科学革命は中世哲学から近代科学への転機となった出来事や時期を指す。だいたい1500−1800年頃の西洋で起こったものと考えられてきた。この記事では、科学革命の主な要素として、天文学の刷新に着目する。これに関して、科学革命とはどのようなものだったかを説明する。その主な人物や理論を具体的にみていく。
天文学の刷新
科学革命では、天動説から地動説への転換がなされた。これを理解するには、まず伝統的な天動説の内容をみていく必要がある。
伝統的な天動説の内容
1500年当時、主流の天文学モデルはアリストテレスとプトレマイオスに由来する天動説だった。
この天動説では、宇宙自体が球体である。 地球もまた球体であり、宇宙の中心で静止している。 惑星は月、太陽、そして水星、金星、火星、木星、土星といった肉眼で確認できるものだけである。これらは地球を中心に回転している。
宇宙は地上(地球上)と天上の2つの領域に分かれている。物体は本来あるべき場所に向かって動いていく。その場所に到達すると、静止する。
地上では、物体は地球の中心に向かって直線運動(落下)をする。だが、天上では、円運動をする。惑星は、静止した地球の周りを、同一の速度で円運動で回転している。
天動説の問題
コペルニクスが活動した16世紀前半には、天動説は様々な問題を抱えていた。たとえば、天体観測の不正確さが問題となっていた。これは航海術や占星術に影響を及ぼした。この時期にはスペインやポルトガルが大航海時代に突入していたので、その改良が求められた。
ほかにも、天界の構造に関して議論が行われていた。この時代、上述のように、天界は肉眼で確認できる惑星と地球で構成されると考えられた。その中で、太陽と水星と金星の順番が議論の対象となった。 この順番は占星術などで重要だった。
地動説へ
コペルニクスはそれらの問題に取り組み、既存の天体モデルを改良しようと試みる。生涯、天体観測を行う。1510年代には、地動説のほうが天動説より優れていると考えるようになる。
すなわち、地球を含めたすべての惑星が太陽の周りを周回していると考えた。地動説のほうがそれまでの天体観測のデータに合致している、と。地球も自転していると考えた。
そのような新しい天体モデルを、1543年の『天球の回転について』で公刊した。これはコペルニクスの死の直前に公刊された。この時期、地動説を唱えたのはコペルニクスだけだった。
地動説はすぐには受け入れられなかった。主な理由はカトリック教会に反対されたからだ。そう思われるかもしれない。だが、そうとはいいがたい。
なぜコペルニクスの地動説はすぐには受け入れられなかったか?
では、主な理由はなにか。それは、コペルニクスの地動説が伝統的な自然哲学(自然科学)全体に取って代わるには不十分だったからである。どういうことか。
従来の天動説は伝統的なアリストテレスの自然哲学の一部でもあった。自然哲学の対象は当然ながら宇宙だけではなかった。地球の内部も対象だった。むしろ、地球上で生じる自然事象を主な対象としていた。
より具体的にみてみよう。アリストテレス理論では、それぞれの物体は本来のあるべき場所まで移動し、そこで静止する。地球という物体の場合、その本来のあるべき場所は宇宙の中心である。よって、地球は宇宙の中心で静止している。
同様に、地球上の物体のあるべき場所は地球の中心である。よって、アリストテレス理論において、たとえばリンゴは落ちる、つまり地球の中心に向かって移動し、しかるべきところで静止している。
ここで、地動説が正しいとしてみよう。もし地球が宇宙の中心でないなら、なぜこれらの物体は地球の中心に向かって動いたのか?
地動説はそのような(落下)運動について適切な説明を与えていない。地動説は自然科学の部分的な説明しか与えてくれない。というのも、コペルニクスの地動説は天文学の理論であって、地球上の物理学ではないためだ。
以上のように、天動説というアリストテレス理論の一部を否定すると、アリストテレス理論の他の部分にも影響がでてくる。とくに、地動説を採用して天動説を否定すると、地上の物体の運動について妥当な説明ができなくなってしまう。
このように、コペルニクスの地動説はアリストテレスの伝統理論を刷新するには不十分だった。天文学理論だけ刷新しようとすれば、物理学などの他の分野で問題が生じた。だから、天文学の刷新だけ受け入れるということには、なかなかならなかった。
したがって、地上の物体の(落下などの)運動がガリレオらによって説明されるまで、天動説は命脈を保つことになる。
天体観測データの成果:ティコ・ブラーエの活躍
16世紀後半、アリストテレス的宇宙観に合致しない天体観測データが報告され始める。たとえば、1572年11月のカシオペア座に現れた新星の発見や、1577年の彗星であった。
アリストテレス理論では、天界は不変である。生滅のない世界である。新星と彗星の発見はこの考えに反するので、衝撃として受け止められた。ただし、これらは地動説自体を補強するものではなかった。
この時期に、デンマークの貴族ティコ・ブラーエが天体観測で大きな貢献をした。数々の天文機器をうみだし、天体観測の質を向上させた。生涯にわたって天体観測を行い、データを集め続けた。
ティコは自身のデータを検討した結果、従来の天動説を否定した。だが、コペルニクスの地動説も否定した。自身の新しいモデルを提示した。ティコはすべてのコペルニクス的モデルも真剣に検討したが、最終的にはこれらも否定した。
