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レンブラント:オランダの黄金時代を描いた画家

 レンブラント・ファン・レインは17世紀オランダの画家(1606―1669)。オランダ絵画の黄金時代を代表する画家の一人。代表作の『夜警』などは、当時繁栄の絶頂にあったオランダ共和国の特徴的な側面を切り取った作品だった。フェルメールらと異なり、当時の時点で外国にも名声を得た例外的なオランダ人画家だった。

レンブラント(Rembrandt van Rijn)の生涯

 レンブラントはオランダのライデンで製粉業者の家庭に生まれた。地元のグラマー・スクールに通った後、1620年にライデン大学に入った。だが、レンブラントの関心は主に絵画にあった。そのため、1621年、レンブラントは父に退学を許してもらい、画家の道を歩むことになった。

 画家としての開花

 レンブラントはまず、ライデンの画家スワーネンブルフに師事した。後者はイタリア絵画の影響を受けていた。1625年には、レンブラントはアムステルダムの有名な画家ラストマンに師事した。そこでは、イタリアの画家カラヴァッジョの明暗の対比法などに影響を受けた。

 同年、レンブラントはライデンに戻り、独立した画家として工房をかまえた。聖書を画題とする絵画を制作しはじめ、弟子をとるようにもなった。エッチングでの制作で名声を得るようになった。

 当時のオランダ総督フレデリック・ヘンドリックの秘書コンスタンティン・ホイヘンスなどに一目置かれ、国内の有力者から注文を受けるようになった。

 アムステルダムでの活躍:『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』

 1632年、レンブラントはアムステルダムに移った。この時期には、肖像画を主に描くようになった。自画像も多く描くようになった。

 この時期の有名な作品としては、同年の『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』が挙げられる。その背景として、当時のオランダはヨーロッパでも随一の大国として発展しつつあった。政治や経済のみならず学問も活気があり、盛んだった。

 自然科学の分野にかんしてもそうだった。この分野では、人体解剖は長らくヨーロッパで限定的にしか許可されていなかった。だが、近代的解剖学の父ウェサリウスが16世紀に活躍したことにより、解剖学の重要性が徐々に広く認知されていった。

 オランダでも解剖学の重要性が認知され始めた。その結果、人体解剖の公開講義が行われるようになった。レンブラントはこのような科学革命の時代の一コマを『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』で切り取ったといえる。

 1634年、レンブラントはサスキアと結婚し、最愛の妻をえた。1635年には、アムステルダムに自身の工房を構えた。1639年以降に住んでいた家は、現在レンブラント・ハウスという博物館になっている。

 画家としての成熟:『夜警』

 レンブラントは名声を高め、絵画の制作で高収入をえるようになった。上述のフレデリック・ヘンドリックなど、著名な人物からの依頼も多かった。そのような中で、1639年から、『夜警』の制作を開始し、1642年に完成させた。

夜警

 この作品は集団肖像画というジャンルに属する。アムステルダム市が設立した射撃ギルドの集団の肖像を描いたものである。背景として、当時は現在のような警察が存在していなかった。

 資金不足などにより、夜間の見回りを行えない村や都市が多かった。だが、当時ヨーロッパでも大いに繁栄していたアムステルダム市は、自警団を組織し、見回りを行わせた。その自警団を描いたのが『夜警』である。

 『夜警』は射撃ギルドが夜回りに出発しようとする場面を描いている。アムステルダム市が自警団によって、すなわち、市民みずからの力で自分たちの街を守っているという自負の表れだった。

 だが、『夜警』は当時不評だった。というのも、当時のオランダの集団肖像画とはテイストが異なっていたためだった。当時の一般的な集団肖像画は、集団に属する主要メンバーの肖像をいわば記録に残すためのものだった。

 よって、必ずしも芸術的な美を追求するものではなかった。それに対し、『夜警』はいわば芸術作品として制作されている。そのため、今日でもレンブラントの代表作として認知されている。だが、その分、絵画の注文主の意向に沿っているとはいいがたかった。

 晩年:巨匠の苦境

 1642年から、レンブラントは困難な時期に入っていった。妻のサスキアが同年に没した。レンブラントの絵画の人気も次第に落ちていった。それでも、レンブラントは多くの弟子を育てることで、多くの収入をえた。

 だが支出も多かったため、経済的に苦境に陥ることになった。また、未亡人との内縁関係が世間にはスキャンダルとみなされ、レンブラントの評判を落とすことになった。

 1656年、レンブラントが住宅ローンを返済できていないとして、債権者たちが破産の手続きを裁判所で開始した。1658年には、彼の家や家具などが競売にかけられた。レンブラントは質素な家に引っ越した。それでも、アムステルダムの市庁舎の装飾など、重要な仕事を行った。

 最晩年の1665年頃、レンブラントは代表作の一つとして知られる「ユダヤ人の花嫁」を描いた。

ユダヤ人の花嫁

 外国からも仕事の依頼がくるなど、彼の作品への需要が続いていた。1669年、没した。

レンブラントの自画像

レンブラントの自画像 利用条件はウェブサイトで確認

 レンブラントの代表作

『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』(1632)
『夜警』(1642)
『放蕩息子の帰宅』(1668)

おすすめ参考文献

高橋明也監『レンブラントとフェルメール : 光と影に魅せられた画家の挑戦』東京美術, 2020

Jenna Myers, The works of Rembrandt : 1607-1669, Seed Learning, 2023

Ernst van de Wetering, Rembrandt : the painter thinking, University of California Press, 2016

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