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ウィーン体制:ナポレオン戦争後のヨーロッパ集団安全保障システム

 ウィーン体制は19世紀前半のナポレオン戦争後に成立したヨーロッパの国際秩序である。1815年のウィーン会議で、オーストリアのメッテルニヒの主導のもとで構築され、19世紀後半まで機能した。
 ウィーン体制について知ることで、19世紀前半から半ばまでのヨーロッパの国際秩序のあり方を知ることができる。さらに、19世紀後半にイタリアやドイツの統一などとして結実するナショナリズム運動を理解するうえでも、ウィーン体制はその対立軸として知る必要がある。
 

ウィーン体制の背景

 ウィーン体制の主だった背景として、フランス革命が重要である。1789年、フランス革命が起こった。革命の議会は国王ルイ16世と妻マリー・アントワネットを処刑した。フランスを王政から共和政に至らせた。
 1792年以降、オーストリアやイギリスなどがこの革命を失敗させるために、フランスへの干渉戦争を始めた。だが、ナポレオンがその戦争で頭角を現し、フランスを守った。それどころか、周辺国の制圧に成功していき、イギリスをも征服しそうな勢いだった。
 だが、ナポレオンはロシアとイギリスに勝てず、1814年の戦いで勢いを失った。一度だけ再興を果たそうとしたが、失敗し、1815年に完全に失脚した。
 ナポレオンがそのように失脚するまでに、フランスはヨーロッパで広範な影響力を行使し、その勢力図を大きく変更した。このナポレオン戦争が終わった後、ヨーロッパの政治秩序をどのようなものにすべきか。それを話し合うために、ヨーロッパ諸国が1814年からウィーン会議を開催した。

 ウィーン会議からウィーン体制へ

 会議は難航した。だが、オーストリアのメッテルニヒの主導により、1815年、交渉がまとまり、会議が終わった。ナポレオン戦争がフランスの敗北で終結した。
 ウィーン会議での成果に基づいて構築された戦後の国際秩序がウィーン体制と呼ばれる。その構成要素としては、これから説明していくように、正統主義や勢力均衡、神聖同盟や四国同盟がしばしば挙げられる。上述のメッテルニヒがこの体制の主軸であったことも広く認められている。
 これは長らく、反動的な保守主義の体制として説明されてきた。そうだといえる面もある。だが、この説明には不都合な面もある。たとえば、この体制はナポレオン戦争以前のヨーロッパ秩序への回帰を目指したため、反動的と評されてきた。
 だが、実際には、現在のベルギーはかつてオーストリア領でナポレオンに征服されたが、ウィーン体制ではオーストリア領に復帰せず、オランダと合併して独立国となった。反動的という視点では、この決定は理解できない。
 では、ウィーン体制の特徴とはどのようなものだったか。

 ウィーン体制とは:その目的

 ウィーン体制は保守的な性格をもち、戦後の大国に有利な、国際法に基づく正式な集団安全保障システムであった。戦争の回避と同時に、勃興するナショナリズム運動の抑圧も目的とした。この仕組みは19世紀後半まで、大国間の戦争を予防するのに成功した点で、ヨーロッパの平和に役立った。
 とはいえ、ウィーン体制はなによりも、オーストリアの安全保障を確保するために、メッテルニヒによって構築されたものだった。そのため、ナポレオン戦争後のオーストリアの状況を理解することが重要である。

 戦後のオーストリアの状況:領土の拡大

 ナポレオン戦争後、オーストリア・ハプスブルクの領地は拡大した。この戦争で失った領土を取り戻し、ほとんどすべての辺境で新たな領土を獲得した。
 まず西側では、チロルとザルツブルクの世襲領地を取り戻した。 南西部では、イタリア北部を取り戻し、ロンバルディア-ヴェネチア王国を形成した。 南方では、イリュリア諸州やダルマチアのラグーザを取り戻した。
 東方では、ワルシャワ公国に奪われたポーランドの一部と現代のウクライナのタルノポルを取り戻した。 その結果、オーストリアはヨーロッパ最大の陸上帝国の地位を確保した。ただし、 オーストリア領ネーデルラントを割譲した。

