ウェーバーの『職業としての政治』

 『職業としての政治』はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作である。1919年にミュンヘン大学で行った招待講演の内容である。1918年にドイツが第一次世界大戦に敗れ、ワイマール共和国が樹立されたばかりの政治的混乱の中で、ウェーバーはこのテーマを選んだ。政治学に関する古典的名著として認知されている。この記事では、その内容を要約して説明する。

『職業としての政治』の内容

 政治や国家とは

 まず、ウェーバーはそもそも政治とはなにかについて大まかな説明をする。それは権力にかかわる事柄である
 政治の中でも、今日において主要な問題となるのは国家である。ここで、ウェーバーは国家をこう説明する。一定の領域内で正当な物理的暴力行使を独占しようと(実効的に)要求する人間の共同体の形態である。

 一定の領土・領海(・領空)において、自分たちだけが(軍隊や警察のような)物理的暴力の使用を正当に独占しているような共同体。このような意味での国家が誕生したのは現代の特徴だとされる。
 というのも、中世の西欧などでは、国家以外の人々が決闘裁判などを行い、暴力を正当に行使していたためである。
 近代国家の特徴として、中央集権化や官僚制の発展が指摘される。重要な政治的決定は周辺や下位においてなされず、上層部だけで行われるようになる。官僚が専門的な行政スタッフとして育成され、組織的に活動する。

 支配の正統性

 次に、ウェーバーは支配の正統性について論じる。ここでは、有名な支配の3類型を示す。
 私たち一般の人々は統治者に服従し、その命令に従っている。たとえば、今日の日本であれば、国会議員が議会で制定した法律に従う。では、なぜ我々一般の日本人はこの法律に従わなければならないのか。

 あるいは、なぜ国会議員はこのような命令すなわち法律を制定する権力を持っているのか。ウェーバーは統治者がこのような権力をどのように正当化するかを3つのパターンにわけて説明している。 

 第一に、伝統的支配である。これは自分たちの支配体制や権力の正統性を伝統や過去に求める。たとえば、日本では遠い昔からこういう支配体制が続いてきたので、この体制は正統である、と論じられる。

 長きにわたって存続してきたということは、それだけ長い「時の試練」をクリアし続けてきたということである。このような伝統に基づく支配は神聖化される傾向にある。雑駁にいえば、「昔から現在まで長く続いてきたので、偉い。だから従うべし」ということだ。

 第二に、カリスマ的支配である。これは統治者のカリスマ的な人格への帰依に基づく。フランスの皇帝ナポレオン3世のような、人民投票による支配者などもこれに該当する。
 この場合、ある支配体制が正統であるのは、その統治者のカリスマ性ゆえである。カリスマのあるリーダーだからこそ、その人に従う。
 そのカリスマ的支配者が没した場合、この体制は急速に崩壊するリスクが他の体制よりも高い。

 第三に、合法的支配である。これは立憲主義などがそうである。この場合、支配の正統性は、フランス憲法のような成文憲法などの法律の妥当性への信念や、合理的な法規に基づく客観的な権限に基づいている。

 統治者は憲法などの法によって自身の正統性をえる。たとえば、現在の日本の国会議員が法律という命令を下せるのは、憲法に由来する権限を持つからである。

  政治家の資質

 現代社会は大衆社会となり、民衆が選挙で指導者を選ぶようになった。政党はこの状況に対応するために、官僚制を抱え込むような仕組みになってきた。
 その結果、リーダーシップの乏しい政治家による政治に陥る可能性がある。だが、そうではなく、適切な資質をもった政治家による政治が求められる。
 では、政治家に求められる資質とはなにか。ウェーバーは三つ挙げる。
 第一に、情熱である。政治家としての仕事への情熱的な献身である。困難な政治のタスクをやりきる精神性である。
 第二に、責任感である。ただ単に熱意をもっているだけでなく、責任感をもつ必要もある。この点は後でより詳しく論じられる。
 第三に、判断力である。政治家は情熱をもって政治的な課題に取り組まなければならない。人々と接し、問題を解決しなければならない。とはいえ、問題状況を正しく認識するには、対象となる事柄や人々にのめりこんだり没頭したりしてはならない。
 適度に、自身と対象の距離をはかり、バランスをとる必要がある。判断力はこのような能力をさす。

 政治倫理

 次に、ウェーバーは政治家がもつべき政治倫理について論じる。この部分もまた有名である。ウェーバーは二種類の政治倫理を提示する。心情倫理と責任倫理である。

心情倫理

 心情倫理は、自身が善いと思う価値観に基づいて行動するよう求める。政治家がなにかを行おうとした場合に、自身の意図や価値観が正しいものならば、その行為は倫理的に正しいという立場である。

