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プトレマイオス:天文学と占星術の王

  クラウディウス・プトレマイオスはエジプトの天文学者( 100年ー170年頃)。中世以降、いわゆる天動説の完成者とみなされ、天文学と占星術で絶大な権威を誇った。科学革命において、プトレマイオス的な天動説はコペルニクスらの地動説によって取って代わられた。
 プトレマイオス理論は中世と近代の天文学の発展を理解する上で不可欠である。天文学や占星術は当時の学問や社会に広範な影響力をもった(よって科学革命の中心に位置した)。したがってプトレマイオス理論を理解することで、天文学を超えて、ヨーロッパの社会や知をより深く理解することができる。

プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)の生涯

 プトレマイオスの生涯についてはほとんど知られていない。だが、エジプトのアレクサンドリアで活動したことはわかっている。当時のアレクサンドリアはローマ帝国の支配下にあった。ヘレニズム文化と学問の中心地だった。たとえば、古典古代の多くの著作を所蔵する有名な図書館があった。
 このような場所で、プトレマイオスは学問に励んだ。彼は天文学や数学、哲学、地理学で貢献した。彼の研究成果は様々な著作として残された。また、プトレマイオスはその成果を応用して、時間計算や暦の改正などにも貢献した。

 天文学:『アルマゲスト』

 プトレマイオスの著作で最も有名なのは、天文学書の『アルマゲスト』である。本書では、プトレマイオスは古代ギリシアの天文学を紹介するとともに、独自の理論を発展させている。アリストテレスやヒッパルコスなどの影響がみられる。
 本書でプトレマイオス自身の理論がどれだけ独創的であったかについては、研究者の間で議論が割れている。
 いずれにせよ、本書ゆえに、プトレマイオスは天動説を完成させた人物と中世以降に考えられるようになった。ただし、プトレマイオス自身の天文学理論は実際にはより複雑だと今日において評されている。

 数学との関係

 『アルマゲスト』は本書の原題ではない。プトレマイオスは本書を『数学論』と名付けていた。
 本書はのちに『大いなる論説』と呼ばれるようになった。さらに、本書が中東で受け入れられた際に、「大いなる」という部分を用いて『アルマゲスト』と呼ばれるようになった。

 では、なぜ原題は『数学論』だったのか。それは古代ギリシャ・ローマの時代においては、天文学は算術や幾何学とともに数学の一分野とみなされていたためである。
 さらに、プトレマイオス自身はアリストテレスに従って、理論哲学を物理学と数学そして神学に分類した。
 そのうえで、物理学と神学が知識ではなく推測に頼っていると論じた。数学だけがこの点で異なり、優位にあるという。このような立場のもとで、本書を『数学論』と名付けていた。
 ちなみに、プトレマイオスは別の著作で数学にかんする研究も行っていた。たとえば、三角法や平行線の公理などを研究した。ほかにも、光の屈折などの研究も進めた。これらをもとに、惑星の明るさや位置の変化などを幾何学的視点で説明しようとした。

 倫理学との関係

 プトレマイオスは天文学の研究が倫理的意義をも含むと論じている。古代ギリシャ哲学において、天体はしばしば神聖視された。天体の運動を研究して、それを模倣することによって、人間は可能な限り神に近づくことができると考えられた。
 より具体的にみると、アリストテレス理論では、天上世界は生滅のような変化が生じない完璧な世界だと考えられた。それに対し、月下の地上世界は変化の生じる不完全な世界だとされた。天上世界には不変性や美しい秩序、対称性や静寂といった性質が見出された。
 天文学者は天文学の研究を通して、自らがそれらの高い徳性を備えることができるようになる。プトレマイオスはこのように論じた。そのため、天文学は最高善を追求する哲学的実践でもあった。

 占星術:『テトラビブロス』

 天文学との関連で、プトレマイオスは占星術の著作も残した。『テトラビブロス』である。本書もまた中世の占星術の支配的な権威となった。
 ここで注意すべき点は、天文学と占星術の明確な区別が中世にはほとんど存在していなかったことである。学問としての天文学とオカルト的な占星術の区別は近代以降になされた。
 それまでは、天上世界での出来事は月下の人間世界の出来事と密接な関係をもつと考えられていた。そのため、天体観測は地上の人間の出来事を認識し予知するための手段でもあった。
 このようにして、天文学は占星術と切り離せなかった。その分だけ、プトレマイオスがこれらの分野でどれだけ巨大な権威とみなされたかが想像されよう。この点はすぐ後に詳述する。

地理学

 ほかにも、プトレマイオスは地理学の著作も残した。『地理学便覧』である。ここでは、地中海沿岸地域の経緯度を記した地図を作成した。これが16世紀のコロンブスによる新世界「発見」あたりまで利用され続けた。プトレマイオスは古代の地図の作成方法にも革新をもたらした。

プトレマイオスの意義と影響

中世の天文学

 まず、『アルマゲスト』は天文学書としては西洋で最も影響力を保持したと評されている。また、全世界のあらゆる天文学書の中でも特に有名なものの一つである。特に、中世のヨーロッパと中東イスラム世界で支配的な影響力をもった。
 ただし、『アルマゲスト』などの著作は盲目的に受容されたわけではなかった。中世では、権威的な著作への注釈書というジャンルが普及していた。この注釈書では、権威的な著作への批判や新しい議論が展開されることもあった。『アルマゲスト』もまた同様だった。
 また、そもそも、当時は『アルマゲスト』のような同一著作であっても、内容に違いがみられた。著作が手書きでコピーされていたからである。また、浩瀚な著作は全体がコピーされるとは限らなかったからである。異なる複数の版を比較する作業によって、『アルマゲスト』を乗り越える試みもなされた。
 他方で、中世においては、プトレマイオスは高い権威を認められていたので、偽書も登場した。たとえば、『センティロキウム』という著作は彼の著作として流布された。だが、実質的には別の著者によるものだった。