オーストリアの課題

 戦後、オーストリアは二つの大きな問題に直面していた。大国の拡張主義と、ナショナリズム運動の勃興である。
 第一に、大国としては、プロイセンとロシアが特に重要である。当時、ドイツはまだ独立国ではなかった。神聖ローマ帝国が解体されたばかりであり、ドイツ諸侯はドイツ連邦を形成していた。プロイセンはドイツ地域の大国であり、ザクセンなどを併合しようと目論んでいた。
 ロシアもまた大国であり、強大な軍隊をもっていた。ポーランドなどの併合を目論んでいた。これら近隣の大国の覇権主義がオーストリアの脅威だった。
 第二に、ナショナリズム運動の高まりが特にドイツとイタリアで統一・独立運動へと発展していく。ナショナリズムの理念はフランス革命によってヨーロッパで高まった。ナポレオンが周辺地域を征服する中で、祖国を抑圧された人々にナショナリズム運動が広まっていった。
 これらの問題に直面しながらも、20年以上のフランス革命の干渉戦争とナポレオン戦争により、オーストリアは経済的に破綻していた。現状の軍事力を維持できず、縮小する必要があった。よって、自国の広大な領土を単独で守ることはできそうになかった。
 オーストリアは戦後の限られた経済的・軍事的資源で、自国の広大な領土を大国の拡張主義やナショナリズム運動から守らなければならない。そのためにメッテルニヒが構想し、運営していったのがウィーン体制である。
 ヨーロッパの平和を確保することでオーストリアの領土を保全するヨーロッパの集団安全保障の体制である。そこでは、メッテルニヒのオーストリアは軍事力が少ないにもかかわらず、大国として主要なプレーヤーとなった。

ウィーン体制の内実

 ウィーン体制はどのようにしてヨーロッパの平和を集団で(複数の国で)実現しようとしたのか。その鍵は二つある。緩衝地帯の維持・強化と、大国の勢力均衡である。神聖同盟などはその枠組みとして理解できる。

 緩衝地帯の維持と強化

 メッテルニヒはオーストリアの安全を守るうえで、緩衝地帯を重要視した。緩衝地帯とは、大国と大国の間に位置する中立的な小国や地域を意味する。
 地理的にみて、大国が他の大国と国境を接する場合、小さなトラブルが大きな軍事衝突に発展しかねない。最悪なケースでは、そこから大国間の戦争が生じる。
 このような大国間の衝突を避ける手段の一つは、大国と大国の間に小さな中立国を置くことである。この小国がクッション(緩衝材)となることで、大国同士の衝突を和らげたり回避したりすることができる。
 メッテルニヒ以前のオーストリアもまた、緩衝地帯の維持を重要視していた。だが、ナポレオンがこれらの地域やオーストリアの領土を実質的に奪っていった。

 ウィーン会議での緩衝地帯の方針

 ウィーン会議において、プロイセンやロシアのような大国が自国の領土拡大を図った。これにたいし、メッテルニヒは緩衝地帯の復活や設置を説得するのに成功した。
 プロイセンにたいしてはザクセンが、ロシアにたいしてポーランドがオーストリアとの緩衝地帯として重要だった。だが、どちらもウィーン会議で併合されようとしていた。
 そこで、メッテルニヒが外交手腕を駆使した。その結果、オーストリアはポーランドとザクセンを緩衝地帯とすることに成功した。
 他の点もあわせて、メッテルニヒはウィーン会議での領土の復帰や分割のあり方に大きな影響を与えた。

