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ピーコ・デッラ・ミランドラ:ルネサンスの体現者

 ピーコ・デラ・ミランドラはイタリアの哲学者(1463ー1494)。イタリア・ルネサンスの代表的な人文学者であり、プラトン主義者の一人として知られる。代表作には『人間の尊厳について』がある。ピーコの生涯やこの代表作について詳しく説明する。ピコの占星術批判も扱う。

ピコ(Pico della Mirandola)の生涯

 ピコはイタリア北部のミランドラの貴族出身だった。まずは13歳でボローニャ大学でカトリックの教

会法を学んだ。パドヴァ大学に移り、アリストテレス哲学を学んだ。ラテン語やギリシア語からヘブライ語やアラビア語も学んだ。

 パリ大学に移り、ユダヤやアラビアの思想に関心をもった。このように、ピコは少年の頃から西欧のギリシャ・ローマの学問だけでなく、アラビアやユダヤの学問にも関心を深めた。

 人文学者としての活躍:フィチーノとの出会い

 その後、1484年、だいたい20歳を過ぎた頃に、ピコは当時のイタリア・ルネサンスの最先端だったフィレンツェに移った。そこでは、メディチ家がルネサンスの文芸復興活動を支援していた。

 そのもとで、哲学者フィチーノがプラトン・アカデミーを創設し、(新)プラトン主義の研究を活発に行なっていた。フィチーノはすでに高齢になっており、プラトン主義の哲学者として名声を確立していた。
 ピコはフィチーノと知り合った。二人は互いの優れた学才を認め合い、すぐに親交を深めた。ふたりともプラトンなどの同様の著作を研究していた。
 ピコはフィチーノが読めなかったヘブライ語版とアラビア語版の著作を読むことが出来た。1485年には、ピコは短期間だがパリを訪れた。
 この時期、ピコは卓越した学識によってフィレンツェで名声を確立した。だが、メディチ家のとある夫人をアレッツォで誘拐する事件を起こした。この一件で部下を殺され、自身も重傷を負った。
 名声は失われたが、メディチ家に謝罪して赦免された。フィチーノとも再開し、再び研究活動に打ち込み始めた。

『人間の尊厳について』の背景:ローマでの公開討論会の計画


 1486年、ピコはペルージャでイスラム教のコーランやユダヤ教のカバラを研究した。その成果を「900の命題」にまとめた。人類の英知を900の命題にまとめあげ、これについて、ヨーロッパの学者たちとローマで公開討論会を行おうとした。

 ピコはアラブ人、ヘブライ人、ギリシア人、エジプト人、ラテン人の道徳的、物理的、数学的、形而上学的、神学的、カバラ主義的意見などを網羅して整理した。
 そのうえで、これらについてヨーロッパの学者たちと討論したいと宣言した。このような情報源の多様さと博識は当時のヨーロッパでは例外的なものであった。ピコもそう自負していた。
 学術的討論会自体は当時の大学においては通常のカリキュラムの一部だった。2日間で20程度の論題を設定し、討論を行っていた。
 だが、ピコの討論会は例外的なものだった。まず、ピコ自身がこのような討論会を行うにはまだ20代前半という異例の若さであった。そして、900の論題の規模も異例だった。
 ピコ自身は、この討論会に参加したくても旅費が捻出できない学者にたいして、旅費を与えようとした。それほど乗り気だった。

教皇庁の介入

 だが、教皇庁がこの一件に介入した。彼の議論を異端的とみなして、この公開討論を中止させた。

 たとえば、ピコがカバラ主義の信奉者として論じている部分について、教皇はこれがユダヤ教の誤謬を広めるものだと断罪した。
 ピコは教皇庁によって処罰されるのを恐れてフランスへ逃亡した。フランス当局によって逮捕されて短期間幽閉され、フィレンツェに戻った。ただし、この一件で、教皇庁に服従するのを余儀なくされた。

『人間の尊厳について』の内容

 上述の成果との関連で書かれたのが1486年の『人間の尊厳について』である。あるいは、『人間の尊厳についての演説』である。
 ピコ自身はもともとこの作品を単に『演説』と名付けていた。というのも、これは上述のローマでの公開討論会の開会式の公式な演説のテクストだったからである。この著作はピコの没後に公刊された。

 その冒頭で、ピコはこう論じている。アラビア人の古文書によると、サラセン人のアブダラが、この世界という舞台においていわば最も驚嘆に値するものは何かと質問されたとき、人間ほど素晴らしいものはないと答えたという。
 では、なぜ人間はそれほどまで素晴らしいものなのか。ここから、人間の自由意志にかんするピコの有名な議論が展開されていく。


 ピコはまず伝統的な意見を紹介する。たとえば、キリスト教的な世界観の中で、人間は動植物などの上に位置し、天使よりもわずか下にランク付けられるほど、高貴な存在なのだ、と。
 これにたいし、ピコは人間の素晴らしさにかんする自身の理由をこう提示する。神はこの世界の全てのものを創造した。すべての星や海、山、動物などだ。だが、神という創造主はそこで満足しなかった。

  なぜなら、この創造という壮大な偉業の意味について考え、その美しさを愛し、その広大さに驚嘆するような者がいまだ存在していなかったからである。そこで、神はそのような存在を創造しようと考えた。すなわち、人間である。

人間の自由意思

 神は人間を次のような特別な存在として作り上げた。神が人間を創造しようとした時点で、すでに、この世界のあらゆる場所は他の存在者で埋め尽くされていた。たとえば、上位にはすでに天使がおり、下位には動物などがいた。

