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ヴォルテール:フランス啓蒙

 ヴォルテールは18世紀フランスの哲学者や文学者(1694ー1778)。啓蒙主義の代表的な人物の一人として知られる。人生の多くの部分をドイツやスイス、イギリスで過ごした。主著には、『カンディード』、『哲学書簡』、『寛容論』などがある。イギリス経験論やニュートン主義哲学の導入、啓蒙主義への貢献など多面的に活躍した。カラス事件でも有名である。その思想の内容についても説明する。

ヴォルテール(Voltaire)の生涯

 ヴォルテールはフランスのパリで裕福な公証人の家庭に生まれた。ヴォルテールは筆名であり、本名はフランソワ・マリー・アルエである。名門で知られたイエズス会の学校ルイ・ル・グランで学んだ。
 早くから文学に関心をいだき、モリエールやラシーヌなどに憧れた。だが、父はヴォルテールの文学者志望に反対した。そのため、ヴォルテールは当初、弁護士などを目指すことになった。

 文人としての開花

 1715年頃から、ヴォルテールはサロンに出入りするようになった。気さくで機知に富む人物として、人気をえた。だが、風刺作品を書いた結果、投獄された。

 獄中で、ヴォルテールは古典古代の悲劇を再編した悲劇『エディプ』(オイディプスのこと)を制作した。1718年、これが早くも成功し、ヴォルテールの筆名を名乗るようになった。しかし、貴族との揉め事で、再び投獄された。

 イギリスでの滞在

 1726年、ヴォルテールはロアン公に名誉毀損で訴えられたため、罰を避けるためにイギリスに逃れた。
 ヴォルテールは『ガリヴァー旅行記』を公刊したばかりのジョナサン・スウィフトと交流をもった。スウィフトらは当時のイギリス議会政治への批判をジャーナリズムの形式で展開していた。

 ヴォルテールはこの新しい政治的ジャーナリズムに精通することになった。また、ニュートンの自然哲学を知り、新たな知的刺激をえた。ほかにも、シェイクスピアの演劇を観て、感銘を受けた。

 フランスへの帰国

 1729年、ヴォルテールはフランスに戻った。父の遺産を相続するなどして、経済的に安定した。当時の作家や学者の多くはパトロンに経済的に依存していたのにたいし、ヴォルテールはそのような必要から解放されることになった。
 徐々にフランスでの社会的評判を回復し、ヴェルサイユ宮殿に戻れるまでになった。

『哲学書簡』:イギリス哲学の受容

 ヴォルテールはイギリス滞在の経験を利用して、『哲学書簡』を1733年に英語で公刊した。1734年には仏語で公刊した。そこでは、イギリスの社会や宗教、慣習などを論じた。

 また、ロックやベーコンなどのイギリスの経験論をフランスに持ち込んだ。イギリスの哲学をフランスに導入するというヴォルテールのスタンスは、後述の『百科全書』の計画でも重要となる。

 同時に、ヴォルテールはフランスの社会体制や教会などを痛烈に批判するために、イギリスをモデルとして理想化して利用した。
 たとえば、寛容についてである。ヴォルテールはフランスの寛容の欠如を批判するために、次のようにイギリスを賛美した。
 ここは諸宗派の国だ。イギリス人は自由の民として、好きな道を通って天国に行く。もしイギリスにひとつの宗教しかなかったら、専制政治の危険があっただろう。もしふたつの宗教があったら、それらはお互いの喉を切り裂くだろう。

 だが実際には30ある。そのため、それらは平和に幸せに暮らしている、と。ただし、現実には、イギリスでは例えばカトリックが二級市民として扱われていた。

 本書はフランス社会で大きなセンセーションを引き起こした。その結果、当局に目をつけられ、本書は禁書および焚書の処分となった。ヴォルテール自身も投獄される可能性があった。

 シレーでの研究生活と名声

 同年、ヴォルテールはフランス当局の追及を逃れるために、愛人のシャトレ夫人とともにシレーに逃れた。そこでは、数学や物理学などの自然科学の学習を進め、学識を深めた。実験も行った。その結果、たとえば、1738年に『ニュートン哲学入門』を公刊した。

 この時期、フランスでは従来のデカルト主義とイギリスのニュートン主義の論争が繰り広げられていた。ヴォルテールは本書によってフランスの旧来のデカルト主義者を批判するというスタンスをとった。
 本書はすぐに多くの反論を惹起したが、次第に成功をおさめていった。ヴォルテールは自然哲学・科学においても名声をえた。

 この時期、同時に、ヴォルテールは文学の執筆活動を継続した。たとえば、1741年に劇『マホメット』を公にした。これはすぐに上演禁止となった。だが、活発な著述活動により、ヴォルテールは名声を確立していった。

