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平塚らいてう: 試行錯誤の女性解放運動

 平塚らいてうは大正から昭和の社会運動家(1886―1971)。20代半ばにして青鞜社を設立して『青鞜』を創刊し、女性解放運動を主導した。言論でこれを推進するのみならず、自ら事実婚を選択して当時の結婚制度への反対を表明するなどした。労働運動などにも協力した。この記事では、平塚のフェミニズム思想の発展も説明する。

平塚らいてう(ひらつからいてう)の生涯:禅との出会い

 平塚らいてうは東京で高級官僚の家庭に生まれた。本名は明(はる)である。筆名の「らいてう」は雷鳥に由来している。

 1903年、日本女子大学校(現在の日本女子大学)の家政科に入った。当時の教育方針は女性を良妻賢母に育てることであった。平塚はこれに反発し、自ら哲学書などを読み漁った。
 また、1906年、禅に興味をもつようになり、その実践を通して自己を確立していった。同年、大学を卒業した。

塩原事件

 その後、平塚は作家の生田長江(いくたちょうこう)が主宰する閨秀(けいしゅう)文学会に参加した。そこで、作家の森田草平(そうへい)と知り合い、恋に落ちた。1908年、森田と栃木県の塩原で心中未遂事件(塩原事件)をおこした。 

 これが世間にセンセーションを引き起こした。同世代の多くの若い女性たちは密かに平塚の勇気に憧れ、彼女のファンになった。ちなみに、翌年、森田がこの件を小説『煤煙』で書いた。

 女性解放運動の旗手へ:『青鞜』創刊

 1911年、生田の勧めにより、平塚は保持研子(やすもちよしこ)らとともに青鞜社を設立し、『青鞜(せいとう)』を創刊した。平塚は編集主幹を担当した。
 この文芸誌は女性の自我の覚醒や開放を目標とした。平塚による創刊の辞「元始、女性は太陽だった」は有名である。
 平塚は世間の人たちにも広く理解されやすい言葉で書くよう心がけた。女性解放の原動力として禅に依拠していた。晩年になって、平塚は禅を知っていなかったら、女性解放運動には携わらなかっただろうと述べたほどである。だが、一般的な誤解を避けるためにも、禅への言及を避けた。

 ちなみに、「青鞜」は「bluestocking(ブルー・ストッキング)」、すなわち「青い靴下」の訳語である。これは18世紀半のイギリスの女性サロンに由来する。
 当時、ロンドンのモンタギュー夫人らが文芸愛好のサロンを催しており、その参加者の一人が青い靴下をはいていた。そのため、青い靴下は学識ある女性のシンボルとなった。平塚らはこのシンボルを雑誌名に用いた。

 1910年代、吉野作造らが大正デモクラシーを推進していた。当時はまだ選挙権が男性の一部にしか認められておらず、女性には認められていなかった。そのため、この時期に普通選挙の実現が目指され、運動が活発になった。

 労働運動なども活発だった。平塚らの女性解放運動もこの時流に乗ろうとした。だが、『青鞜』はしばしば政府から発禁処分を受けた。また、世間の風当たりもしばしば厳しかった。

 本誌は1911年から1916年まで発行された。そこでは、母子保護からセクシュアリティ、堕胎、売春廃止に至るまで、様々な議論を掲載した。そのようなフェミニズムの議論の場を提供したのである。

 イプセンの『人形の家』をめぐって

 ちょうどこの頃、1911年、ヘンリック・イプセンの『人形の家』が和訳されて、東京で上演された。この劇は世界中で称賛されていた。特に、主人公のノラは新しい時代の女性の象徴だとされた。東京でも、この劇は喝采を浴びた。
 平塚の青鞜社の女性たちもまた、『人形の家』を高く評価し、ノラにたいして同様の評価を示した。
 だが、平塚は違った。平塚からすれば、ノラの行動は軽率で、性急で、稚拙であった。ノラとその夫は、真に本物の人間になる前に、まず精神の根本的な問題を乗り越える必要があるように思われた。

 平塚のフェミニズム理論の発展

 平塚は1911年の時点では、真の自己を抽象的な言葉でとらえ、女性としての特徴というものを軽視した。男性と女性の性的区別は究極的には取るに足らぬものだと論じていた。男女の区別を超えて、「真の自己」を高めるよう訴えた。

エレン・ケイの著作を通して

 1911年、スウェーデンのフェミニストのエレン・ケイが『愛と結婚』を公刊した。1912年、平塚は本書を読んで、大きな影響を受けた。そこで、まずエレンについてみてみよう。

 エレン・ケイは当時のヨーロッパでは有名な論客だった。彼女は、個人の幸福を人生における最も重要な条件だと論じた。ここで、幸福とは、自分自身の道徳的価値観を自発的に形成することである。
 エレンは女性の解放を訴えた。その際に、男女平等の訴えでは足りないと感じた。というのも、当時の西洋では、女性が男性より劣った存在だと思われたからである。
 そのため、女性を男性というより優れた存在に近づけるという仕方で、男女の平等を実現しようとする動きが当時みられた。

