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スピノザ:「寛容な国」で許容されなかった哲学者

 スピノザは17世紀オランダの哲学者(1632―1677)。ユダヤ人の家庭に生まれたが、アムステルダムのユダヤ教共同体に破門されながら、聖書批判などを行い、独自の哲学を構築した。代表作には『エチカ』や『神学政治論』などがある。のちのロマン主義やドイツ観念論に大きな影響を与えたとされる。

スピノザ(Benedictus De Spinoza)の生涯

 スピノザはオランダのアムステルダムで裕福な商人の家庭に生まれた。父はユダヤ人であり、ポルトガル出身だった。16世紀、ポルトガルはジョアン3世などのもとで、ユダヤ教徒への弾圧を強めた。そのため、多くのユダヤ教徒が亡命し、その一部はアムステルダムに到来した。スピノザの父もまたその一人だった。父はユダヤ教団体の高い地位についた。

 アムステルダムのユダヤ人として

 アムステルダムでは、ユダヤ教が市当局から一定の寛容を認められていた。ユダヤ教の学校がユダヤ人コミュニティのもとで運営されていた。スピノザはこれに通い、聖書やヘブライ語などを学んだ。早くから学才を開花させた。家業を手伝うために学校を卒業した後も、ラテン語や幾何学などを学んだ。同時に、ユダヤ教の学校で教える側にもなった。

 1654年、父が没した。1656年、スピノザはユダヤ教団から破門を宣告された。その理由については、現在でも議論が割れている。スピノザが当時のアムステルダムのユダヤ教団からみて異端的な考えをもったからだとしばしば論じられる。だが、当時そのような理由で破門されたケースは少なかったようだ。

 破門により、スピノザはユダヤ人とのネットワークから概ね疎外されるようになった。この頃にクエイカーらと知り合いになった。聖書の記述にたいする疑念を抱いた点で、彼らと共鳴した。

 哲学者として:『神学政治論』

 スピノザはアムステルダムで命の危険を感じたため、1661年、レインスブルフに移った。その地で、レンズ磨きで生計を立てながら、哲学の研究に打ち込んだ。著述活動にもはげみ、同年には『知性改善論』を公刊した。フランスの哲学者で、1630年代にはオランダで活動していたルネ・デカルトの理論にスピノザは興味をもち、学んだ。1663年には、『デカルトの哲学原理』を公刊した。本書はスピノザが自身の名前のもとで出版した唯一の本となる。なお、当時のオランダではデカルト理論への称賛と批判の両方がみられた。

 その頃、H.オルデンブルフがスピノザを訪ね、親交を重ねた。彼の紹介で、スピノザはイギリスの哲学者ロバート・ボイルと知り合った。

 その後、スピノザはハーグに移った。そこでも研究と著述に打ち込んだ。1670年、『神学政治論』を匿名で公刊した。だが、すぐにスピノザの著作だと知られた。本書は聖書批判や政治哲学上の内容から話題になったが、発禁に処せられた。聖書批判では、聖書を神が何らかの超自然的な仕方で著した書ではなく歴史的に成立した書として捉え直そうとした。その結果、多くの神学者たちの非難を浴びることになった。だが、同時に、スピノザは本書に好意的な学者などとの交流をもった。

 オランダの混乱の中で

 1672年、オランダはフランスやイギリスなどとの戦争で滅亡の危機にさらされた。オランダはそれまでヨーロッパの中でも列強国の一つであり、繁栄していた。国際情勢にあわせて、イギリスやスペイン、神聖ローマ帝国などと戦争を行った。だが、1672年の戦いはそれまでにないほどの危機であり、1672年は災厄の年と呼ばれたほどだった。その混乱の中で、オラニエ公ウィレム3世が国民の期待を受けて総督になった。

 それまで共和主義者のウィット兄弟が宰相としてオランダを率いていた。彼らはかつて第一次英蘭戦争で敗北した際に、ウィレム3世がオランダ総督になるのを妨げようとするイギリス政府の要求を受け入れていた。この一件がオランダで露見し、物議を醸した。だが、その頃はウィット兄弟の権力が安定していたので、これは大きな問題にならなかった。しかし、いまやオランダは危機的状況に追い込まれ、ウィット兄弟の影響力も弱まった。政争に負け、牢獄に入れられ、拷問を受けた。その挙げ句に、オラニエ派の暴徒に惨殺された。

 スピノザはオラニエ派の君主主義ではなく、共和主義のウィット兄弟を支持していた。だが、ウィット兄弟の悲惨な最期を知り、1673年、フランスやドイツへの移住を考えた。ドイツからはハイデルベルク大学で哲学教授の職を打診されていた。だが、自身の望むような学問の自由を得られないと感じ、結局はこれを断った。

 『エチカ』の完成

 スピノザはハーグで研究と著述を続けた。1675年、主著として知られる『エチカ』を完成させた。本書は既存のキリスト教神学に痛烈な批判を浴びせた。本書がスピノザの身に危険をもたらすという友人の忠告により、出版を控えた。なぜ身に危険がおよぶのか。本書は汎神論の立場をとった。そのため、唯一の人格神というキリスト教やユダヤ教の伝統的な考えと対立したからだった。長らく、スピノザは無神論者というレッテルを貼られることになる。

 この頃にも、スピノザは様々な学者らと交流をもっており、1676年にはドイツの哲学者ライプニッツの訪問をうけた。だが、1677年に病没した。

 スピノザと縁のある人物

ルネ・デカルト:スピノザに一定の影響を与えたフランスの哲学者。オランダで自由に学問をするのが難しかった点でも共通していた。

スピノザの肖像画

スピノザ 利用条件はウェブサイトにて確認

スピノザの主な著作・作品

『知性改善論』(1661)
『デカルトの哲学原理』(1663)
『神学政治論』(1670)
『エチカ』(1675)
『国家論』(1675)

おすすめ参考文献


國分功一郎『スピノザ : 読む人の肖像』岩波書店, 2022

工藤喜作『スピノザ』清水書院, 2015

Jonathan I. Israel, Spinoza, life and legacy, Oxford University Press, 2023

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