 さらに、ヴォルテールは国王ルイ15世の寵愛を得るのに成功した。1745年には、フランスの歴史官に選ばれた。1746年には、アカデミー・フランセーズに入会を認められた。しかし、宮廷での揉め事などが原因で、ルイの寵愛を失うことになった。

 プロイセンへ:フリードリヒ2世との交流

 1750年、ヴォルテールはプロイセンに移った。啓蒙専制君主として名高いフリードリヒ2世の招きに応じたためである。そもそも、ヴォルテールは1736年からフリードリヒと文通を始めていた。

 1742年には、ヴォルテールはフランス王権から、当時の7年戦争のためにフリードリヒと交渉するよう依頼されていた。このような背景のもとで、ヴォルテールは1750年にプロイセンを訪れた。

 フリードリヒはヴォルテールに師事した。フリードリヒはヴォルテールを介して、自国民を啓蒙しようと考えた。ヴォルテールはドイツの宮廷に精通し、国際人としての見識を深めた。
 両者は互いを称賛しつつも、緊張関係にもあった。両者は次第に反目するようになった。

 ヴォルテールはフリードリヒが自身の提案を受け入れそうにないので、出国しようと決めた。1753年、プロイセンを去った。なお、ヴォルテールは滞在中に、以前から歴史官として執筆していた『ルイ14世の世紀』を公刊した。

『百科全書』との関係

 ヴォルテールはスイスのジュネーヴに移ってきた。この頃、フランスではディドロやダランベールらが啓蒙主義の一大プロジェクト『百科全書』の編纂と公刊を始めた。
 ヴォルテールは社会の多面的な改革が必要だと感じていたため、このプロジェクトに共感した。自らこれに寄稿したり、『百科全書』プロジェクトを論敵から守ったりして、支援することになる。
 ただし、ヴォルテールは途中でこのプロジェクトから離れることになる。なぜか。
 ヴォルテールはイギリスのニュートンやロックの経験論を『百科全書』でも広めたいと考えていた。
ディドロやダランベールはそれに呼応する面もあった。
 だが、ヴォルテールはディドロの無神論的主張やイギリス哲学への批判的態度をみて、次第にディドロから距離を取った。『百科全書』が無神論や唯物論などとして批判を受けるようになっていく中で、ヴォルテールはダランベールには編集主任を辞するよう説得した。
 さらに、ヴォルテールはディドロにはこのプロジェクト自体を中止するよう説得した。自らが寄稿した草稿などをすべて返却するよう求めたこともあった。ついに、自らこのプロジェクトから離脱した。

『哲学辞典』

 その後、ヴォルテールは関連する哲学的著作も公刊した。1764年の『哲学辞典』である。これは『百科全書』へのヴォルテールの寄稿文などを用いて制作された。ほかにも、ヴォルテールは様々なジャンルの著作を通して、広範に批判を展開し、世論に訴えかけた。

『カンディード』

 1755年、リスボンで大地震が起こった。大地震の少ないヨーロッパでは、リスボン大地震による大きな被害は大きな衝撃を与えた。ヴォルテールも同様に衝撃を受けた。そこで、1759年、ヴォルテールは小説『カンディード』を公刊した。

 この作品では、主人公のカンディードは純粋な性格であり、ライプニッツ流の楽観的な予定調和説を信奉していた。しかし、物語の中で大地震や戦争などに遭遇し、散々な目にあう。南米に移ってもなお、異端審問の対象になる。

 このようなライプニッツ主義の楽観主義を揶揄する作品が大成功を収めた。本書はニュートン主義とライプニッツ主義の対立の中でニュートン主義を擁護するという側面も有していた。

啓蒙専制君主とのつながり

 1759年、ヴォルテールはスイスのフェルネーに移った。そこでは、文学や歴史学などの著述活動や劇の上演、様々な文化人との交流を行った。

フェルネーの邸宅

 国際的に名声が確立された。彼はドイツのフリードリヒ2世とも交流を再開した。さらに、ヴォルテールはロシアの啓蒙専制君主エカチェリーナ2世とも交流を開始した。

フェルネーの邸宅

 また、自身が領主でもあったため、地元住民のために時計の工場をつくるなどして貢献した。啓蒙主義者として、自身の領地で農奴解放を試みたが、うまくいかなかった。

 カラス事件:『寛容論』

 ヴォルテールは1763年、『寛容論』を公刊した。その背景は1762年のカラス事件だった。この事件では、トゥールーズの商人ジャン・カラスが息子を殺害したとして裁判にかけられ、拷問の末に死刑を宣告され、処刑された。

冤罪に苦しむカラスの一家

 カラスはプロテスタントであり、息子がカトリックに改宗しようとしたので殺害したという罪状だった。しかし、これは冤罪だった。当時のカトリック国フランスでプロテスタントへの迫害が激しくなっていた。この判決はその一環だった。