 これは短い百の格言を含んだものである。その一部はプトレマイオスの占星術の『テトラビブロス』の要約といいうる。だが、大部分は別の占星術の流派の内容だった。それは魔術的な要素やヘルメス主義の要素が強いものだった。

中世の占星術

 西欧では、占星術は5世紀から12 世紀頃まで影響力を失っていた。キリスト教の教父たちによって、異教の魔術として批判されていたためである。
 12世紀頃から、多くの古典古代の著作がアラビア世界から翻訳などの形で西欧に流入してきた。『テトラビブロス 』と『アルマゲスト』もまた12世紀に西欧に再び入ってきた。『テトラビブロス 』が再び西欧占星術の権威として君臨した。
 占星術は13世紀にスコラ哲学によって、自由学芸の一部として受容されるようになった。また、アリストテレス哲学やストア哲学そして新プラトン主義の一部としても受容されるようになる。ただし、神の全能や人間の自由にかんするキリスト教の教えに反しない限りで受容された。
 占星術は気象学や錬金術そして医学で大きな影響をもった。まず、天体が地球上の大気などに影響を与えると考えられたので、気象学と結び付けられた。さらに、航海術とも結びついた。次に、惑星と金属には密接な関係があるとされたので、占星術は錬金術とも結びついた。
 占星術と医学の結びつきもまた深かった。いわゆる占星医術である。そこでは、それぞれの惑星は固有の性質をもっており、特定の臓器や病気などに関係を持つと考えられた。
 たとえば、土星は皮膚病やハンセン病を引き起こす。月は心配やいらだち、狂気を引き起こす。すなわち、ルナティックである。

 医師は診察の際にホロスコープを作成し、患者の生誕時と病気になった時の天体配置を調べた。治療では、惑星の重なり具合を予測して惑星の影響を判断した。プトレマイオスはこのような占星医術の知的基盤を与えた。

ルネサンスでの失墜と回帰

 ルネサンスの時代になり、古典古代の著作が原書や原書に近い著作から翻訳されるようになった。15世紀にビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされた際に、多くの古典古代の著作を携えて西欧に逃れてきた。そのため、かつては西欧で誕生しながら西欧で失われた著作が時を超えて戻ってきた。
 ただし、従来そのような著作として考えられてきたものが実際にはそうとはいいがたいケースもある。たとえば、プトレマイオスの『地理学』はそうである。本書は中世の間において西欧から消え去ったと長らく考えられてきた。だが、実際には、中世の自然哲学の著作で消え去ることなく残り続けたことが近年論証されている。
 ルネサンスの時代、プトレマイオスの『テトラビブロス』は古典古代の版から翻訳された。その結果、当時の占星術研究に新たな展開がみられた。このように、16世紀には占星術ではプトレマイオスへの回帰が新たにみられた。ルネサンスの占星術でのプトレマイオスへの回帰である。
 だが、同時期に、『アルマゲスト』の権威は本格的に挑戦を受けることになる。コペルニクスらの地動説の登場である。
 それでも、実のところ、コペルニクスもまたプトレマイオスの理論の大部分を受け入れていた。また、天体観測方法の革新で貢献したティコ・ブラーエもまた天動説を支持していた。
 だが、ブラーエの採集したデータに基づくケプラーの天体理論によって、プトレマイオスの天動説は取って代わられることになった。ケプラーもまたプトレマイオスへの敬意を惜しまなかったが。
 天文学でのプトレマイオスの権威の動揺と占星術での回帰は矛盾するようにみえるかもしれない。だが、矛盾ではなかった。なぜなら、占星術の実践において、天動説も地動説も実は変わりがなかったからである。
 占星術で利用されたチャートでは、地球から見た天宮と惑星の位置が重要だった。この場合、天体モデルの中心が地球か太陽かは重要でなかった。そのため、このチャートは地動説でも天動説でも利用できたのである。

 その後


 その後も現代に至るまで、プトレマイオスの天文学は多くの側面において西洋の天文学に影響を保持してきた。
 現代においては、プトレマイオス自身の天文学理論が単純な天動説ではないと評価されている。そのため、科学革命での天動説から地動説への転換がプトレマイオスの影響を全面的に奪ったわけではないと考えられている。

 プトレマイオスと縁のある人物

●コペルニクス:近代の地動説の始まりと評される天文学者。この天文学の新たな思潮の展開を辿るには、やはりコペルニクスに着目したいところだ。

●ケプラー:プトレマイオス的な天動説を地動説へと明確に転換させたと評される天文学者。ケプラー自身はどのような人物で、なにを達成したのか。

プトレマイオスの肖像画

プトレマイオスの主な著作・作品

『アルマゲスト』
『テトラビブリオス』
『地理学便覧』

おすすめ参考文献

テスター『西洋占星術の歴史』山本啓二訳, 恒星社厚生閣, 1997

Brendan Dooley(ed.), A companion to astrology in the renaissance, Brill, 2014

Alexus McLeod, Astronomy in the ancient world : early and modern views on celestial events, Springer, 2016

Amelia Brown(ed.), Byzantine culture in translation, Brill, 2017

Liba Taub(ed.), The Cambridge companion to Ancient Greek and Roman science, Cambridge University Press, 2020

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