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内村鑑三:明治・大正の日本を生きた代表的キリスト者の生涯と思想とは

 内村鑑三は明治から昭和の日本のキリスト教の指導者(1861―1930)。北海道でクラークに師事し、新渡戸稲造らと友人になった。キリスト教徒になり、アメリカに留学した。帰国後、教育勅語をめぐって不敬事件を起こした。キリスト教の著作を執筆して文名を高め、日本のキリスト教の主導者となった。以下では、まず内村の生涯を、次にその思想を紹介する。

内村鑑三(うちむらかんぞう)の生涯

 内村鑑三は江戸で高崎藩士の過程に生まれた。1873年に有馬私学校の英学科に入り、1874年に東京外国語学校に移った。

新渡戸稲造らとの出会い

 1877年、内村は北海道に移り、札幌農学校に入った。新渡戸稲造らと友人になった。「 少年よ大志をいだけ」で有名なクラークに影響を受けた。クラークの役割は農業を教えることだった。

 だが同時に、彼は熱心なクリスチャンであり、聖書の授業を通して学生たちにキリスト教の信仰を紹介した。
 1878年、内村はプロテスタントのメソジスト教会の宣教師メリーマン・ハリスのもとで、キリスト教徒に改宗した。札幌基督教会の設立に参加した。

 1881年、内村は農学校を卒業し、開拓使御用掛(ごようがかり)になった。1882年に辞職して東京に移り、農商務省に入った。

 アメリカ留学:宗教的回心

 1884年、内村は離婚などをきっかけに、アメリカに渡った。そこでは、クエイカーのウィスター・モリス夫妻の斡旋で、知的障害児の施設で働いた。内村は夫妻の信仰心にも影響を受けた。

 1885年、アマースト大学に入った。総長のシーリーに感銘を受けた。シーリーを信仰にかんしては父のような存在と考えるようになった。彼の教えた信仰を説こうと考えた。
 1886年3月に宗教的な回心を体験した。それまで、内村は自身の努力によって魂の救済をえようとした。だが、義認は自身の努力では達成しえず、キリストの贖罪によって達成されるものだと確信するようになった。
 1887年に大学を卒業し、ハートフォード神学校に入った。

 1888年、内村は帰国した。内村は新潟のキリスト教系私立学校の北越学館に教頭として赴任した。だが、後述のような理由で、宣教師と経営方針などで対立し、辞職して東京に移った。

 キリスト教徒として:「不敬事件」

 1890年、内村は第一高等中学校の嘱託教員となった。同年、大日本帝国憲法の制定や国会開設に合わせて、教育勅語が発布された。
 1891年、第一高等中学校で教育勅語の奉読式が行われた。これは天皇が親署した教育勅語を奉読する儀礼である。

 だが、内村はキリスト教の信仰に基づいて、その奉拝を行わなかった。これが大きな問題とみなされ、辞職に追い込まれた。これは不敬事件として知られている。この事件から、宗教と教育にかんする論争が生じていく。

 日本でのキリスト教の主導者へ

 内村は世間から厳しい批判を受けながら、大阪や熊本などを転々とし、教師をつとめた。そのかたわら、キリスト教にかんする著作を次々と発表する。1893年には『基督信徒の慰(なぐさめ)』を発表した。

 1894年には『日本と日本人』を英語で、1895年には『余は如何にして基督信徒となりし乎』を英語で公刊し、文名を高めた。1897年に上京し、『萬朝報(よろずちょうほう)』で英文の主筆となる。

 なお、内村は日露戦争後の1908年に、『日本と日本人』をもとにして『代表的日本人』を英語で公刊し、海外に日本紹介を行うことになる。本書において、内村は日本人の精神を築き上げてきた5人の偉人を挙げた。

 幕末に活躍した薩摩藩の西郷隆盛、戦国時代の上杉鷹山(ようざん)、江戸時代後期の二宮尊徳、江戸初期の儒学者の中江藤樹(とうじゅ)、鎌倉時代の仏僧の日蓮である。

 1898年、内村は『東京独立雑誌』を創刊した。キリスト教精神に基づいて、活発に社会批判を開始した。1900年にはこれを廃刊とし、かわりに『聖書之研究』を創刊した。
 1901年には『無教会』を公刊した。カトリック教会などと異なり、現世に確立された教会制度をもたない無教会主義を主導した。

 社会運動の推進へ:公害や戦争の問題

 同時に、内村はキリスト教的な社会運動を主導した。この頃、議員の田中正造が足尾鉱毒事件を議会で厳しく追及するようになった。内村は社会主義者の幸徳秋水らとともにそれを後押しした。

日露戦争へ

 その頃、日本は中国と朝鮮での権益をめぐって、ロシアとの関係を悪化させていた。世論はロシアへの開戦を支持した。
 内村は1894年の日清戦争にかんしては、政府を支持していた。朝鮮を中国から守るためには、その正義のためには剣が使用されるべきだと論じた。だが、その後の展開をみて、内村はこの支持を次のように撤回した。

 1904年の日露戦争については、内村は当初から反対だった。クエイカーのように非戦論を唱えた。だが、結局、日露戦争の開戦に至った。

晩年

 晩年には、内村は社会運動の第一線から退き、宣教活動に打ち込んだ。矢内原忠雄(やないはらただお)らの弟子を育て上げ、都市部のみならず農村部にも広く影響をもった。1918年にはキリスト再臨運動を展開した。1930年に没した。