 そこで、神は人間を、他のあらゆる存在の特徴を共有するような存在として創造した。すなわち、天使にせよ動物にせよ、どのような存在とも何らかの仕方で結びついた存在者である。
 そこから、人間の自由が帰結する。ピコによれば、神は最初の人間であるアダムにこう告げた。「アダムよ、私はおまえに、おまえ自身の定まった座も形相も与えず、おまえだけの固有な能力も与えなかった。
  なぜなら、どのような座であれ、どのような形相であれ、どのような能力であれ、おまえが望ましいと判断するものであればなんでも、おまえの欲求と判断に従って、おまえがそのようなものを持ち、所有するようにするためである」。
 さらに、神はアダムにこう告げたと、ピコはいう。ひとたび定義されれば、他のすべての存在の性質は私がそれらのために定めた法則の中に制約される。 しかし、おまえはいかなる限定によっても制約を受けていないので、おまえは自身の性質をお前自身の自由意思に従っておまえ自身のために決定することができる。

人間の可塑性と教育

 すなわち、人間は神によってあらかじめ決まった型や能力を与えられなかった。そのかわりに、人間はあらゆる他の存在者と結び付けられると同時に、自由意思を与えられた。
 そのため、人間は自らの判断と欲望に従って、自らのなりたい者になることができる。これが、人間の素晴らしさの理由である。ピコはこう述べる。望みのものを手に入れ、望むものになることを許された人間の至高にして不思議な幸福よ、と。
 ただし、ピコはただ単にこの人間の性質を賛美しただけではなかった。なぜなら、人間はなんにでもなれるので、天使のようになれるだけでなく、悪魔や動物などの下位の存在にもなることが可能だからである。

 残忍な下等生物に堕落することも、神のような高次の存在に近づくことも、人間次第である。人間が倫理学や自然学、神学などを適切に修めることで、神と一心同体となることができたならば、人間は万物の上に立つようになるだろう。

 晩年:動揺するフィレンツェ

 フィレンツェの統治者ロレンツォ・デ・メディチの庇護を得て、ピコはフィレンツェに移った。研究活動を再開し、『存在と一について』などを生み出した。そこでは、アリストテレス主義哲学とプラトン主義哲学の融和と総合を目指した。
 ピコはジョヴァンニ・デ・メディチの家庭教師をつとめた。彼は後に教皇レオ10世になる。すなわち、ルターに贖宥状にかんして断罪された教皇である。
 フィレンツェは長らくメディチ家の支配下にあった。メディチ家によってフィレンツェのルネサンスが大いに進展したように、フィレンツェへのメディチ家の貢献は大きかった。

 だが、その支配下でメディチ家への不満も蓄積されていた。15世紀末、サヴォナローラがそれまでのメディチ家によるフィレンツェの支配や教会のあり方にたいして痛烈な批判を開始した。
 ピコはサヴォナローラと知り合い、影響を受けるようになった。フィレンツェがメディチ家からサヴォナローラの支配に移る頃に、ピコは没した。

 ピコと占星術

 ピコは天文学や占星術などの研究を行った。当時、占星術と天文学の実質的な区別は存在しなかった。占星術はオカルティックな占いではなく、医術や航海術などと深く関わりを持っていた。
 ピーコは当時の占星術にたいして批判的だった。その主な批判対象は予言占星術だった。これは誕生図などを用いながら、なんらかの行動を実行すべき時期の特定や遺失物探しなどで利用された。
 これは当時の全ての占星術師の生業にかかわるものだった。ピーコは彼らがただ自己利益のみに関心がある、と批判した。
 占星術の内容に関しては、たとえば惑星の合の時間は非常に短いのに、なぜ人体や気象などにたいして長時間も影響力を保てるのかと批判した。
 さらに、次のような根本的な問題をも指摘した。
 予言占星術では、正確な時刻を特定するか、その時刻における天空の状態と星の位置を正確に把握するかが必要となる。しかし、正確な時間を知る方法は天空を観測するほかない(この時代には正確な機械時計は存在しなかった)。
 天空の観察からわかった時刻で、その天空の状態を正確に確定することになる。よって、悪循環に陥ってしまう、と。
 なお、ピーコの研究はのちにケプラーなどに影響を与えることになる。よって、ヨーロッパの科学革命にたいして間接的に貢献することになる。

 ピコはその学術的成果によって、当時のイタリア・ルネサンスの代表的人物の一人とみなされるようになった。たとえば、イギリスのルネサンスの主要人物たるトマス・モアは彼にかんする伝記を翻訳した。

ピーコと縁のある人物

●フィチーノ:15世紀イタリアの哲学者(1433 ー1499)。メディチ家に支えられながら、プラトンなどの古典古代の著作の翻訳と研究を行った。プラトン・アカデミーの中心人物として活躍し、新プラトン主義の主な哲学者として知られる。キリスト教と古代哲学の総合を目指した。ピーコに出会って、さらに研究を進展させた。ピーコをより深く理解する上で重要な人物。
フィチーノの記事を読む

●サヴォナローラ:イタリアの聖職者。フィレンツェからメディチ家を追放し、神政政治を行った。晩年のピーコが影響を受けたこの人物は何を果たしたのか。
サヴォナローラの記事をみる

ピコ・デラ・ミランドラの肖像画

ピコ・デラ・ミランドラ 利用条件はウェブサイトで確認

ピーコ・デラ・ミランドラの主な著作・作品

『人間の尊厳について』(1486)
『存在と一』(1491)

おすすめ参考文献

エティエンヌ・バリリエ『蒼穹のかなたに : ピコ・デッラ・ミランドラとルネサンスの物語』桂芳樹訳, 岩波書店, 2004

Karine Safa, L’humanisme de Pic de la Mirandole : l’esprit en gloire de métamorphoses, J. Vrin, 2001

Christopher S. Celenza, The intellectual world of the Italian Renaissance : language, philosophy, and the search for meaning, Cambridge University Press, 2018

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