50音順の記事一覧・リストは「こちら」から

ルドルフ・ウィルヒョウ:細胞生理学の樹立

 ルドルフ・ウィルヒョウは19世紀ドイツの医学者で政治家(1821―1902)。医学では、細胞病理学の発展で知られる。血栓や感染症などの概念をうみだした。また、人類学の発展にも貢献した。政治家としては、公衆衛生などの問題に取り組み、鉄血宰相ビスマルクと対立した。フィルヒョーと表記されることもある。

ウィルヒョウ(Rudolf Virchow)の生涯

 ウィルヒョウはプロイセンのポンメルン(現在はポーランド)で生まれた。ベルリン大学で医学を学び、1843年に卒業した。

 医学者としての開花:血栓や白血病

 ウィルヒョウは軍医として医者のキャリアを始めた。キャリアの初期に、早速重要な研究成果をあげた。血栓について発見し、「血栓」という医学用語をつくりあげた。さらに、白血病についても発見し、「白血病」の用語もつくりだした。
 1847年、ウィルヒョウは26歳にして、『病理解剖学・生理学・臨床医学紀要』を創刊した。

 医学と社会

 この時期、ウィルヒョウは単に医学のみに関心をいだいていたわけではなかった。病気は人体において生じるにしても、その原因は人間の環境に由来するものである。特に、伝染病はそうである。よって、ウィルヒョウは病気に取り組むためには、社会の問題にも取り組まなければならないと考えるようになっていた。

 そのような中で、1848年、政府の依頼により、チフスの発生原因の調査を行った。チフスは当時の産業社会において深刻な流行病だった。
 ウィルヒョウはチフスの原因として、その経済的な原因や社会的な原因なども指摘した。さらに、単に医学的ではない解決策も提案した。たとえば、労働者の賃金の上昇や雇用の安定である。というのも、チフスは急速に発展する産業社会において、労働者の労働状況があまりに劣悪なことにも由来するためである。

 ほかにも、農民のためには、農業協同組合の設立などを提唱した。カトリック教会の習慣が原因とみなし、その廃止を求めた。すべての子供に対しては、教育の普及の重要性も訴えた。ウィルヒョウはこのような社会的関心を抱くことになる。

 1848年、フランスで二月革命が起こった。フランスは共和主義運動の結果、王制から共和主義に移った。その影響が周辺国に及んでいった。ベルリンでも革命運動が起こった。
 ウィルヒョウはその動向を注視していた。その渦中にあって、雑誌『医療改革』を創刊して、医療制度などの改革を訴えた。ウィルヒョウは自分のような医師エリートが労働者や農民などの下層民の衛生環境を改善すべきだと考えた。だが、政府の不評を買い、一時は停職処分を受けた。

 細胞病理学への貢献

 1849年、ウィルヒョウはウュルツブルク大学の病理解剖学の教授となった。この時期に、細胞病理学の重要な研究成果をあげ始めた。18世紀に至るまで、西洋では病気は4つの体液(血液や黒胆汁など)のバランスの悪さが原因だとされてきた。

 だが、ビシャなどの研究により、病気の原因は問題のある臓器にあるという考えが芽生えてきた。ウィルヒョウはさらにこれを一歩推し進めていった。それまでまた、多くの優秀な学生を育て上げた。

 1856年、ウィルヒョウはベルリン大学の病理解剖学教授となった。また、病理学研究所を新設してもらい、その所長となった。そこで、細胞病理学の研究を進めた。ウィルヒョウは細胞こそ生命体の基礎的な単位であることを示した。

 そのため、病気の原因も突き詰めれば細胞に見出されると論じた。その成果を『細胞病理学』で公刊した。ウィルヒョウの議論は医学の分野で大きな影響をもたらすことになった。

 また、ウィルヒョウは学生の育成にも尽力し、優れた弟子たちを輩出することになった。日本からも三浦守治などがそのもとで学んだ。

 人類学への貢献:トロイ遺跡

 ウィルヒョウは同時に、人類学の研究でも貢献した。1869年には、ドイツ人類学会の創設メンバーとなった。民族学会なども創設し、『民族学ジャーナル』の編集者となった。トロイ遺跡の発見者シュリーマンとともに、トロイ遺跡を訪れた。エジプトの遺跡も訪れた。

 政治家としての活躍:ビスマルクとの対決

 同時に、ウィルヒョウは政治家としてのキャリアも本格的に始めた。1859 年には、ベルリン市議会の議員に選ばれた。この時期には、下水道整備や学校の衛生問題など、公衆衛生に関する問題に取り組んだ。流行病との関係で、下水道がヨーロッパの主要都市で整備され始めていた時期だった。

 これにより、公衆衛生のあり方が大きく変わっていく。同時に、都市の景観や、特に「臭い」の文化も変わっていった。都市の公共空間はかつての人糞などで臭う空間から、無臭の空間へと変わっていった。

 1861年、プロイセンの国会議員に選出された。進歩党を創立し、自由主義的な政策を打ち出した。プロイセンの鉄血宰相ビスマルクと対立した。医療制度にかんしては、ビスマルクは強制的な懲戒権をもつ医師免許の委員会を設立しようとした。ウィルヒョウはこれに反対した。医師の淘汰は自由競争によって行われるべきだと論じた。
 また、1870年の普仏戦争では、病院列車を運用して医療活動にもあたった。1893年まで、国会議員をつとめた。

ウィルヒョウと縁のある人物

ウィルヒョウの肖像画

ウィルヒョウ 利用条件はウェブサイトで確認

 ウィルヒョウの代表的な著作

『細胞病理学』(1858)
『病的腫瘍』(1863ー1867)

おすすめ参考文献

ウィルヒョウ『細胞病理学』梶田昭訳, 朝日出版社, 1988

Ian F. McNeely, Medicine on a Grand Scale: Rudolf Virchow, Liberalism, and the Public Health, The Wellcome Trust Centre for the History of Medicine, 2002

Byron A. Boyd, Rudolf Virchow : the scientist as citizen, Garland, 1991

タイトルとURLをコピーしました