ロバート・ウォルポールは17世紀末からイギリスで活躍した政治家(1676ー1745)。イギリスの議会政治が発展する中で、初代首相として知られる。
ウォルポールの出自と初期
ウォルポールはイギリスのノーフォーク州で軍人の家庭に生まれた。地元で学んだのち、学者の道を進んだ。兄が没した後、父の所領経営を手伝うために、ノーフォークに戻った。
政治家としての活躍:責任内閣制の樹立?
ウォルポールが30代のころ、父が没した。父の領地や選挙区を受け継いだ。1701年、下院議員として初当選した。優れた討論能力などが注目され、ホイッグ党の若手議員としてすぐに頭角を現した。ホイッグ党とトーリー党の対立の中で活躍した
1714年、ジョージ1世がイギリス王に即位した。その後援のもとで、1715年、ウォルポールは大蔵省主計長官に選ばれた。だが、ホイッグ党の内部対立が生じたため、要職から退いた。
1720年、南海泡沫事件が起こった。イギリスの南海会社がイギリスの多額の国債を買い取る代わりに、スペイン領アメリカでの貿易の独占権を与えられた。そのため、南海会社の株価が暴騰した。これを契機として、投機熱が沸騰し、似たような泡沫会社が乱立した。だが、このバブル経済はすぐにはじけ、破産者が続出した。
ウォルポールはこの事件を乗り切る上で活躍した。そのため、1721年、大蔵大臣および財務長官に任ぜられた。この職を1742年まで務めることになる。この期間がウォルポールの最盛期であり、ウォルポールは事実上の首相となった。
ウォルポールの肖像画

外交政策では、平和路線を選んだ。国内政策では、低課税政策のとで経済的発展を促した。1727年に即位したジョージ2世の支持を確保するのにも成功した。国内でのジャコバイトの反乱を未然に防ぐことも重要な政策だった。
だが、ウォルポールは政権を維持するために買収なども大胆に行ったため、ジャーナリズムなどに金権政治などとして批判された。画家ホガースや『ガリヴァー旅行記』で有名な作家スウィフトもウォルポールの政治を批判した。
1737年あたりから、オーストリア継承戦争などで、ウォルポールの対外政策への不満が蓄積されていった。1739年のスペインとのジェンキンス耳戦争の勃発を防ぐこともできなかった。
1741年の総選挙では、ウォルポールは勝利した。だが、42年には辞職した。その後、オーフォード伯爵に叙された。
ウォルポールの時代に、責任内閣制がイギリスで発展したといわれる。だが、この見方には批判も多い。当時はまだ大臣は議会ではなく国王に責任を負う仕組みだった。内閣が国王ではなく議会に責任を負うよう憲法を変えるような試みもなされなかった。
おすすめ参考文献
岸本俊介『最初の首相ロバート・ウォルポール : 王権と議会と』丸善プラネット , , 2017








