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谷崎潤一郎:艶めかしき世界

 谷崎潤一郎は明治から昭和の小説家(1886―1965)。早くから才能を認められ、女性崇拝の悪魔主義的な作品を公刊した。昭和に入り、日本の古典美に関心を深め、作風も変化した。『春琴抄』や『細雪』などの名作を残した。『源氏物語』の現代語訳も行った。『細雪』は現代版の『源氏物語』とも評されている。

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の生涯

 谷崎潤一郎は東京の日本橋で商人の家庭に生まれた。父が商売に失敗したため、谷崎は少年期から貧しい生活を送った。1901年、府立第一中学校(現在の日比谷高校)に入った。学才を開花させ、飛び級を許された。漢詩を発表するなど、文筆活動も始めた。

 1905年、谷崎は第一高等学校の英法科に入った。ここでも文筆活動を続け、1908年に卒業した。東京帝国大学の国文科に入った。

 小説家デビュー:悪魔主義の時期

 1910年、谷崎は、和辻哲郎らとともに、第二次『新思潮』を創刊した。創刊号から『誕生』や『刺青(しせい)』などの作品を次々と発表した。1911年、谷崎の『秘密』が『中央公論』に掲載された。同時期に、作家の永井荷風が谷崎の作品を高く評価する論評を公にした。かくして、谷崎は文壇に登場することになった。

 1912年、谷崎は『悪魔』を公刊した。この時期の谷崎作品の特徴はマゾヒズムや官能美、女性崇拝にあると評されている。端的に、悪魔主義と呼ばれる。

 1915年には、谷崎は石川千代と結婚した。『お艶殺し』などを公刊したが、発禁となった。そこで、『異端者の悲しみ』などの自伝的な内容の作品を公刊した。1919年には神奈川県の小田原に移った。この頃、いわゆる「小田原事件」が生じた。

 すなわち、妻の千代をめぐって、親友の佐藤春夫と大きな揉め事となり、絶交するに至った。なお、この事件は1930年に谷崎が千代と離婚して佐藤春夫に譲るかたちで幕引きとなる。

 谷崎と映画

 日本の映画製作は19世紀末に始まり、大正時代には本格化していった。谷崎はこの映画の黎明期に映画から大きな影響を受けた。映像という新たなメディアに接触し、衝撃を受けた。1918年には映画を題材とした「人面疽」を執筆した。
 1920年、大正活映株式会社が創立された。これはアメリカ映画を輸入するのみならず、独自の映画の製作を行った。そこに、谷崎が文芸顧問として雇われた。当初、大正活映は「人面疽」を映画化しようとしたが、これはとりやめた。そのかわり、谷崎が原作の「アマチュア倶楽部」などを映画化した。「アマチュア倶楽部」
 谷崎は映画の魅力にとりつかれ、自らのその製作に関わるうちに、映画とはなんであるかを深く考察するようになった。谷崎はこの新たなメディアをどう理解していたのか。「アヹ・マリア」において、谷崎は「映画と云ふものは人間が機械の力で作るやうになつた精巧な夢」だと端的に言い表している。

 映画はどのような夢なのか。それは映画の観客が現実の世界と映画の虚構の世界を混同させるような夢である。映像という新しい手法に観客が陶酔することによって、この虚実の境界を曖昧にさせ見失わせるものである。
 同時に、谷崎は映画業界に身をおいていたために、映画産業の問題にも目を向けた。映画界のそれぞれのスターは固有であるようにみえて、実は替えがきく。あるスターがいなくなれば、別のスターで作品を製作し、売上を得ることができる。映画産業はスターを生み出しては消費するということを繰り返す。谷崎はこのような側面を指摘した。
 このような映画とその製作の経験が彼自身の小説にも影響を与えたと評されている。

 作風の深化:古典主義の時期

 1923年、関東大震災が起こり、東京に甚大な被害をもたらした。谷崎は関西に移った。これ以降、谷崎作品に大きな変化が生じていった。『痴人の愛』では、当時流行のモダン・ガールの日常を描写した。

 1930年代、谷崎は日本の古典への関心を深めていった。関西での生活が、たとえば人形浄瑠璃や文楽を頻繁に観劇するようになったのが一因だろう。1933年の『春琴抄』が好評をえた。

 谷崎は日本美術にかんする考えを『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』で公にした。1935年には、根津松子と結婚した。谷崎は社会的にも名声を確立し、1937年に芸術院の会員となった。