 内村の思想

 内村の教会思想と運動としては、無教会主義が有名である。

 無教会主義とは

 内村は西洋のキリスト教の信仰を受容した。だが、カトリック教会や主要なプロテスタント教会のような確立された教会制度を日本に導入することには反対した。
 その代わりに、そのような確立された目に見える教会制度をもたないような教会のあり方を提示した。それが無教会主義である。
 無教会主義はそれらの伝統的な教会と異なる信仰の組織をもつ。内村は教団ではなく学校の形式が日本ではより適していると考えた。
 そのため、教会堂での礼拝の代わりに、内村はホールや自宅を借りて講義を行った。内村の弟子は彼自身の私塾の有料会員であった。

 信仰のための組織を結成し、上述の『聖書之研究』などを公刊した。これらのネットワークが信仰のネットワークとなった。
 内村は毎月集会を開き、日曜日には聖書の講義を行った。内村の死とともに、これらの定期的なグループは解散し、『聖書之研究』も廃刊となった。
 このように、無教会主義の信仰組織はリーダーの個人的カリスマに基づくものである。よって、それ自体がかなり流動的である。
 伝統的な教会制度では、聖職者になるための試験や序列などの制度が確立されている。無教会主義は聖職者になるための要件のようなものもない。
 財政基盤についても両者は異なる。伝統的な教会は献金や十分の一税などである。これにたいし、無教会主義は聖書の講義の入場料や上述の定期雑誌の購読料である。

 無教会主義の理由

 内村はなぜこのような無教会主義に至ったのか。なぜ確立した教会制度を否定したのか。
 それは、内村が西洋のプロテスタンティズムを一層徹底しようとしたことによる。上述のように、内村は札幌でプロテスタントの信仰を受容し、アメリカでそれを深めた。
 内村からすれば、プロテスタントはかつての宗教改革で信仰の刷新を試みて一定の成果をえた。だが、その後のプロテスタントは教会の制度化によって、かつてのカトリックのような信仰に回帰してしまった面がある。よって、再び宗教改革を実行する必要がある。
 新しいプロテスタンティズムはどのようなものか。内村はその本質が教会の制度や組織ではなく、魂の交わりにあるという。
 そこでは、神の子イエス・キリスト以外には、どのような人間であれ、心の聖職者ではない。カトリック的な司教でもプロテスタント的な牧師でも、同様である。各信徒と神の間には、いかなる聖職者も存在しない。
 よって、従来の聖職者がカトリックあるいはプロテスタントにおいて執り行ってきた宗教儀式としての秘跡も否定される。カトリックの告解や堅信のみならずプロテスタントの洗礼や聖餐もまた否定される。

 これらの儀式を排除することで、信仰による救いが徹底されるためである。このような聖職者階級や宗教儀式の否定の点で、内村はクエイカーの影響を受けていると評されている。少なくとも、両者に共通点がみられる。

 日本の伝統との接合

 内村が無教会主義を樹立したほかの主な理由は、キリスト教を日本の土壌に根付かせるためだった。内村はアメリカから帰国した頃には、西洋のキリスト教をそのまま日本に持ち込むことに無理を感じていた。

 日本で真の信仰を生み出すためには、日本の伝統や文化の上にキリスト教を接合しなければならないと考えた。その際に、日本の伝統や文化はキリスト教の信仰を阻害するものではなく、その発展に役立たせることができるとも考えた。
 そのため、内村は北越学館につとめた際には、儒教や仏教の講義をカリキュラムに組み込もうとした。だが、西洋の宣教師がこれに反対し、結局辞任した。その後も、そのような接合のために、日本の伝統や文化についても研究を進めた。

 武士道や儒教との関係

 接合において、内村は例えば武士道に着目した。上述のように、内村はそもそも武士階級の出身である。内村は優れた儒学者の父から儒教を学んだという。よって、武士道は江戸時代の儒教の流行にみられたように、儒教と密接に結びついていた。

 内村はその特徴をこう説明する。まず主君への忠義と両親への孝である。さらに、金銭を蔑視し、独立心を養うものである。
 内村からすれば、武士道はキリスト教と親和的である。忠誠心や独立心、そして金銭への蔑視という点に関しては、使徒パウロは真のサムライであるといえる。まさに武士道精神の体現者とさえいえる。よって、武士道はキリスト教と敵対しない。
 さらに、内村は武士道にキリスト教の発展のための積極的な役割を見出した。内村はこのような武士道が日本の最も重要な産物であるという。
 だが、武士道だけでは日本を救うことはできない。武士道にキリスト教を接ぎ木すれば、このキリスト教は日本を救うだろう。

 それだけでなく、これは世界の最良の産物となる。よって、現代の全世界をも救うだろう。そのために、神はこれまで日本で武士道を育て上げてきたのだ、と。このようにして、内村は日本の伝統や過去の上にキリスト教を根付かせようとした。

内村鑑三の『代表的日本人』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)

内村鑑三の『基督信徒のなぐさめ』の朗読の動

 内村鑑三と縁のある人物

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 内村鑑三の肖像写真

内村鑑三 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 内村鑑三の代表的な著作

『基督信徒の慰め』 (1893)
『求安録』 (1893)
『余は如何にして基督信徒となりし乎』 (1895)

おすすめ参考文献と青空文庫

関口安義『内村鑑三 : 闘いの軌跡』新教出版社, 2023

若松英輔『内村鑑三 : 悲しみの使徒』岩波書店, 2018

Mark R. Mullins, Christianity made in Japan : a study of indigenous movements, University of Hawaiʿi Press, 1998

※内村鑑三の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person34.html)

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