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西洋の魔女裁判や魔女狩りとはなにか

 魔女裁判や魔女狩りとはなにか。いつ、どの国で、どのような仕方で展開されたか。どのような罰がくだされたのか。なぜ終わったのか。これらの点について、一連の記事で説明していく。なお、西洋の魔女裁判や魔女狩りに限定している。
 魔女裁判や魔女狩りは、悲惨で恐ろしい出来事であった。だが、それゆえに、当時のキリスト教会や民衆の無知蒙昧ゆえだと安易に考えられてきた。異端審問と関連付けられてきたのもその一因だろう。
 だが、近年の研究では、魔女裁判や魔女狩りの地域差が大きいことがわかってきている。魔女裁判のモデルとして長らく知られてきたものとは異なるモデルや例が多く存在してきた。
 以下の一連の記事で、西洋の魔女裁判のあり方を説明していこう。

西洋の魔女狩りや魔女裁判とはなにか

魔女狩り・魔女裁判はいつから始まったか

 そもそも、魔女の信仰は紀元前の古代ギリシャの時代にはすでに存在していた。だが、魔女裁判や魔女狩りがいつから始まったかについて、正確なことはわかっていない。単発の裁判は古代からあったかもしれない。
 それでも、ヨーロッパで魔女裁判がいつから本格的に開始されたかは、おおむね一般的な見解が形成されている。それは1400年頃からである。
 それ以前にも、ヨーロッパでは散発的に魔女狩りや魔女裁判がみられた。だが、本格的な時期は1400−1750年頃である。
 これまで、魔女裁判にかんする多くの研究は1400年代やそれ以前を対象にしてきた。特に、1400年代前半から半ばのアルプス山脈周辺の魔女裁判が注目されてきた。この時期の魔女裁判については、次の記事で扱っている。

 したがって、本記事の主な対象は1500−1750年代のヨーロッパの魔女裁判にしている。 この時期については、ヨーロッパの魔女裁判は地域主義的であることが知られている。すなわち、地域による差が大きい。
 むしろ、この時期は魔女裁判としての共通の特徴が少ない。魔女や魔女裁判のあり方は複数のモデルが存在した。対象範囲の時期と場所が広いので、当然ともいえる。この点をまずしっかり踏まえる必要がある。

魔女裁判はなぜ起こったか:その理由

 魔女裁判が生じた理由については、様々な探求がなされてきた。
 たとえば、小氷期と称されるような厳しい気候である。例年以上に寒くなり、日照りが少なくなる。その結果、不作となる。人々は栄養状態が悪化し、寒さで体調を崩しやすくなる。流行病が生じる。
 また、不安や病気で人々の精神状態も悪くなる。こういった背景から、一部の人たちが民衆の怒りや不安の矛先を向けられる。魔女狩りや魔女裁判の対象になる、と。
 あるいは、魔女裁判は王侯貴族の権力争いでも利用された。魔女裁判は異端審問と結びつくことがあった。王侯貴族がライバルを蹴落とすために、相手を異端や魔女として逮捕させ、処刑することもあった。
 これらは魔女裁判の理由といえる。とはいえ、理由についても、地域差があった。小氷期の影響の大きさには地域差があったようにである。

下からの魔女裁判

 魔女裁判の理由との関連で踏まえておくべきは、魔女裁判が基本的には下から開始されたことである。魔女裁判は、ヨーロッパ大陸では当局が上から開始し、イギリスでは民衆が下から開始したと、長らく考えられてきた。
 だが、訴追相手がエリートや教養人であるケースを除けば、実際にはヨーロッパの魔女裁判は下から開始された。特定の個人が魔女であるという噂や疑惑、あるいは民衆による告発をもとに開始されたのである。

 魔女裁判が特に多くなった1550年から1650年にかけて、次のような状況がその原因になっただろうと指摘されている。
 過密した人口、前例のない物価の上昇、貧困層の実質賃金の低下、慢性的な飢饉と旱魃、特に気候が厳しかった年、ペストの定期的な発生、特別に高い乳児死亡率、農村から町への貧困層の移住、人間や獣の疫病、広範な国内および国際的な戦争から生じた社会的混乱である。
 これらが民衆の個人的な相互対立を後押しすることになり、そこから魔女裁判へと発展していった。魔女裁判が有罪で結審するには、最初の告発や法定での証言を行う魔女の隣人たちと、裁判での司法エリートたちの協力が必要であった。

