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ベラスケス:スペイン黄金時代の代表的な画家

 ベラスケスはスペインの黄金時代を代表する画家(1599-1660)。故郷セビーリャで修行した後、同郷人のオリバレス伯爵を介して、マドリードの宮廷で画家として成功する。ルーベンスと交流し、イタリア留学で腕を磨く。『女官たち』のような名作を生み出しながら、建築などの仕事も行った。この記事では、ベラスケスの生涯と絵画の特徴を、その絵画作品の画像とともに、その背景のもとで説明する。

 ベラスケス(Diego Velázquez)の生涯

 ベラスケスはスペインのセビーリャで公証人の家庭に生まれた。父はポルトガル人であり、母がスペイン人である。

 セビーリャの時期

 1609年、少年だったベラスケスは早くも画家としての道を進み始めた。1611年には、マニエリスムの画家フランシスコ・パチェコに師事した。ここで6年間、修行を積んだ。
 パチェコは単なる画家ではなく、当時のセビーリャでも傑出した文化人だった。

 彼の邸宅において、貴族や聖職者、詩人などが集まり、文芸活動をおこなっていた。ベラスケスは早くからこのような活動から刺激をえていた。
 1617年、ベラスケスは弟子としての修行を終え、セビーリャで絵画の親方としての試験に合格して独立した。画家ギルドに登録し、画家として独立した。1618年には、師匠の娘と結婚した。

 1622年まで、ベラスケスはセビーリャで画家として活動した。この時期のベラスケスは、フランドル画派やカラヴァッジョの影響がみられた。自然主義的な静物画や日常的な風景画を描いた。
 また、セビーリャの宗教的雰囲気の中で、聖画を多く描いた。マギたちが生誕したばかりのキリストを訪れる『三博士の礼拝』のような伝統的な聖画を描いた。
 ほかにも、ベラスケスは聖母マリアの『無原罪の御宿り』も描いた。これは、当時のスペインでの対抗宗教改革で盛んになった画題である。対抗宗教改革は、1517年のルターの宗教改革がカトリック批判を展開したのにたいし、カトリックの教義を弁護した。その中に聖母マリア崇拝が含まれていた。よって、ベラスケスも初期にはこの流れに属していたことがわかる。

 マドリードへ:宮廷画家になる

 1621年、スペイン王フェリペ3世が死去した。息子のフェリペ4世が王に即位した。この時代のスペインは寵臣の影響力が大きかった。フェリペ3世がレルマ公を重用したのにたいし、フェリペ4世はオリバレス伯爵を重用した。このオリバレス伯爵がベラスケスと同様にセビーリャ出身だった。
 当時のスペインでは、地縁や血縁での縁故主義が社会進出や出世において大きな影響力をもっていた。そのため、セビーリャの芸術家たちはオリバレス伯爵の庇護を得ようと画策し始めた。
 ベラスケスはその一人だった。1622年にマドリードの宮廷を訪れ、オリバレスのサークルに入り込むことができた。様々な肖像画の依頼をこなし、名声と信頼を得た。1623年には、フェリペ4世の肖像画の依頼を受けることができた。

ベラスケスによるフェリペ4世

この肖像画がフェリペ4世を満足させた。その結果、ベラスケスは宮廷画家に任命された。

 宮廷での活躍

 ベラスケスは宮廷画家として活躍しながら、役人としても出世していく。宮廷人たちの肖像画を制作していった。作品はマドリードの主要な街路に飾られることもあり、彼の名声を高めた。

画家としては、スペイン王室の豊富な絵画コレクションから多くを学んだ。特に、フランドル画派やティツィアーノらのヴェネツィア派の影響を受けた。フェリペ2世の時代から、スペイン王権はこれらの作品を好んで収集していた。いわばその成果がベラスケスにおいて結実したといえる。

 ベラスケスは野心的であったため、敵を多くつくった。画家としては、肖像画しか描けないという風評を立てられた。そのため、『ムーア人の追放』のような複雑な構図の作品を世に送り出し、作品で反論した。