 ヴォルテールはこの冤罪事件への対応を要望され、応じた。そこで、『寛容論』を公刊した。
 『寛容論』では、ヴォルテールはカラスの裁判の不当性を取り上げ、これをヨーロッパ全土に、世論に訴えた。
 さらに、ヴォルテールは寛容を次のようにして理論的に擁護した。良心の自由を、誰もが自然権の一部としてもつものとして正当化したのである。

 すなわち、ヴォルテールは誰もが人間であれば必ず持つ権利として良心の自由を擁護した。自然権ないし自然法は様々な国の法律の基礎となるので、フランスという国の法律は良心の自由を排することができない。

寛容の哲学的基礎づけ

 さらに、ヴォルテールは自然法と人定法の根源的な原則があるという。それは「あなたが他人からされたくないことを他人にしてはならない」である。これは「あなたが他人にしてほしいことを他人に行いなさい」という黄金律から派生する白銀律と呼ばれるものである。
 黄金律は西洋では聖書を典拠とされてきた。同時に、白銀律は他の文明にも、たとえば『論語』にも見出される。
 この白銀律を寛容に応用すると、次のような不寛容は許されないことになる。すなわち、「私が信じることを、あるいはあなたが信じることの出来ないことを、あなたは信じなさい。さもないと、あなたは滅ぶ」、と。このように、ヴォルテールは宗教的寛容を擁護する際に、聖書に派生しつつ、他の文明にも共通の原則を利用した。

カラス事件の結末

 カラス事件をめぐって、ヴォルテールだけでなくダランベールらの哲学者もまた様々なパンフレットを公刊するなどして、世論を動かそうとした。その努力が実る。1764年、上述の判決が正式に無効となった。
 ヴォルテールやダランベールらはなぜカラス事件に深く関わったのか。伝統的な見方では、彼ら哲学者(フィロソフ)は宗教的・市民的自由のための大胆不敵な運動家である。実際にそのように行動した主な動機としては当時のフランスでのカトリック教会への反発が指摘されている。

 フランスではカトリック教会が長らく社会の様々な面で影響力を行使していた。宗教儀式だけでなく、教育や日常生活などでも、その影響力がみられた。哲学者はその影響力に強く反発し、それを弱めようとしていたと考えられている。

 パリでの死

 1778年、ルイ15世の逝去に伴い、ヴォルテールは故郷のパリに戻ってきた。パリの人々から歓待された。同年、その地で没した。

  ヴォルテールと縁のある人物

●ダランベール:ヴォルテールと同様に、啓蒙主義の代表者の一人として知られる。カラス事件でも共闘した。啓蒙主義の一大プロジェクト『百科全書』の編集をつとめた。だが、とある原因でこれをやめることになる。

ダランベールの記事をよむ

●ドニ・ディドロ :フランスの哲学者で文人。啓蒙の時代の一大プロジェクトだった『百科全書』を完成させた。『ラモーの甥』や『ダランベールの夢』でも知られる。
ディドロの記事をよむ

●ジャン=ジャック・ルソー:スイス生まれの哲学者。文学や教育学、政治哲学などで重要とみなされている。代表作には『エミール』や『 社会契約論』などがある。
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●フリードリヒ2世:啓蒙専制君主の一人として有名で、ヴォルテールとも交流をもった。プロイセンを大国に押し上げた国王。そのために何度も戦争を繰り広げたのはあの有名な女帝だった。

フリードリヒの記事をよむ

●エカチェリーナ2世:ロシア皇帝。啓蒙専制君主の一人として知られる。ロシアでは「大帝」の称号を与えられている。
エカチェリーナ2世の記事をよむ

●フランシス・ベーコン:イギリスの哲学者で政治家。哲学者としては、『ノウム・オルガヌム』などを著して経験論の先駆者となり、科学革命を牽引する役割も担った。政治家としてはジェームズ1世のもとで大法官にまでのぼりつめるほど成功した。
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ヴォルテールの肖像画

ヴォルテール 利用条件はウェブサイトで確認

●カンディードの場面

カンディード 利用条件はウェブサイトで確認

●フェルネーでのヴォルテールの自宅の外観と内装

 ヴォルテールの主な著作・作品

『ザイール』 (1732)
『哲学書簡』(1734)
『ザディグ』 (1747)
『ルイ 14世の世紀』 (1751)
『習俗論』(1756)
『カンディド』 (1759)
『寛容論』 (1764)
『哲学辞典』 (1764)

おすすめ参考文献

植田祐次編『ヴォルテールを学ぶ人のために』世界思想社, 2012

小林善彦『「知」の革命家ヴォルテール : 卑劣なやつを叩きつぶせ』柘植書房新社, 2008

Nicholas Cronk, Voltaire : a very short introduction, Oxford University Press, 2017

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