 正統主義

 戦後の領土再編にかんしては、正統主義がよく知られている。正統主義はフランスのタレーランが主に唱え、メッテルニヒも大部分で受け入れた。
 これは戦後のヨーロッパ秩序をフランス革命以前の状態に戻すというものである。その結果、たとえば、フランス革命で廃止された王政がそれぞれの国で復古した。

正統主義と緩衝地帯の方針

 とはいえ、全ての領土が革命以前の状態に戻されたわけではなかった。ナポレオン戦争で新たな領土を得た大国がそれを返還するのを拒否するケースもあった。
 だが、緩衝地帯の設置が正統主義に優先する例もあった。オーストリアがベルギーの支配権を放棄して独立させたのはその例である。
 ベルギーがオーストリア領の場合、オーストリア帝国はフランスと地理的に接することになる。そのため、メッテルニヒはベルギーとオランダをオランダ王国として独立させ、フランスとの緩衝地帯にしたのだ。

 緩衝地域の管理とナショナリズム対策:ドイツ連邦の成立


 1815年、オーストリアとプロイセンとドイツ諸邦はドイツ連邦を形成した。1806年に、神聖ローマ帝国がナポレオンによって滅ぼされていた。ドイツ連邦はナポレオンが失脚した後に誕生したドイツの新たな枠組みである。
 メッテルニヒがドイツ連邦を成立させようとした狙いは、ドイツでの緩衝地域をオーストリアに有利な仕方で管理することにあった。彼はオーストリアが存続するためには、ドイツ全体の平穏が必要だと考えた。

 さらに、オーストリアがドイツの諸邦の支援を必要とするときに彼らがオーストリアを支援することも重要だと考えた。ドイツ連邦はそのための制度であった。
 オーストリアはドイツの諸邦が実際にそのように機能するよう調整した。ナポレオンに味方したバイエルンなどを厳しく罰さずに手なづけ、ザクセンの自律を維持するなどしたのである。ドイツの小国がプロイセンを恐れていることを利用して、オーストリアの指導下に置いた。
 他方で、オーストリアはドイツ連邦の枠組みを利用して、プロイセンを自身の安全保障のために利用した。プロイセンはドイツでのナショナリズム運動の勃興を恐れていた。オーストリアはそれを利用し、ドイツ外邦の共同管理に参加させた。
 このようにして、オーストリアはドイツでのナショナリズム運動の勃興を抑え込みながら、外部勢力の侵攻に対抗するための共同防衛を行う仕組みをつくりあげた。

 オーストリアはドイツの小国にたいして、相対的な政治的自治を認めながら、自身への忠誠を求め、共同の安全保障の義務を負わせ、ゆるやかな支配のもとで保護を与えた。ドイツ連邦はウィーン体制の一部分を構成する、そのような仕組みだった。

 勢力均衡:大国を集団安全保障システムに巻き込む

 オーストリアはドイツ連邦のような仕組みをヨーロッパ全体でも構築しようとした。すなわち、緩衝地域の維持・強化と、大国を巻き込んだ勢力均衡の仕組みである。というのも、上述のように、ナポレオン戦争後のオーストリアの領地はドイツ域内にとどまらず、イタリアなどにも広がっていたためである。

 勢力均衡はウィーン体制の重要な要素として知られている。勢力均衡とは、国際社会の構成員たる国家などの力関係が釣り合っている状態を示す。
 多くの場合、勢力均衡が重要になるのは、大国が近隣の中小国を支配しようとする場合である。大国と小国が一対一で戦えば、大国が勝利するだろう。よって、一対一での交渉は大国に有利になる。

 そこで、中小国が同盟によって結集することで、力関係を大国と対等なものにする。そのようにして、大国の拡張主義を抑制しようとする。勢力均衡はこのように国際社会の現状を維持するための仕組みと考えられている。

