。当時は著名な細菌学者のコッホもこの問題に取り組んでいた。
 1881年、炭疽菌の大きな被害を受けていた牧畜業者の協力をえて、パスツールは炭疽菌にかんする次のような免疫実験を行った。
  パスツールは70頭の家畜に炭疽菌の予防接種を行った。 12日間隔で2回ずつ、効力の異なるワクチンを接種した。 1回目は病原性の弱いワクチンを半数の羊に接種した。2回目は、1回目よりも病原性の高いワクチンを接種した。

 この最初の接種から2週間後、ワクチンを接種したヒツジとそうでないヒツジに強毒株の炭疽菌を接種した。 数日後、接種していない羊はすべて死んだが、ワクチンを接種した羊は生き残った。
 この時期はまだ微生物理論が医学であまり受け入れられていなかった。だが、この実験により、微生物が病気の原因だという認識が普及していった。細菌自体の発見が17世紀後半のオランダ人レーウェンフックによってなされてから、2世紀ほど後のことだった。

パスツールの問題

 ただし、ここで注意が必要である。パスツールはこの実験結果を公表し、自身の研究成果の意義を高めた際に、実は細工をしていた。実のところ、パスツールはこの羊の実験を行った時点では、自分自身の有効なワクチンを開発するのに成功していなかったのである。
 パスツールはこの実験において、酸素で弱毒化したワクチンを利用するとあらかじめ公に約束していた。だが、その開発は公開実験の当日に間に合いそうになかった。そこで、パスツールはライバルだったジャン・トゥーサンのワクチンに目をつけた。

 公開実験では、トゥーサンのワクチンに似通ったワクチンをつくり、それを使用していた。しかし、実験成果を公に報告した際には、酸素で弱毒化したワクチンを使用したと主張した。

 のちに、後者のワクチンを開発することになったのだが、このような不正が彼自身の実験ノートから今日では明らかになっている。とはいえ、この点は当時は明らかにはなっていなかった。
 いずれにせよ、病気が細菌に由来するのであれば、病原菌への対策が求められることになる。なお、この頃、1882年に、パスツールはフランス・アカデミーの会員となった。

 狂犬病とワクチン接種

 パスツールは狂犬病の研究を行った。狂犬病の病原菌への対策を実験で考えようとした(だが、実際には狂犬病の原因は細菌ではなくウイルスだということが後に判明する)。

 その過程で、狂犬病ワクチンの開発に成功した。これはそれまでの弱毒化された生きた微生物ではなかった。中和された病原体としてのワクチンであり、今日では不活化ワクチンとして知られる。
 1885年、これを人体に接種した。9歳の少年のジョセフ・マイスターに接種し、その生命を救った。このエピソードは有名である。ワクチン接種(vaccination)という名称はこのときに定着した。

 この名称はパスツールより1世紀ほど前にワクチン接種を案出したジェンナーの牛痘種痘法(vaccination)にちなんだものである。ここから、予防医学が発展していく。

問題ふたたび

 ただし、ここでもパスツールは問題を起こしていた。当時、ワクチン接種の人体実験をする前に、そのワクチン接種の動物実験を事前に多く繰り返すべきと一般的に考えられていた。パスツール自身もそのような方針に同意していた。
 だが、パスツールはマイスターの実験にかんしては、この基準を満たしていなかった。すなわち、パスツールはマイスターのワクチン接種の時点では、そのワクチンの動物実験でまだ一度も成功していなかった。

 それどころか、マイスターに接種した特定のワクチンにかんしては、そもそも一度も動物実験を行っていなかった。
 しかし、パスツールはこの問題が露見しないよう、公式の実験報告書ではワクチン接種の動物実験を多数行ったと記載していた。この問題は当時露見せず、20世紀の終わりごろになってようやく知られるようになった。
 いずれにせよ、1888年、パスツールの名声が世界的に広まり、パスツール研究所が設立された。本人が初代の所長となった。1895年に没した。

 パスツールの評価

 パスツールは長い間、あたかも聖人のごとき優れた人格を兼ね備えた科学者として描かれてきた。すなわち、パスツールは無私で人類に奉仕するために科学活動に打ち込み、これだけ多くの成果をあげてもなお驕り高ぶらずに謙遜を維持してきたと考えられてきた。
 このような見方はパストゥールの娘婿のラドによるパスツールの伝記に端を発すると考えられている。
 だが、今日においては、パスツールが他の科学者との競争に打ち勝つためにどのような手段をとったのかも明らかになっている。上述のようなある種の研究不正も行っていたことも判明している。
 パスツールほど多くの功績をあげた人物であっても、神聖視しないことがいかに科学と人類のために重要であるかが理解されてきている。

パスツールと縁のある人物

パスツールの肖像画

ルイ・パスツール 利用条件はウェブサイトにて確認

おすすめ参考文献

ルイーズ・E・ロビンズ『ルイ・パスツール : 無限に小さい生命の秘境へ』西田美緒子訳, 大月書店, 2010

吉田比砂子『パスツール』ぎょうせい, 1980

Aro Velmet, Pasteur’s empire : bacteriology and politics in France, its colonies, and the world, Oxford University Press, 2020

Gerald L. Geison, The private science of Louis Pasteur, Princeton University Press, 1995

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