ティコは、アリストテレス/プトレマイオス両系統とコペルニクス体系に対抗するものとして、独自の体系を提唱した。
ティコ系では、地球は宇宙の中心d
静止している。 恒星は地球の周りをまわっている。惑星はすべて太陽の周りを回っている。
ティコからケプラーへ:ケプラーの法則
1600年、ティコはケプラーをプラハに招き、助手として雇った。ケプラーはそれまで天文学者として活動していた。ティコは自身の天文観測のデータをケプラーに委ね、まもなく没した。
ケプラーは天体モデルの改良にいそしんだ。1609年、その研究結果を『新天文学』で発表した。 本書では、いわゆるケプラーの第一法則と第二法則が提示された。
上述のように、伝統的な理論では、惑星はすべて同じ運動をしていた。それは(地球を中心とした)円運動であり、しかもその運動の速度も同じだとされた。ケプラーはこの考えを覆す。
ケプラーの第一法則は、惑星の軌道が(太陽を中心の一つとする)楕円であることを示すものである。惑星の運動が円運動だという考えは2000年も続くものだった。ケプラーはこれを覆した。
第二法則は、惑星の運動に関するものである。ケプラーは惑星が同じ速度で移動しないと論じた。移動速度は変化する。たとえば、火星が太陽に近いほど速く動き、遠ざかるほど遅く動くことを示した。
このようにして、ケプラーは伝統的なアリストテレスとプトレマイオスの天文学を大きく刷新した。
ガリレオの天文学
この時期、ガリレオもまた天体観測で成果をあげた。たとえば、月の表面を観察した。あるいは、木星の衛星を発見した。これらの成果は1610年の著作で公にした。
これらの成果は地動説を支える論拠にはならなかった。だが、アリストテレス理論の反証例になった。たとえば、 アリストテレス的宇宙観では、地球のような天体はほかに存在しないはずである。だが、月の表面はこの点で地球のようであった。
ブラーエやガリレオの天体観測は伝統的な天動説を弱め、コペルニクスの地動説の信憑性を高める証拠として機能していった。そのため、地動説を天動説の実質的な代替案として考える流れもうまれつつあった。
ガリレオとカトリック教会の対立
そのような動向の中で、カトリック教会では、地動説に敵対的な動きがでてきた。1616年にコペルニクスの『天体の回転について』が修正されるまでは発禁という処分を受けた。修正すべき部分が修正されるまで出版禁止という意味である。
地球は動いており、太陽は世界の中心で静止しているという主張が修正されるべきとされた。だが、本書の 数学的モデルなどは問題視されなかった。
同じタイミングで、ガリレオはコペルニクスの地動説を物理的な事実として支持したり擁護したりしないよう忠告された。
地動説 vs カトリック教会?
このようにして、旧態依然のカトリック教会は地動説を弾圧し始めた。科学革命の伝統的な説明ではこのように説明されてきた。だが、事態はそれほど単純でもなかった。
たとえば、カトリック教会の主要な勢力だったイエズス会などは地動説に全面的に反対というわけでもなかった。むしろ、当時の最新の天体観測のデータなどを活用した。旧来のプトレマイオスの天動説モデルの刷新にも積極的だった。ガリレオの天体観測の新しい結果も称賛していた。
ガリレオの異端判決
1623年、ガリレオの友人のバルベリーニ枢機卿が教皇ウルバヌス8世として即位した。ガリレオはこれをチャンスとみた。ウルバヌスに謁見し、コペルニクスの地動説にかんする著作の公刊を一定の条件で許可された。
それは、コペルニクスの地動説を仮説として扱い、この地動説とアリストテレスの天動説の比重を同等にするという条件である。このように、カトリック教会のトップたる教皇が地動説の著作の公刊を条件付きで許可した。
かくして、1632年、ガリレオは『プトレマイオスとコペルニクスの2つの偉大な宇宙の仕組みに関する対話』を公刊した。
だが、ガリレオは軽率だった。上述の条件を形式的に満たしたふりをして、実質的には満たさなかった。コペルニクスの地動説がプトレマイオスやアリストテレスの天動説よりも優位にあると実質的に論じていた。
1633年、ガリレオは本書のために、カトリック教会の裁判にかけられた。「異端の疑いが強い」という判決がくだった。 ガリレオはコペルニクス的体系の物理的実在性を異端として否定することを余儀なくされた。さらに、終身の禁固刑となった。本書は禁書目録に追加された。
このように、カトリック教会の中枢が地動説に警戒していたのは事実である。だが、ガリレオが情勢を読んでバランスを取れていれば、異端として断罪されるのは回避できたかもしれない。伝統的な天動説への天文学的な反証データが増え、その刷新の必要性がカトリックの聖職者にも共有され、その試みもなされていた。
物理学の刷新
先述のように、アリストテレスの伝統的な理論では、天文学は地球上の物理学と連動していた。そのため、コペルニクスの地動説は伝統的な天文学を批判した後も、なかなか受け入れられなかった。
この物理学の刷新に貢献したのはガリレオとデカルトそしてニュートンである。順に見ていこう。
ガリレオの批判
まず、ガリレオは様々な点でアリストテレス理論を批判した。物体の運動について、アリストテレスは一つの物体が同時には一種類の運動しかできないと論じていた。たとえば、石が落ちる場合、まっすぐに落ちるという運動しか同時にはできない、と。