『源氏物語』の翻訳

 1939年、谷崎は与謝野晶子のように『源氏物語』の現代語訳を行った。谷崎はその序において、「原文に盛られてある文学的香気をそつくりそのまゝ、とは行かない迄も、出来るだけ毀損しないで現代文に書き直さうと試みた」と述べている。

 しかし、この時代はすでに軍部の言論統制が始まっていた。皇族や性愛はタブーのテーマになりつつあった。そのため、『源氏物語』は危険視されていた。谷崎の現代語訳も検閲をうけ、多くの部分が削除された。
 この時期に、谷崎は唯一の長編小説『細雪(ささめゆき)』の執筆もはじめた。後述のように、『源氏物語』の現代語訳の試みが『細雪』の制作に一定の影響を与えた。1943年に『中央公論』で連載を始めた。だが、発禁処分となった。それでも谷崎は執筆を続けた。これは谷崎流の抵抗だったとされている。

『春琴抄』

 大阪の商人の娘の琴(こと)は幼い頃に失明する。琴は三味線を習い始め、楽才を開花させる。春琴を名乗るようになり、一門の中でも最上の腕前となった。美貌でも知られ、才色兼備で名を馳せた。だが、性格は驕慢であった。

 春琴が師匠のもとに通う際には、年上で奉公人の佐助がいつも付き添いをしていた。佐助は春琴を敬慕し、三味線を習ってもいた。二人はついに結婚するに至る。だが、佐助は目下としての立ち位置を続けた。

 ある日、春琴は何者かによって顔に熱湯を浴びせられた。美貌が損なわれた。佐助は春琴の変貌した顔を見まいとして、自ら針を目を突き、盲目となる。美しき春琴は佐助の脳裏で生き続けることになり、二人の愛が深まる。

 晩年

 戦後も谷崎は活発に著述活動を続けた。1948年に『細雪』が完成した。1949年、谷崎は文化勲章を授与された。『少将滋幹(しげもと)の母』や『鍵』などを公刊した。さらに、『源氏物語』の新訳を試みた。1965年、病没した。谷崎作品は海外でも人気をえている。

『細雪』:妻の松子がモデル

 本作は大阪の蒔岡(まきおか)家の四姉妹をめぐる物語である。蒔岡家はかつて栄えていたが、すでに家業が傾いている。しかし、四姉妹のプライドは高い。中心的なのは、1937年から41年までの三女の雪子の5回の見合い話である。物語は次女の幸子の夫である貞之助(さだのすけ)の視点で進んでいく。

 貞之助と幸子は雪子の結婚相手を探し、見合い話を進める。雪子は奥ゆかしく、美人であるが、羞恥心が強い。なぜかなかなか相手が見つからない。これにたいし、四女の妙子は性に奔放で、次々と彼氏をつくる。この二人の娘が対比されながら、物語は進む。最終的には、雪子の結婚が決まるところで終幕となる。

 この物語の蒔岡家は谷崎自身の妻の松子の実家がモデルといわれている。戦前末期の日常生活や四季の風物の描写が織り交ぜられている。その際に、谷崎が上述のように『源氏物語』を現代語訳していたことが『細雪』にも深い影響を与えていると指摘されている。たとえば、登場人物の心情と風物を織り交ぜて描写する手法がまさにそうである。
 この作品の形式的な特徴として、幸子に焦点を置いた語りがその大部分を占めている点がしばしば指摘されてきた。物語が風物の描写とともに進むにしても、その風物の描写は第三者的な客観的描写というよりも、幸子などの人物視点の描写であった。それぞれの色のついた情景描写と心情が一つに織り込まれて、物語が展開されていく。

谷崎潤一郎の肖像写真

谷崎潤一郎 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 谷崎潤一郎の代表的な作品

『刺青』(1910)
『少年』(1911)
『悪魔』(1912)
『異端者の悲しみ』(1917)
『痴人の愛』(1924ー25)
『吉野葛』(1931)
『春琴抄』(1933)
『陰翳礼讃』(1933)
『細雪』(1943ー48)
『少将滋幹の母』(1949ー50)
『鍵』(1956)

おすすめ参考文献と青空文庫


西村将洋『谷崎潤一郎の世界史 : 『陰翳礼讃』と20世紀文化交流』勉誠社 , 2023

佐藤未央子『谷崎潤一郎と映画の存在論 』水声社, 2022

柴田勝二『谷崎潤一郎 : 美と生命の間』勉誠出版, 2021

※谷崎潤一郎の多くの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1383.html)。

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