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天武天皇:古代で最大のクーデター

 天武天皇は7世紀後半の天皇。生年は未詳であり、没年は686年。在位は673ー686年。兄の天智天皇とともに律令制度の整備を進めた。天智の没後、天智の子と後継者争いで戦った(壬申の乱)。勝利し、天武天皇として即位した。即位後は、律令制度の整備を推進し、天皇を頂点とする支配体制の確立に邁進した。歌人としても有名である。

天武天皇の生涯:天智天皇や持統天皇との関係

 天武天皇は舒明(じょめい)天皇の第三皇子として生まれた。名は大海人(おおあま)皇子である。母は皇極(こうぎょく)天皇であり、兄には中大兄皇子(のちの天智天皇)がいる。息子には草壁(くさかべ)、大津(おおつ)、高市(たけち)、舎人(とねり)の皇子らがいる。妻は持統(じとう)天皇である。

 天武の生年は未詳である。おそらく631年頃と推定されている。645年、兄の中大兄皇子は大化の改新を行ったが、その際には天武はあまり関わっていなかったと思われる。兄が朝鮮から律令政治を日本に導入するようになり、天武はこれを補佐したと思われる。
 657年、天武は中大兄皇子の娘の鸕野(うの)皇女を妃に迎えた(のちの持統天皇)。なお、ほかにも、額田王(ぬかたのおおきみ)や大田皇女をも妃としている。

 663年、白村江の戦いが行われた。背景として、中国で唐が朝鮮半島に勢力を拡大しており、新羅と同盟を組んで百済に攻め込んだ。百済が救援を求めてきたので、中大兄皇子はこれに応じ、朝鮮に救援軍を出した。この戦いが白村江の戦いである。だが、これに敗北した。この敗北は大きな衝撃だった。
 中大兄皇子は体制の再建を余儀なくされた。そこで、664年に冠位二十六階の制などを制定した。667年、都を近江の大津に移した。668年、兄が天智天皇として即位した。天武は皇太子となった。

 壬申の乱:古代日本で最大の内戦

 天智天皇は天武ではなく、自身の子の大友皇子を後継者に選ぼうと考えた。そこで、671年、大友皇子を太政大臣に任命した。そこで、天武は一時、宮廷を去って吉野に出家した。だが、天皇の地位を諦めたわけではなかった。天智天皇は同年に没し、大友皇子が弘文天皇として即位した。

 672年、天武は弘文天皇にたいして反乱を起こした。壬申の乱である。天武は豪族らを協力を得て、1ヶ月ほどの戦闘に勝利し、弘文天皇の近江大津宮を占領した。弘文天皇は自害した。

 天武天皇の治世:律令制度の整備

 673年、天武は都を飛鳥に移し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天皇に即位した。白鳳時代の天皇である。

 天武天皇は、自身の反乱で荒れた政情を安定化させ、天皇をトップとする支配体制を打ち立てようとした。そのための仕組みをみてみよう。
 まず、天武が自ら政策を次々と決定し実行する親政を行った。それまでのように左大臣や右大臣を置くということはしなかった。そのかわりに、皇后などの皇族を重用した。そのため、天武の統治のあり方は皇親政治と呼ばれることがある。

八色の姓

 天皇の下に有力者を体系的に組みこむために、684年、八色の姓 (やくさのかばね)を制定した。これは8種類の姓を制定し、それぞれの有力者に配分した。その8つの姓は真人(まひと)、朝臣(あそん/あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)である。これは天皇に近い者ほど高い身分の姓を、遠い者ほど低い身分の姓を与えられるようになっている。

公地公民制など

 さらに、天武は豪族の勢力を抑制しようとした。たとえば、675年、豪族に支配されている民(部曲)や山野を収公した。公地公民制を推進し、すなわち全ての土地と民を天皇に帰属させようとした。かくして、全国の土地と民を天皇の支配体制のもとに包摂しようと試みた。
 さらに、天武は豪族の武器を没収し、自身の軍事制度を整備していった。同時に、685年、位階六十階などの官職の制度を整備した。そうすることで、彼らが天皇の新たな支配体制の中で出世できるようにし、この体制へと自発的に組み込まれるよう促した。
 そのほかにも、国史編纂事業で自身の統治の正統性を高めようとした。飛鳥浄御原律令を編纂した。このようにして、律令制度をさらに発展させていった。

 もっとも、天武天皇の時代に完成された事業は少なく、多くが後代の天皇に委ねられた。たとえば、『古事記』や『日本書紀』が完成するのは8世紀に入ってからである。

 歌人として(万葉集)

 また、天武天皇は歌人としても活躍した。『万葉集』の第二期の人物であり、これに彼の歌が四首所収されている。その人柄を表すものと評されている。

天武天皇の歌

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも

淑よき人の良しとよく見て好よしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見つ

我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後

み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間ま無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来こし その山道を

一首を紹介

 「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも」は天武天皇がまだ大海人皇子の時代に上述の額田王におくった歌である。これは額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」への返歌である。

 上述のように、額田王は天武の妻だった。だが、その後に天智天皇の寵愛を受けるようになっていた。天武が天智天皇との薬猟に同行した後、宴会でこの歌のやり取りを披露した。天武は今もなお美しい額田王のことを、人の妻になってもなお恋しいと詠んでいる。

 686年、天武天皇は没した。陵墓は奈良県の檜隈大内陵(ひのくまおおうちりょう)である。

天武天皇の肖像画

天武天皇 利用条件はウェブサイトにて

出典:国立国会図書館(https://dl.ndl.go.jp/pid/849546/1/1)

おすすめ参考文献

寺西貞弘『天武天皇』筑摩書房, 2023

虎尾達哉『律令政治と官人社会 』塙書房, 2021

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