 重要な点としては、その行為がどのような結果を伴うかどうかは倫理的に無関係とされていることである。よって、行為の意図や価値観が正しいなら、その結果が善いものであろうと悪いものであろうと、その行為は倫理的に正しいことになる。
 ウェーバーは心情倫理の例をキリスト教に見出す。たとえば、この立場では、聖書にみられるキリストの「山上の垂訓」に従い、「神の命令に従って行動し、結果は神にゆだねる」というスタンスをとる。結果の成否にたいする責任感が欠如している。
 他の例としては、急進的な革命家が挙げられる。彼らは、自分たちの至上命題には責任を感じる。自分たちの至上命題を達成するために暴力を行使し、その成果については考慮もする。だが、それによって生じた否定的な結果には責任を感じない。
 ウェーバーは心情倫理にたいして批判的なことが多い。特に、心情倫理は結果に関心を抱かない点が批判される。結果に関心を抱かないので、行為が目標を実現可能かどうかにも関心がない。

 もし結果に関心をもったとしても、責任をもとうとはしない。よって、結果がうまくいかなかった場合には、自分たちではなく他者や世間に失敗の原因を転嫁する傾向にある。

責任倫理

 ウェーバーの2つ目の政治倫理は責任倫理である。これは心情倫理と異なり、行為の結果に責任を持とうとする倫理観である。よって、行為が目的を実現可能かも考慮する。

 2つの倫理の関係

 ウェーバーは人間の価値観が究極的には相互に対立すると考えている。この点で、二つの倫理を比較することができる。
 責任倫理は、この価値観の対立を前提としている。結果、目標、副次的な効果を互いに天秤にかける。熟慮したうえで、判断を下す。
 心情倫理の場合、自身が信奉する特定の価値観を優遇する。その価値観がほかのあらゆる価値観と比べて、最も優れていると前提している。このような価値観の間のヒエラルキーを想定している。

 どちらの倫理がよいかという問題?

 ウェーバーは心情倫理と責任倫理が互いに対立するものだという。
 ウェーバーは心情倫理よりも責任倫理を好ましいと考えているようだ。その理由として、ウェーバーが世界を倫理的に不合理なものと考えていることが挙げられる。
 すなわち、この世界では、倫理的に善い行いが倫理的に善い結果をもたらすとは限らない。むしろ、悪い結果をもたらすこともある。この意味で、この世界は倫理的に不合理である。

 そのため、倫理的に善い行為を意図したとしても、倫理的に悪い結果が生じることもある。それにもかかわらず、心情倫理の場合、意図さえ善いものならば、行為の結果を考慮しない。

 さらに、ここで論じられているのが「政治」の倫理だということも重要である。上述のように、政治は暴力の独占的行使と深く関わっている。政治的行為において、暴力を実際に使用することがないとしても、常に独占的な暴力とその脅威が後ろ盾になっている。

 暴力やその脅威は様々な影響を広範に及ぼしうる。政治はこのような性質をもつので、政治の倫理として、結果を考慮せず責任をとろうとしないことがそれだけ一層問題視されることになる。
 このようにウェーバーは責任倫理を優遇しているように思われる。
 だが、責任倫理にも問題がある。責任倫理の政治家は、自分の目標への責任感をもつ。よって、心情倫理のように、自身の目標や原理を善いものとみなす価値観をもっているだろう。このことは問題ではない。

 むしろ、この原理への信念や価値観をもたない場合のほうが問題である。この場合、ただ単に、自分の置かれた時代状況において、可能なことだけをやるだけになってしまう。このような責任倫理の政治家は問題である。

 二つの倫理のあるべき関係

 ウェーバーは二つの倫理が相互に対立するという。一方が他方に絶対的に優位するということはないともいう。よって、ウェーバーは責任倫理が心情倫理より優れていると主張しているわけではない。
 さらに、両者は絶対的な仕方で対立するわけではないという。むしろ、政治倫理としては、両者を補完させるようにしてもつことが、政治家には求められる、と。
 ウェーバーは責任倫理か心情倫理のどちらかが望ましい政治倫理だという議論をしているわけではないのである。
 政治家が責任倫理に基づいて行動し、成熟したとして、その内面が死んでいないとするなら、二つの倫理を補完させることができるようになる。

 「心情倫理と責任倫理は、絶対的な対立項ではなく、互いに補完し合うものである。そして、両者が組み合わさって初めて、『政治への召命』を持つことのできる真の人間が生まれる」。すなわち、職業としての政治を実践する政治家が生まれるのである。

