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ウィリアム3世:オランダ総督への就任さえ妨害してきた英国の王になぜなれたか?

 ウィリアム3世はオランダ黄金時代のオランダ総督でイギリス国王(1650ー1702)。複雑な政情の中で、イギリスからの妨害を受け、オランダ総督への就任には時間がかかった。イギリスの名誉革命に参加し、自らウィリアム3世としてイギリス王に即位した。なぜイギリスからオランダ総督への就任を妨害され、しかも、その後にイギリスの国王になったのだろうか。

ウィレム3世(William III / Willem III)の生涯

 ウィレムはオランダのハーグで、オランダ総督のオラニエ公ウィレム2世と、イギリス王チャールズ1世の娘メアリの間に生まれた。ウィレム二世が没してすぐ、ウィレム3世は生まれ、オラニエ家の家督をつぐことになった。

 オランダ総督の家系

 16世紀後半のウィレム1世以来、オラニエ公の家系はオランダの総督に就任してきた。だが、ウィレム3世は総督への就任を妨げられた。
 その理由は、父ウィレム2世が没する前に専制的になっていたためだった。別の理由は、1654年のイギリスとオランダのウェストミンスター条約の密約によって就任を禁止されたためだった。

 では、なぜイギリスはウィレム3世の総督就任に反対したのか。それはこの頃のイギリスでのピューリタン革命に原因がある。
 1642年、ピューリタン革命が起こり、イギリス王チャールズ1世とイギリス議会が内戦状態に突入した。
 議会軍が勝利し、1649年にチャールズ1世を処刑した。だが、王家の人々はオランダに亡命した。なぜなら、上述のように、チャールズ1世の娘メアリがウィレム2世と結婚していたからである。

 その後、イギリス議会はイギリスを王制から共和制に移行させた。しかし、かつての王党派による反乱を恐れた。
 この反乱の芽をつむために、イギリスはメアリとウィレム2世の子どもがオランダ総督に就任できないようにした。それがウィレム3世である。かくして、ウィレム3世はすぐには総督につけなかった。オランダは総督のいない時代に入った。

イギリスの政情の変化

 1660年、イギリスで政変が起こり、王政が復古した。その結果、ウェストミンスター条約の主体だったイギリスの共和国が消滅した。そのため、ウィレム3世が総督に即位する際の大きな障壁が一つなくなった。

 それでも、当時のオランダの宰相ヨハン・デ・ウィットは引き続きオラニエ家に警戒感を抱いていた。そのため、ウィレム3世が総督になるのを認めようとしなかった。1667年には、総督と軍の最高司令官の兼務が禁止された。

 総督が軍の最高司令官を兼ねたならば、議会などの反対勢力を軍の力で圧服することができてしまう。
 だが、かつてのオラニエ公たちはこれらを兼務していた。しかも、実際に軍の力で反対派を一掃したこともあった。そのため、ウィットは予防策としてこの兼務を禁止した。

 オランダの総督へ

 だが、時代はウィレムに味方した。17世紀半ばから、オランダはイギリスやフランスとの戦争で疲弊し、勢力に陰りが見え始めた。
 1671年、英仏などが結託してオランダを攻略する流れとなり、これがオランダでも知られた。ウィットがこの苦境を脱せない中で、民衆はウィレム3世を救世主と仰ぐようになった。

 1672年、オランダは包囲攻撃を受けた。オランダの滅亡さえ危惧される災厄の年になった。この混乱の中で、ウィットは暴徒によって殺害された。
 ウィレムが総督と軍の最高司令官に就任して、反撃を開始した。だが、期待に反して、フランス軍に軍事的に勝利することはできなかった。

 なぜメアリー(2世)と結婚したか

 その代わり、ウィレムは外交政策で窮地を乗り切ろうとした。ルイ14世の拡張主義的なフランスを国際的に孤立させる方針を取った。その一環で、1677年、ウィレムはのちのイギリス王ジェームズ2世の長女メアリーと結婚した。