 メッテルニヒはウィーン体制というヨーロッパの集団安全保障システムに、中小国を緩衝地帯などの形で組み込むだけでなく、ライバルの大国も組み込んだ。そうすることで勢力均衡を実現し、戦争が起こりにくい仕組みを構築した。
 この体制では、国家間の問題を武力で解決することは否定される傾向にあった。大国であっても、規則正しい外交的協調を通じて解決することが求められた。
 それまでも、ヨーロッパでは集団安全保障の仕組みは存在した。だが、特定の国と特定の課題のために一時的に形成されるものが一般的だった。だが、メッテルニヒのウィーン体制は多くの国々を広範に組み込んだ、時間的な制約のない仕組みであった。
 オーストリアはプロイセンやロシアなどの大国がウィーン体制を支えることに利益を見出すよう説得しながら、この仕組みを調整した。オーストリア自身がウィーン体制の中心で主導者となって、ヨーロッパの平和の維持という難しい舵取りを担おうとした。

勢力均衡の手段:二つの同盟

 オーストリアはウィーン体制でヨーロッパでの戦争を封じ込めるために、二つの同盟を導いた。四国同盟と神聖同盟である。上述のドイツ連邦の結成も同様の目的をもっていたといえる。

 神聖同盟

 神聖同盟は1815年に、ウィーン会議が終結してまもなく、ロシアとオーストリア、プロイセンの間で成立した。これはフランス革命以前のキリスト教的な王政の復活と維持、そしてナショナリズムの勃興に対処することが目的だった。1816年にヨーロッパの大部分がこれに参加した。

 四国同盟

 四国同盟は1815年に結成された。四国とは、オーストリア、プロイセン、イギリス、ロシアである。神聖同盟の目標を実現するための仕組みであった。また、当初はフランスを封じ込めることも目的だった。
 1818年に、フランスがこれに参加し、五国同盟になった。これら五国がウィーン体制の大国として勢力均衡を維持することになった。

ナショナリズム運動の抑制

 ウィーン体制は様々な地域でのナショナリズム運動の抑制で機能した。メッテルニヒはプロイセンやロシアなどの大国がこの仕組みに利益を見出すように仕向けるために、この側面を活用した。それらは自国や周辺地域でのナショナリズム運動が革命や反乱を起こして独立しようとするのを恐れていたためである。

 イタリアの統一運動

 イタリアの例をみてみよう。イタリアは長らく統一国家として独立していなかった。16世紀以降、スペインやオーストリアなどにミラノやナポリなどを支配されてきた。
 19世紀に入り、イタリアではナショナリズム運動が勃興し、統一を目指した運動が活発になった。オーストリアはそれらの運動や反乱を抑止すべく、ウィーン体制を利用した。
 たとえば、オーストリアは1821年にナポリとピエモンテ、1830年にローマ、1831年にパルマ、1847年にモデナで大規模な軍事活動を行った。
 1821年の際には、オーストリアはロシアから9万の軍隊の支援を受けた。その後も、ロシアはイタリアへの介入のために再び軍隊を提供した。

 他方で、オーストリアはポーランドのナショナリズム運動の抑圧のために、ロシアと協力した。ロシアはこの点でオーストリアから利益を得ていたと考えたので、イタリアではオーストリアを支援した。

 イタリアなどのナショナリストからすれば、ウィーン体制は自分たちの独立運動の大きな障壁だったといえる。

ウィーン体制の崩壊:その原因はなにか?


 上述のように、ウィーン体制には二つの大きな脅威が存在した。一つはナショナリズムや自由主義の運動である。もう一つは、大国の拡張主義である。これらがウィーン体制の崩壊の主な原因となっていく。ただし、他の重要な原因も存在したが。

