オランダ東インド会社は17世紀初頭に誕生し、18世紀末に解散された。これが設立された理由や一般的特徴を簡潔に説明する。
オランダ東インド会社とは
オランダ東インド会社はオランダの東インド会社である。17世紀以降、ヨーロッパではオランダやイギリス、フランスやスウェーデンなどがそれぞれ独自の東インド会社を設立した。オランダ東インド会社はオランダのそれである。すべての東インド会社の中でも、17世紀には、オランダ東インド会社が最も成功した。
そのため、たとえば、フランス絶対王政の有名な財務総監コルベールはオランダの東インド会社をモデルとして、フランスの東インド会社を設立したほどである。また、いわゆる鎖国時代に、日本の長崎の出島で貿易を行っていたのもオランダ東インド会社である。
この記事では、このオランダ東インド会社の一般的特徴を説明しよう。
いつ、なぜオランダ東インド会社は設立されたか
オランダの東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie、略称はVOC)は1602年に設立された。だが、この時期、オランダは厳密にはまだ独立国家としては誕生していなかったといえる。その理由がVOCの誕生の理由と結びついている。
スペインとの戦争という背景
16世紀後半、現在のオランダやベルギーなどのエリアはネーデルラント(低地地方)と呼ばれる広大な地方であり、国ではなかった。このエリアはスペイン王フェリペ2世の支配下にあった。
だが、ネーデルラントの貴族たちはフェリペの様々な政策に反対した。1568年、ついに一部の貴族がフェリペにたいする反乱を開始した。その後、反乱貴族たちはネーデルラント北部に結集するようになった。この反乱諸州が1648年に正式にオランダ共和国として独立することになる。
VOCが設立される1602年はオランダが反乱を起こしている最中である。オランダが事実上の独立を果たしたとされるのは1609年のスペインとの休戦条約の頃である(高校の教科書などでは、
1581年にオランダがスペインにたいして独立宣言をおこなったと説明されるが、これはシンプルに誤りである)。よって、VOCはオランダがスペインを行っている最中に誕生した。
設立の2つの理由
VOCが設立された主な理由は二つ挙げられる。一つ理由は、東インド地域での貿易のためである。スペインは1580年代にポルトガルを併合した。1590年代前半、スペインはオランダにたいして、スペインやポルトガルおよびその植民地との貿易を禁止した。
オランダはポルトガルとの貿易で東インドの産品を入手し、一定の利益をあげていた。そのため、この禁止令は打撃となった。これがきっかけで、オランダ人がついに自ら東インドへと海洋進出するようになった。
このような会社が乱立したので、オランダの全国議会がこれらを束ねて、VOCという会社にまとめあげた。よって、VOC設立の理由はスペインによる貿易の禁止令である。
これは一般的によくみかける説明である。この説明には批判もある。オランダとポルトガルの貿易はニーズが高かったので、スペインの禁止令が出された後も、両国間で密貿易が続けられたとされる。
もう一つの理由は、スペインとの戦争に勝つための手段として設立されたことである。1602年の時点では、オランダとスペインの戦争は膠着状態にあった。まだまだどちらが勝つか不透明だった。そのような状態で、VOCはオランダの手段として活躍することが望まれた。
VOCは「会社」であるのに、戦争の手段とはどういうことか?この点は少し後に説明しよう。
東インド会社:東インドとは?
オランダ東インド会社の「東インド」とはなにか?東インドがあるなら西インドはあるのか?
16世紀以降、ヨーロッパではアメリカが西インドと呼ばれ続けた。カリブ諸島や南北アメリカ大陸である。その理由は、アメリカを「発見」したコロンブスだった(この点について、詳しくは「コロンブス」の記事を参照)。
これにたいし、東インドとは、アフリカの喜望峰から日本までの広大なエリアを指す。オランダの東インド会社は、この東インド地域での貿易を独占的におこなう特許状をオランダの全国議会から付与された会社である。
もっとも、オランダ政府が付与した特許であるので、オランダの他の会社にたいしてのみ効力がある。すなわち、オランダの様々な会社の中で、オランダ東インド会社だけが東インド地域の貿易に従事することが許可されただけである。
ほかの国の東インド会社はこの特許状とは全く関係ない。よって、イギリスやスウェーデンなどの東インド会社はこの地域での貿易に参加し、オランダ東インド会社と競争した。
東インド会社は「会社」か?