 彼女はのちにイギリス王メアリー2世となる。さらに、1686年には、彼はスペインや神聖ローマ帝国などとともに、アウグスブルク同盟を結成した。

 イギリスの名誉革命

 その頃、イギリスではジェームズ2世が即位した。彼は即位前にカトリックに改宗していた。跡継ぎもできた。そこで、イギリスがカトリック国になるという危機感などにより、王権打倒の機運が高まった。

 1688年、イギリスの議会がウィレムに救援を求めた。ウィレムは真の宗教を守るという任務だけを遂行するとして、この求めに応じた。
 ウィレムはイギリスでジェームズ2世を急襲した。ジェームズはフランスに亡命した。ウィレムはロンドンに無血で入り、名誉革命を達成した。

イギリス国王へ

 1689年、ウィレムは議会で権利の宣言を受け入れた。ウィリアム3世として、イギリス国王に即位した。妻メアリー2世と共同統治を開始した。当初、メアリーはダンビー伯爵から、単独での女王即位を提案されていた。

 だが、メアリーはこれを断り、ウィリアムとの共同統治を選んだ。メアリーはウィリアムにたいして献身的な人物であり、政治に関しても夫に頼る人物であった。
 このようにして、かつてはオランダ総督に就任するのを妨害してきたイギリス議会の要請で、ウィリアムはその国王になった。
 だが、ルイ14世はウィリアム3世の新体制を認めなかった。ジェームズ2世を支援し続けた。そのため、フランスとの戦争が続いた。同年、アイルランドがこの革命に反対する人々の拠点となった。

 ジェイムズ2世はフランス軍の支援のもとでアイルランドへ進軍した。だが、ウィリアム3世が直接アイルランドへ進軍し、これを撃退した。その後、アイルランドの植民地化が更に進んだ。

 権利章典の新体制

 イギリス議会では、権利章典と寛容法が成立した。権利章典では、議会の同意なき課税や宗教裁判所の設置などが違法とされた。議会制定法による王権の制限という立憲君主制の仕組みが整えられた。

 常備軍は議会の統制下に置かれた。さらに、1701年、イギリス王位の継承からカトリックが排除された。これまでみてきたように、このカトリックの王位継承権が名誉革命の主な原因の一つだった。
 なお、この排除法は2013年まで続くことになる。この名誉革命の体制自体は1世紀以上続くことになる。
 寛容法は王に忠誠を誓うならピューリタンが宗教的罰則の適用外になるというものである。しかし、カトリックと無神論者は適用の対象となった。また、
 審査法はピューリタンにも適用された。英国教会が優位する中で、ピューリタンにも信仰の自由を認めるという体制がとられた。

財政革命

 この時期、財政の面で大きな変革が進んでいった。当時のフランスでは、ルイ14世が対外拡張戦争を繰り返し行っていた。イギリスはオランダやスペインと同盟を組んで、フランスと戦争に突入した。アウグスブルク同盟戦争である。
 この戦争費用を賄うために、1693年、イギリスは国債制度の導入した。1694年、そのためにイングランド銀行を設立した。国家が長期的な借り入れによって財政を安定させることで、安定的に戦費を確保できるようになった。これは財政革命と呼ばれる。
 1702年、ウィレムは落馬の後遺症で没した。

オレンジ公とオラニエ公、あるいはウィリアム3世とウィレム3世の違い

 これらは言語に基づく違いである。オレンジ公とウィリアム3世は英語で、オラニエ公とウィレム3世はそのオランダ語である。だが、ウィレム3世がウィリアム3世とも呼ばれてきたこと自体が、この記事でみてきたように、まさに運命のいたずらだったといえる。
 イギリス王としてはウィリアム3世(在位1689−1702)、オランダ総督としてはオラニエ公ウィレム3世(在位1672−1702)と呼ばれている。イギリスではオレンジ公ウィリアムとも呼ばれる。

 ウィリアム3世と縁のある人物

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ウィリアム3世の肖像画

ウィリアム3世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

君塚直隆『清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで』中央公論新社, 2015

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

Tony Claydon, William III, Routledge, 2016

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