ナショナリズム運動

 ヨーロッパでのナショナリズム運動はフランスでの7月革命や2月革命に大きな影響を受けた。
 たとえば、1830年のフランスの7月革命は、ポーランドでロシアへの反乱を引き起こした。反乱軍が一時的に勝利し、臨時政府を樹立し、1831年にポーランドの独立を宣言した。だが、同年にロシアとオーストリアによって制圧された。
 ちなみに、有名な作曲家ショパンはポーランド出身で、この反乱勃発時にウィーンに音楽のために滞在していた。祖国がロシアに対して反旗を翻したのを知り、祖国のためにいわゆる『革命』を作曲した。翌年の敗北を知り、ポーランドへの愛国心が彼の楽曲に悲哀の色とともに現れるようになる。
 同じ頃、ドイツ連邦においても、ナショナリズムと自由主義の運動が結びついて、革命的な運動が起こった。オーストリアとプロイセンそしてロシアが団結し、この運動を抑圧し、鎮圧した。だが、これらの運動が完全に消滅することはなかった。

 1848年、フランスで二月革命が起こった。二月革命の影響がすぐに周辺国に及んだ。ドイツでは、三月革命が起こった。まずウィーンで、次にベルリンでも始まった。これはナショナリズムと自由主義の革命だった。メッテルニヒは失脚して国内にいられなくなり、イギリスに亡命した。
 メッテルニヒというウィーン体制の主導者が亡命したことで、ウィーン体制は崩壊した、としばしば論じられてきた。
 だが、ウィーン体制は1848年の一連の革命や反乱をどうにか乗り切ったという有力な反論もある。実際に、ドイツの三月革命は反革命の工作によって、1849年に失敗に終わった。フランス革命の場合と異なり、革命の結果として大国間の戦争が生じることはなかった。
 この点について、より詳しくは「メッテルニヒ」の記事を参照。
 ウィーン体制という戦後のヨーロッパ国際秩序を崩壊させたのは、ナショナリズム運動や大国の拡張主義だった。たとえば、19世紀後半にドイツの統一運動やイタリアの統一運動によって、ドイツとイタリアという新しい独立国家が誕生した。その結果、ウィーン体制の国際秩序は根本的に崩れた。
 この根本的な変化を可能にした原因の一つは、もちろん、ナショナリズム運動である。ウィーン体制に関連するもう一つの原因は、大国の拡張主義だった。特に、ロシアの南下政策であった。

大国の拡張主義

 ウィーン体制では、大国は単独で行動するよりも、この新しいヨーロッパの集団安全保障体制のもとで協調する方が自国にとって利益になると考えた。単独行動が戦争の再燃や自国の孤立、排除などを招く恐れがあった。そのため、ウィーン体制は大国によって維持されてきた。
 だが、ナポレオン戦争の惨禍の記憶が薄れていくとともに、大国の拡張主義は強まっていった。特に、ナポレオン戦争での敗北で多くの領土や保護国を失ったフランスや、プロイセンがウィーン体制の政治秩序を変革しようと画策し始めた。
 これらの国はオーストリアが領土再編にとっての主な障壁だとみなした。だが、オーストリアはメッテルニヒに巧みな外交手腕などにより、これらの拡張主義を抑え込んだ。
 その際に、特に重要だったのが、ロシアとの同盟関係だった。ナポレオン戦争の終結以降、ロシアがウィーン体制の主要な支持者であり続けたためである。
 オーストリアを中心にみた場合、ロシアはイタリアのナショナリズム運動を抑え込む重要な軍事力をオーストリアに提供した。
 他方、イタリアが戦争の火種になったのは、ナショナリズム運動だけが原因ではなかった。フランスが拡張主義の標的としていたためである。この点で、ロシアはフランスへの抑止力にもなっていた。
 さらに、ドイツ連邦では、ナショナリズムとプロイセンの拡張主義が問題だった。ロシアはこれらにたいしても、抑止力となった。オーストリアの東方のポーランドのナショナリズムについても、同様だった。
 このように、ロシアはオーストリアにとって重要なパートナーだった。だが、1848年の革命を乗り切った後に、ロシアとの同盟関係に重大な亀裂がしょうじていく。