これは地球が自転しているという地動説への反論として機能した。たとえば、 人が塔の上に立って石を落とすと、その石はまっすぐに落ちて塔の横、人が石を放った場所の真下に落ちる。
地球が自転しているとしよう。すると、石は落下している間に、円運動もすることになる。地球が円運動(自転)しているからである。よって、石は真下ではなく、塔から少し離れた場所に落ちることになる。だが、実際にはそうなっていない。よって、地球は自転していない。アリストテレス主義者は地動説にたいして、こう反論していた。
この点にかんして、ガリレオは地球の自転を証明できるまでには至らなかった。だが、物体が同時に複数の運動をしうるという主張は後の世代によって正しいことが証明されることになる。落下する物体は放物線(直線と円の運動)を描くのである。
ガリレオは慣性の概念を発展させ始めることでも、アリストテレス理論を崩していった。アリストテレス物理学では、静止は本来の状態であった。よって、運動に説明が必要だった。
物体が本来あるべき場所に達すれば、静止する。よって、地球はあるべき場所としての宇宙の中心で静止している。宇宙では太陽の周りをまわったり、自転したりしていない、と。
これにたいし、ガリレオは慣性の考え方で反論する。静止も運動も「正常」な状態ではない。静止であろうと運動であろうと、一方から他方に変化するなら、説明を必要とする。たとえば、 静止している物体が動き始めると、説明が必要になる。惑星も同様だと論じた。
デカルトの機械論哲学
デカルトはアリストテレス物理学とはより根本的に異なる理論を提示した。デカルトは次のような機械論的哲学を提示したのである。
デカルトはすべての物質が運動する粒子からできていると考えた。 宇宙全体は物質で満たされている。物質を構成するすべての粒子は絶えず動いており、相互に影響を与えあう。
よって、地上と天体の現象は物質の粒子が互いに衝突し、押し合うことによって生み出される。アリストテレス理論でのような地上と天体の運動の区別は存在しない。さらに、すべての物体には本来あるべき場所など存在しない。よって、地球が宇宙の中心で静止すべき理由などないのである。
かくして、デカルトらの機械論哲学がアリストテレス哲学と対決することになる。デカルト自身もそのような論争に巻き込まれる。
ちなみに、機械論哲学者は自然を研究するのに実験的なアプローチを好んだ点でも、科学革命に貢献した。
集大成としてのニュートン
ニュートンはこれまでみてきた地動説の天文学と物理学の集大成として位置づけられてきた。主著は1687年の『自然哲学の数学的原理』である。これが地動説を物理学の面で支えることになる。
本書において、ニュートンは運動の3つの法則を提示する。第一法則は慣性の法則である。物体は何らかの力を加えられない限り、一直線に動き続ける。第二法則は、力と運動の比例性である。運動の変化は加えられた力に比例する。第三法則は、作用と反作用の等価性である。
地動説の論証で特に重要なのは、重力の概念である。重力は地球上で物体を地表に落下させる力である。同時に、天界において、惑星を太陽の周りで運動させる力でもある。
このように、ニュートンは重力という概念によって、地上と天上の物体の運動を説明している。よって、アリストテレスの地上と天界の運動の区別を完全に崩壊させている。
ニュートン物理学はケプラーの法則の妥当性を論証するのに貢献した点も重要である。ケプラーは惑星の軌道が円ではなく楕円だと論じていた。だが、この主張はすぐには受け入れられなかった。ニュートンはこの楕円の軌道が重力と慣性の力の作用の結果だと論証した。そのようにして、ケプラー理論が受け入れられる道を拓いた。
科学革命による考え方の変化
科学革命はどのような考え方の変化をもたらしたのか。それは、近代科学的な考え方への移行だというのが一般的な答えである。
というのも、そもそも、科学革命は近代科学的な考え方をもたらした原因を探し求める際にうみだされた概念だからである。中世の理論から近代科学への転換期のことを科学革命と呼んでいる。
とはいえ、科学革命の内容に関する研究はより豊かに、複雑になってきているが。
天文学での変化については、適した図が二つあるので示しておこう。まずは、1500年代前半の天動説の図である。中心に地球がある。
次に、1700年代はじめの地動説の図である。太陽が中心であり、地球は大きめに描かれている。木星には衛星が4つ描かれている。
このような考え方の転換が生じた。
おすすめ関連記事
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おすすめ参考文献
菅野礼司『科学はこうして発展した : 科学革命の論理』せせらぎ出版, 2002
Hamish Scott(ed.), The Oxford handbook of early modern European history, 1350-1750, Oxford University Press, 2018
Teich Mikuláš, The Scientific Revolution Revisited, Open Book Publishers, 2015