 エレンはこの女性の男性化という方法での男女平等とは別の仕方で、女性の解放を試みた。女性の独自性と社会的貢献を強調したのである。
 すなわち、 女性は母性という女性独自の本性を育む。母性によって、家庭の幸福が築かれる。幸福な家族が社会の優れた構成要素となる。

 そのおかげで、国家はより平和的で平等主義的な共同体を作ることができる。そのような仕方で、女性は社会に貢献できる。よって、国家は母性のこのような意義を認識すべきであり、保護すべきである。
 エレンの『愛と結婚』は、そのような思想を背景に、愛の複雑な性的側面や精神的側面を扱った。伝統的な結婚制度を批判し、愛に基づく結婚を支持した。
 本書は平塚に様々な気づきを与え、再考を促した。性愛や性関係についての知識をほとんど与えられていなかった中で、本書はこの問題に深く入り込んでいった。
 平塚は性や女性の独自性の問題に正面から向き合うことになった。性を持つ身体とその社会的役割を深く考察することになる。

 自己の個性の発展と、母性や利他主義と

 平塚はそれらの新たな問題に取り組むために、『愛と結婚』をより深く理解しようとした。そのため、本書を和訳し、『青鞜』に掲載し始めた。

 同時に、平塚は年下の画家の奥村博史(ひろし)との恋愛を始めた。この新しい問題にたいして、いわば理論と実践で取り組み始めた。
 平塚は奥村との結婚そして出産を受け入れるようになる。ただし、当時の結婚制度に反対だったため、あえて事実婚を選んだ。これが世間の注目を引いた。

 平塚は恋愛と事実婚の生活を通して、考察を深めていった。女性として生きることや、愛の生活を送ることについて熟考した。その中で、平塚は女性の解放とはどういうものかを再考した。
 真の女性の解放とは、女性を人間としてだけでなく、性を持つ女性として解放することだと考えるに至った。
 平塚は妊娠した。妻のみならず母としての自分の人生の展望がひらけてきた。同時に、そこから葛藤が生じた。子育てには相当な時間とエネルギーが必要になるのは簡単に予想できた。

 しかし、平塚はなおも自分自身の個性を伸ばしたいと思っていた。平塚はこの葛藤を、自分の成長や仕事のためのエゴイズムと母としての利他主義の葛藤だと捉えた。一時は、エゴイズムのための堕胎という選択肢も考えた。
 妊娠6ヶ月になる頃、平塚は母親としての願望が強まっていった。自分の子供を産んで母親になりたいという願望を認めるようになった。同時に、夫との関係性が深まっていくのを感じた。
 1914年末、平塚は母になった。母性の感情が強まっていった。このような経験が、上述のエゴイズムと利他主義の葛藤に関する考えを深めさせた。
 平塚からすれば、恋愛というものは、当初、自己のアイデンティティを主張し、発展させるためのものだった。個性の発展のための恋愛は、結果的に、他者への愛の入口であった。

 それは恋人への愛から、子どもへの愛へと広がった。そこから、より広く、より深い人生へとつながっていった。そこにおいて、エゴイズムと利他主義を真に調和させることが、人生の究極の姿なのだろう、と考えた。

 女性解放運動の隆盛の中で:母性保護論争

 1910年代、日本ではフェミニズム運動が盛んになっていった。そこでは、母性や女性の社会的役割などをめぐって、対立もみられた。
 その最たるものが、1918年の平塚と与謝野晶子の母性保護論争である。両者は『婦人公論』で議論を交わした。
 上述のように、平塚はエレンの議論を参考にして、母性が幸福な家庭生活などを通して社会生活に貢献できるので、国家によって保護されるべきだと考えていた。
 しかし、与謝野晶子は母親に対する国家的援助に反対した。女性の経済的自立以外を認めようとしなかったのである。平塚は与謝野のこのような考えが、女性の独自性や母親ならではの社会的貢献を理解していないものだと批判した。
 なお、この時期の平塚は夫が画家として収入を得られていなかったので、作家として働いて生計を立てていた。夫が病気だったので、子育ても一人で行っていた。このような背景も、国家による母性の保護の主張にはあった。

 新婦人協会

 1920年、平塚は市川房枝(いちかわふさえ)らとともに、新婦人協会を設立した。大正デモクラシーのもとで、女性の政治活動を禁止した治安警察法第五条の改正などを目指して活動し、一定の成功を収めた。だが、内部対立などにより、1922年にこの協会は解散した。

 活動の広がり

 1930年には、平塚は労働運動を推進した。高群逸枝(たかむれいつえ)らの無産婦人芸術連盟に参加した。その機関誌『婦人戦線』にも関わった。消費組合を設立した。

 第二次世界大戦の後、平塚は日本の再軍備に反対するなど、平和運動を推進した。また、婦人運動も再開し、日本婦人団体連合会の初代会長になった。さらに、国際民主婦人連盟の副会長もつとめた。1971年に没した。

 平塚らいてうと縁のある人物や事物

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平塚らいてうの肖像写真

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献


差波亜紀子『平塚らいてう : 信じる道を歩み続けた婦人運動家』山川出版社, 2019

小林登美枝『平塚らいてう』清水書院, 2015

Bret W. Davis(ed.), The Oxford handbook of Japanese philosophy, Oxford University Press, 2022

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