東インド会社は「会社」と名乗っている。ここでの「会社」は英語ではカンパニーである。オランダ東インド会社は世界初の株式会社だともいわれている。だが、結論を先取りしていえば、東インド会社は会社であって会社でないような組織だった。会社という名前によって、東インド会社の内実を誤解する人が多い。
たしかに、東インド会社は貿易会社としての側面をもっていた。ある地域で商品を仕入れ、別の地域で売った。この点では、会社だったといえる。長崎の出島でのオランダ東インド会社の活動しか知らなければ、この会社が平和な貿易活動に終始していたと勘違いしてしまうかもしれない。
国家としての東インド会社
だが、オランダ東インド会社は別の多くの点では会社ではなかった。端的にいえば、国家のような性質の組織でもあった。
国家は特定の地域の住民を直接あるいは間接に統治し、独自の軍隊を持ち、植民地を作り、戦争と平和にかんして外国と条約を締結する。これにたいし、たとえば日本の有名な貿易会社がこれらのことを会社として行ったり、そのための権利を持つとは思われないだろう。
しかし、オランダ東インド会社はこれら全てを行い、そのための権利をオランダ政府から委ねられていた。そのため、いわば国家のような性質をもつ組織だった。
オランダ東インド会社は会社と国家の側面をもっていた。たとえば、17世紀なかばには、インドネシアのモルッカ諸島にあるバンダ諸島を直接統治した。現地の住民を労働させ、ナツメグやクローブのような希少なスパイスを強制的に安値で買い取った。
それを周辺地域やヨーロッパで高値で売って、莫大な利益をえた。このように、東インド会社の貿易活動自体が国家としての統治活動と切り離せないものだった。
設立された理由、再論
オランダ東インド会社が設立された上述の二番目の理由がここに結びついてくる。オランダ東インド会社は当初から、平和な貿易活動に終始するつもりがなかった。1602年、オランダ政府は東インド会社に独占貿易の特許状を与える際に、この会社に軍隊をもたせ、植民地建設や外交の権利をも委ねていた。
当初から、東インド地域でスペインやポルトガルの植民地と戦わせ、植民地の利益を奪うつもりだったのである。よって、オランダ東インド会社はスペイン・ポルトガルへの戦争の道具として設立された。会社は早速、ヘームスケルクを通して、そのような攻撃に成功するのである(よりくわしくは、「ヘームスケルク」の記事を参照)。
発展から解散へ
以上のように、オランダ東インド会社は東インド地域での貿易や植民地形成のために設立された会社であり国家的側面ももつ。17世紀にピークを迎えた。最大の利潤は日蘭貿易で得た。VOCの主要な交易品はスパイスだった。だが、18世紀に入る頃には、ヨーロッパでスパイスの人気が落ちていった。さらに、オランダ本国がイギリスなどとの戦争で国力を落としていった。
18世紀には、VOCもまた勢力を徐々に弱めていく。18世紀末には、フランス革命によって、オランダ共和国が滅ぼされる。そのタイミングでこの会社は国有化される。1800年には解散となった。
オランダ東インド会社の船の皿
おすすめ参考文献
Adam Clulow(ed.), The Dutch and English East India Companies : diplomacy, trade and violence in early modern Asia, Amsterdam University Press, 2018
Femme S. Gaastra, The Dutch East India Company : expansion and decline, Walburg Pers, 2003
Harm Stevens, Dutch enterprise and the VOC, 1602-1799, Walburg Pers, 1998