 おすすめ参考文献

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇 圭平訳, 岩波書店, 2020

職業としての政治 (岩波文庫) amzn.to

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Edith Hanke(ed.), The Oxford handbook of Max Weber, Oxford University Press, 2019

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 『職業としての政治』はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作である。1919年にミュンヘン大学で行った招待講演の内容である。1918年にドイツが第一次世界大戦に敗れ、ワイマール共和国が樹立されたばかりの政治的混乱の中で、ウェーバーはこのテーマを選んだ。政治学に関する古典的名著として認知されている。この記事では、その内容を要約して説明する。

『職業としての政治』の内容

 政治や国家とは

 まず、ウェーバーはそもそも政治とはなにかについて大まかな説明をする。それは権力にかかわる事柄である
 政治の中でも、今日において主要な問題となるのは国家である。ここで、ウェーバーは国家をこう説明する。一定の領域内で正当な物理的暴力行使を独占しようと(実効的に)要求する人間の共同体の形態である。

 一定の領土・領海(・領空)において、自分たちだけが(軍隊や警察のような)物理的暴力の使用を正当に独占しているような共同体。このような意味での国家が誕生したのは現代の特徴だとされる。というのも、中世の西欧などでは、国家以外の人々が決闘裁判などを行い、暴力を正当に行使していたためである。
 近代国家の特徴として、中央集権化や官僚制の発展が指摘される。重要な政治的決定は周辺や下位においてなされず、上層部だけで行われるようになる。官僚が専門的な行政スタッフとして育成され、組織的に活動する。

 支配の正統性

 次に、ウェーバーは支配の正統性について論じる。ここでは、有名な支配の3類型を示す。
 私たち一般の人々は統治者に服従し、その命令に従っている。たとえば、今日の日本であれば、国会議員が議会で制定した法律に従う。では、なぜ我々一般の日本人はこの法律に従わなければならないのか。

 あるいは、なぜ国会議員はこのような命令すなわち法律を制定する権力を持っているのか。ウェーバーは統治者がこのような権力をどのように正当化するかを3つのパターンにわけて説明している。 

 第一に、伝統的支配である。これは自分たちの支配体制や権力の正統性を伝統に求める。たとえば、日本では昔からこういう支配体制だったので、この体制は正統である、ということになる。

 長きにわたって存続してきたということは、それだけ長い「時の試練」をクリアし続けてきたということである。このような伝統に基づく支配は神聖化される傾向にある。

 第二に、カリスマ的支配である。これは統治者のカリスマ的な人格への帰依に基づく。フランスの皇帝ナポレオン3世のような、人民投票による支配者などもこれに該当する。ある支配体制が正統であるのは、その統治者のカリスマ性ゆえである。

 第三に、合法的支配である。これは立憲主義などがそうである。この場合、フランス憲法のような成文憲法などの法律の妥当性への信念や、合理的な法規に基づく客観的な権限に基づいている。

 統治者は憲法などの法によって自身の正統性をえる。たとえば、現在の日本の国会議員が法律という命令を下せるのは、憲法に由来する権限を持つからである。

  政治家の資質

 現代社会は大衆社会となり、民衆が選挙で指導者を選ぶようになった。政党はこの状況に対応するために、官僚制を抱え込むような仕組みになってきた。その結果、官僚にみられるように、リーダーシップの乏しい政治家による政治に陥る可能性がある。だが、そうではなく、適切な資質をもった政治家による政治が求められる。
 では、政治家に求められる資質とはなにか。ウェーバーは三つ挙げる。
 第一に、情熱である。政治家としての仕事への情熱的な献身である。困難な政治のタスクをやりきる精神性である。
 第二に、責任感である。ただ単に熱意をもっているだけでなく、責任感をもつ必要もある。この点はより詳しく論じられる。
 第三に、判断力である。政治家は情熱をもって政治的な課題に取り組まなければならない。人々と接し、問題を解決しなければならない。とはいえ、問題状況を正しく認識するには、対象となる事柄や人々にのめりこんだり没頭したりしてはならない。適度に、自身と対象の距離をはかり、バランスをとる必要がある。判断力はこのような能力をさす。

 政治倫理

 次に、ウェーバーは政治家がもつべき政治倫理について論じる。この部分もまた有名である。ウェーバーは二種類の政治倫理を提示する。心情倫理と責任倫理である。

心情倫理

 心情倫理は、自身が善いと思う価値観に基づいて行動するよう求める。政治家がなにかを行おうとした場合に、自身の意図や価値観が正しいものならば、その行為は倫理的に正しいという立場である。