 ルーベンスとの交流

 1628年、ベルギーの画家ルーベンスがスペイン宮廷に到来した。ただし、ルーベンスは外交官としても活動しており、このマドリード訪問は主に外交官としてだった。当時のスペインとオランダの戦争の一件で、マドリードに到来した。ルーベンスは1年間、宮廷に滞在した。
 ベラスケスは以前からルーベンスとは文通していた。ルーベンスの滞在中に、親交を深めた。ルーベンスは滞在中に絵画をも制作していた。絵画はルーベンスにとって、外交の道具でもあったためでもある。ベラスケスはルーベンスの絵画制作に大きな刺激を受けた。
 ルーベンスはヴェネツィア派を高く評価していた。ルーベンスとの交流によって、ティツィアーノらにたいするベラスケスの評価は一層高まり、重視されることになった。それのみならず、ベラスケスらを通して、ヴェネツィア派は17世紀のスペイン絵画に根底的な影響をもたらすようになる。

 イタリアでの遊学

 ルーベンスがマドリード宮殿を去ったタイミングで、ベラスケスはイタリア旅行の許可をえて、イタリアに旅立った。これは留学のようあものでもあった。そのきっかけは、ルーベンスとともにエル・エスコリアル宮殿を訪れたことだったようだ。ティツィアーノへの熱意もまたベラスケスを後押しした。

 ジェノヴァ、ヴェネツィア、フェラーラ、ボローニャ、ローマ、ナポリなどを訪れ、1年間滞在した。多くの宮廷で歓待され、様々な絵画コレクションをみて学んだ。ティツィアーノの作品はもちろん、ヴァチカンでミケランジェロらのルネサンスの巨匠の作品を鑑賞し、模写した。

 ブエン・レティーロ宮での制作:『ブレダ開城』

 1631年、ベラスケスは帰国した。この時期、フェリペ4世の離宮としてブエン・レティーロ宮殿が建設された。ベラスケスはこの宮殿のために作品を制作した。「王の間」には、有名な『ブレダ開城』を政策やスペイン王家の肖像画などを制作した。
 『ブレダ開城』は当時のスペインとオランダの戦争にかんするものである。この作品の背景として、16世紀なかば、オランダの地域はスペインの支配下にあった。だが、1568年に、オランダやベルギーの貴族の一部がスペイン王に反乱を開始した。

 オランダが1580年代後半から独立を目指すようになった。 一時休戦を挟んで、1630年代にも戦争が続いていた。ルーベンスがスペインにやってきたのは、この戦争での和平交渉促進のためだった。

 『ブレダ開城』は1620年代の出来事を描いたものである。ブレダの要塞はオランダ総督の本拠地の一つだった。そのブレダをスペインが卓抜した方法で陥落させ、オランダ軍から奪った。これはスペインの軍事的栄光と成功の象徴として喧伝された。ベラスケスは「王の間」という重要な空間のために、そのような象徴的出来事の絵画を描いたのである。
 ほかにも、ベラスケスはマドリード宮廷の主だった人々の肖像画を描いた。ま小人や道化などを描いた。また、国王の狩猟の別荘では、狩人姿のフェリペ4世らの肖像画を描いた。ルーベンスの影響を受けた『聖母の戴冠』も制作した。

 イタリアでの美術品収集へ:ブエン・レティーロ宮のために

 ベラスケスは宮廷役人としても出世していった。絵画だけでなく、建築や会計なども担当した。アルカサルの改築にさいして、ベラスケスはその装飾を担当した。これにふさわしい作品や芸術家を集めるために、1649年、再びイタリアに旅行した。
 ベラスケスはヴェネツィアやボローニャ、パルマへ。 フィレンツェ、ローマなどを訪れた。ヴェネツィアでは、ヴェネツィアの作品を得ようとした。ローマでは、教皇インノケンティウス10世に歓待された。ベラスケスは彼の肖像画を描き、名声を高めた。ほかにも、多くの肖像画の依頼を受けた。行く先々で歓待された。

『フアン・デ・パレハ』

 ベラスケスはローマ滞在中に、奴隷だったフアン・デ・パレハを解放し、自由な身分にした。1650年、パレハの肖像画を描いた。これがローマのパンテオンで展示され、大きな反響をうんだ。

フアン・デ・パレハ

 他の展示作品よりも優れていると評判され、奇跡のような作品だと称賛された。インノケンティウス10世も感嘆させた。帰国後に、野心的なベラスケスは貴族身分を得ようと画策するが、教皇はこの絵画の縁でベラスケスに協力することになる。