東方問題におけるロシアとの対決

 ウィーン体制の根本的な欠陥は、東方問題がそこから事実上排除されていたことだった。オスマン帝国はロシアを牽制する際に、重要な存在だった。さらに、オスマン帝国はナポレオン戦争の当事者であった。だが、1815年のウィーン会議の当事者ではなく、ウィーン体制の枠組みから外されていた。
 しかも、オスマン帝国は経済などの問題により、19世紀初頭には明らかに衰退していった。よって、オスマン帝国へのロシアの拡張主義が強まっていった。
 それでも、1830年代はそれがまだ抑制された。  1833年のミュンヘングレッツでは、オーストリア、ロシア、プロイセンの三国が近隣諸国のナショナリズムを共同で抑制すると取り決めた。同時に、神聖同盟のもとで、トルコの独立を保証するという約束をロシアに再確認させた。
 だが、19世紀なかば、ロシアの南下政策がついに本格化していく。ロシアはバルト海付近の木材などを地中海エリアに輸出するために、黒海周辺を戦略的に重要な地域とみなすようになった。
 さらに、オスマン帝国は国内状況が悪化していき、国力を弱めていった。ロシアはオスマン帝国を属国にするチャンスがきたとみなした。

 クリミア戦争

 オーストリアロシアの同盟関係を破綻させたのは、1853年のクリミア戦争だった。これは、ナポレオン以後初の大国間戦争となった。その原因はロシアがオスマン帝国への支配力を確保しようとしたことにあった。
 オーストリアはバルカン半島に支配地をもっていた。ロシアの南下政策はこの利害に反した。とはいえ、上述のように、ロシアはイタリアやドイツなどでオーストリアの非常に重要なパートナーだった。
 この問題に対処したオーストリアの外務大臣は、当初、メッテルニヒのような方針をとろうとした。 
 だが、事態が展開するにつれ、イギリスなどの西側同盟国とロシアが対立を深め、オーストリアに自国の立場を支持するよう求めた。オーストリアは板挟みになった。
 オーストリアは中立の立場で、問題を外交的に解決しようとした。だが、オーストリアは外交交渉の中で、イギリス側に味方することを決めた。
 もっとも、オーストリアはクリミア戦争に軍隊を派遣しなかった。だが、陸軍の大部分をロシアとの国境エリアに配置した。それは14師団のうち11師団であり、32万人ほどだった。
 この兵力はロシアにとって脅威となった。実際に両国が戦わなかったとはいえ、ロシアは兵力の多くをオーストリア側に配置する必要に迫られた。その結果、ロシアはクリミア半島での英仏軍の作戦に対抗するのに十分な兵力が不足した。クリミア戦争でのロシアの敗北はオーストリアの戦略にも起因したのである。
 オーストリアはメッテルニヒの時代にも、ロシアにたいして軍事力で牽制することはあった。だが、クリミア戦争では、規模や方針などがそれまでのものより大規模であった。ロシアへの方針転換といえるほどだった。
 クリミア戦争の結果、ロシアは黒海の中立化を受け入れざるをえなくなるなど、南下政策に歯止めをかけられた。
 ウィーン体制へのクリミア戦争の影響は甚大だった。ロシアがオーストリアの同盟相手から敵対者へと変わっていったためだ。ロシアはクリミア戦争での敗因の一つがオーストリアにあるとみなし、復讐を考えるようになる。
 その結果、オーストリアはイタリアやドイツなどでのナショナリズム運動を抑え込めなくなる。それらが独立国となる。フランスやプロイセン、そしてロシアの拡張主義も抑え込めない。オーストリアという勢力均衡の調整役を失い、ウィーン体制は崩壊していった。

おすすめ参考文献

Beatrice de Graaf(ed.), Securing Europe after Napoleon : 1815 and the new European security culture, Cambridge University Press, 2021

A. Wess Mitchell, The grand strategy of the Habsburg Empire, Princeton University Press, 2019

Brian E. Vick, The Congress of Vienna : power and politics after Napoleon, Harvard University Press, 2014

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