 重要な点としては、その行為がどのような結果を伴うかどうかは倫理的に無関係とされていることである。行為の意図や価値観が正しいなら、その結果が善いものであろうと悪いものであろうと、その行為は倫理的に正しいことになる。
 ウェーバーは心情倫理の例をキリスト教に見出す。たとえば、聖書にみられるキリストの「山上の垂訓」に従い、「神の命令に従って行動し、結果は神にゆだねる」というスタンスをとる。
 他の例としては、急進的な革命家が挙げられる。彼らは、自分たちの至上命題には責任を感じる。自分たちの至上命題を達成するために暴力を行使し、その成果については考慮もする。だが、それによって生じた否定的な結果には責任を感じない。
 ウェーバーは心情倫理にたいして批判的なことが多い。特に、心情倫理は結果に関心を抱かない点が批判される。結果に関心を抱かないので、行為が目標を実現可能かどうかにも関心がない。

 もし結果に関心をもったとしても、責任をもとうとはしない。よって、結果がうまくいかなかった場合には、自分たちではなく他者や世間に失敗の原因を転嫁する傾向にある。

責任倫理

 ウェーバーの2つ目の政治倫理は責任倫理である。これは心情倫理と異なり、行為の結果に責任を持とうとする倫理観である。よって、行為が目的を実現可能かも考慮する。

 2つの倫理の関係

 ウェーバーは人間の価値観が究極的には相互に対立すると考えている。この点で、二つの倫理を比較することができる。
 責任倫理は、この価値観の対立を前提としている。結果、目標、副次的な効果を互いに天秤にかける。熟慮したうえで、判断を下す。
 心情倫理の場合、自身が信奉する特定の価値観を優遇する。その価値観がほかのあらゆる価値観と比べて、最も優れていると前提としている。このような価値観の間のヒエラルキーを想定している。

 どちらの倫理がよいかという問題?

 ウェーバーは心情倫理と責任倫理が互いに対立するものだという。
 ウェーバーは心情倫理よりも責任倫理を好ましいと考えているようだ。その理由として、ウェーバーが世界を倫理的に不合理なものと考えていることが挙げられる。この世界では、倫理的に善い行いが倫理的に善い結果をもたらすとは限らない。むしろ、悪い結果をもたらすこともある。この意味で、この世界は倫理的に不合理である。

 そのため、倫理的に善い行為を意図したとしても、倫理的に悪い結果が生じることもある。それにもかかわらず、心情倫理の場合、意図さえ善いものならば、行為の結果を考慮しない。

 さらに、ここで論じられているのが「政治」の倫理だということも重要である。上述のように、政治は暴力の独占的行使と深く関わっている。政治的行為において、暴力を実際に使用することがないとしても、常に独占的な暴力とその脅威が後ろ盾になっている。

 暴力やその脅威は様々ん影響を広範に及ぼしうる。政治はこのような性質をもつので、政治の倫理として、結果を考慮せず責任をとろうとしないことがそれだけ一層問題視されることになる。
 このようにウェーバーは責任倫理を優遇しているように思われる。だが、責任倫理にも批判的なところがある。責任倫理の政治家であっても、自分の目標への責任感をもつ。よって、心情倫理のように、自身の目標や原理を善いものとみなす価値観をもっているだろう。このことは問題ではない。

 むしろ、この原理への信念や価値観をもたない場合のほうが問題である。この場合、ただ単に、自分の置かれた時代状況において、可能なことだけをやるだけになってしまう。このような責任倫理の政治家は問題である。

 二つの倫理を補完させること

 ウェーバーは二つの倫理が相互に対立するという。一方が他方に絶対的に優位するということはないともいう。よって、ウェーバーは責任倫理が心情倫理より優れていると主張しているわけではない。さらに、両者は絶対的な仕方で対立するわけではないという。

 むしろ、政治倫理としては、両者を補完させるようにしてもつことが、政治家には求められる、と。ウェーバーは責任倫理か心情倫理のどちらかが望ましい政治倫理だという議論をしているわけではないのである。政治家が責任倫理に基づいて行動し、成熟したとして、その内面が死んでいないとするなら、そのような状況に至ることができる。

 この場合、「心情倫理と責任倫理は、絶対的な対立項ではなく、互いに補完し合うものである。そして、両者が組み合わさって初めて、『政治への召命』を持つことのできる真の人間が生まれるのである」。すなわち、職業としての政治を実践する政治家が生まれるのである。

 おすすめ参考文献

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇 圭平訳, 岩波書店, 2020

Edith Hanke(ed.), The Oxford handbook of Max Weber, Oxford University Press, 2019

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