 美術品収集の重要性

 この美術品収拾の任務は実に重要だった。なぜか。絵画や彫刻などの芸術作品は芸術的価値をもっていただけではない。スペイン王権の威信を高めるという価値ももっており、そのようや役割を期待された。
 威信は他の時代の他の国と比較しても、当時のスペイン王権にとって重要視されていた。当時の国益を重視するスペイン王権のもとで、国内外でのスペイン王権の威信や評判は国益の重要な要素とみなされていたためである。
 スペイン王権は政治的にみればフェリペ2世の時期がピークであり、ヨーロッパで覇権を握るかのごとくだった。だが、スペインはベラスケスの時期は相対的に衰退し始めていた。その衰退ぶりは当時のスペイン人にも意識され始めていた。
 同時に、スペインはいまだに周辺国からは脅威であった。そのため、スペインの新世界征服などの凶暴ぶりなどをみて、フランスやイギリスなどはスペインの野蛮さや暴虐ぶりに着いての悪い評判を意図的に流布した。これらの背景により、スペイン王権は自身の評判を特に気にするようになり、政策決定にも反映させるほどだった。
 したがって、宮殿を装飾する美術品の収拾は王権の威信という点で非常に重要だった。王権は、外交使節も訪問してくる宮殿を優れた美術品で飾り立てるだけでなく、芸術のパトロンとしての地位を存分に示した。そのために、ベラスケスはに年間をかけて、その任務を果たすことになった。

 晩年

 1651年、ベラスケスは帰国した。すぐにアルカサルの装飾にとりかかった。宮廷役人としてさらに出征していった。そのかわりに、絵画制作に使える時間は減っていった。1656年にはエル・エスコリアル宮殿の装飾も行った。
 ベラスケスはこの時期にも名作を制作した。有名な『女官たち(ラス・メニーナス)』やマルガリータ王女の肖像画はこの時期の作品である。

 この時期、ベラスケスは念願だった貴族の爵位をえた。フェリペ4世への長年の奉仕がこのような形で実った。『女官たち』はその感謝で制作されたという面もあった。

『女官たち(ラス・メニーナス)』

 この作品は1656年に制作された。マドリードのアルカサルの一室において、11人ほどが描かれている。画面の奥の方には、ベラスケス自身が描かれている。画面の中心には、幼いマルガリータ王女が描かれている。

 その左右を、二人の女官が囲んでいる。マリア・アグスティナ・サルミエントとイザベル・デ・ベラスコである。他に、宮廷の道化師と小人なども描かれている。鏡の中に、フェリペ4世夫妻が描かれている。
 光と影の表現と、線の遠近法によって、画面が構成されている。ベラスケスのタッチは間近で見ると意味をなさないものになっているが、遠くから見ればまとまりをなし、像を結ぶようになっている。

ムリーリョとの交流

 1658年には、セビーリャから画家のムリーリョがマドリードの宮殿を訪れた。ベラスケスは同郷人としてムリーリョを支援した。ムリーリョはベラスケスのもとで絵画を学び、王室コレクションを利用し、腕を磨いた。ムリーリョもまたスペイン黄金時代を代表する画家である。

 1660年、フェリペ4世の娘マリア・テレサがフランス王ルイ14世に嫁ぐことになった。この政略結婚は30年戦争でスペインがフランスに敗北したことの結果だった。二人の結婚のための儀式が盛大に執り行われることになった。ベラスケスはその監督を負かされた。当日、自らもこれに出席した。儀式は無事に終わった。

ベラスケスが描いたマリア・テレサ


 だが、マドリードに戻ってすぐ、ベラスケスは急病で没した。

ベラスケスと縁のある人物

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https://rekishi-to-monogatari.net/rube

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ベラスケスの肖像画

ベラスケス 利用条件はサイトで確認

おすすめ参考文献

川村やよい『ベラスケス絵画とスペイン黄金時代美術の形成』同志社大学人文科学研究所, 2018

大高保二郎『ベラスケス : 宮廷のなかの革命者』岩波書店, 2018.

Norbert Wolf, Diego Velázquez : 1599-1660 : the face of Spain, aschen,2016

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