魔女は何をするか:魔女の罪とは

 魔女裁判が行われた理由を知るには、そもそも魔女とみなされた人たちがどのような罪で裁かれたのかを知るのがよい。
 魔女のイメージについても地域差がある。とはいえ、人や財産にたいする危害が魔女裁判の主な理由だったといえる。ここではよくみられた魔女の罪をみてみよう。
 たとえば、魔女は人が寝ているときに現れて、その人を圧迫したり、寝ている赤ん坊の魂を喰ったりする。魔女は動物に変身したり、小動物を使って偵察や攻撃を行うことができる。
 魔女は呪い、特徴的な身振り、物理的接触、秘薬によって害を与える。人間や家畜の病気や死を引き起こす。たとえば、男性のインポテンツ、女性の不妊症、牛の乳が出ないなどである。


 反対に、よく知られた病気や伝染病が魔女の仕業だとされることは稀だった。それでも、それらの病気が異常に早く発病したり、異常に長引いたりするなら、魔女の仕業が疑われた。
 あるいは、魔女は雹の嵐や暴風雨を引き起こす(天候魔術)。それによって、農作物や建物に大きな危害を加える。ビールやバターをいつも通りの仕方で製造していたのに、なぜか今年は出来上がらない。その場合にも、魔女の仕業が疑われた。

犠牲者や対象者は誰か

 では、上記の罪によって、どのような人が魔女として訴追されたのだろうか。
 理屈の上では、ほとんど誰でも魔女と疑われる可能性があった。だが、実際には特定のタイプの人々が特に疑われやすかった。
 まず挙げられるのは、魔術の専門家や実践者である。魔術は中世からヨーロッパで実践されてきた。いわゆる黒魔術といわれるものだけでなく、病気の治癒などを目的とした白魔術と呼ばれるものもあった。
 1400−1750年ごろにおいても、魔術は広く実践されていた。王侯貴族も民衆も実践していた。なくした物を探したり、恋愛を成就させたりするためにも、行われた。この魔術の実践者が魔女として疑われやすかった。

魔女裁判と男性の魔女(ウィッチ)

 その場合に、この時期においては、魔術の実践者として、女性が男性よりも疑われるようになっていった。中世の魔術の専門家は長らく、学識ある男性であった。彼らが宮廷などで王侯貴族のために魔術を実践していた。
 だが、魔女裁判が本格化するこの時代においては、状況が変わっていった。魔術の実践者は、とくに魔女裁判の対象となったのは、特に教養を備えたわけではないふつうの女性だった。いわば、無学の女性だった。そのため、魔「女」であった。
 魔術の実践者以外でも、特定のタイプの女性が魔女として訴追されやすかった。それは、特にけんかっ早い女性や評判の悪い老女である。そのような女性の親族もしばしば疑われた。
 魔女裁判の発端は隣人との日常的な諍いだった。女性たちは長い間、魔女であると噂されるようになっていた。近隣の人たちは、気難しい近所の魔女への不安と恐怖を募らせていった。魔女裁判で訴追された人々の大半は、やや高齢で不妊の既婚女性であった。
 これはこの時代のヨーロッパでよくみられるケースだった。ただし、男性の「魔女」(ウィッチ)も裁かれた。特に、フィンランドでは、女性よりも男性の魔女のほうが多く裁かれ、処刑された。

魔女裁判で裁かれた有名な人は?:ジャンヌ・ダルクのエピソード

 魔女裁判の犠牲者のほとんどは一般の民衆であった。だが、中には、有名な人物もいた。上述のように、魔女裁判は権力闘争の道具にもなったからである。最も有名なのは、フランスのジャンヌ・ダルクだろう。詳しくは、次の記事を参照。

魔女裁判での処刑の規模

 どのくらい多くの人たちが、ジャンヌ・ダルクのように、魔女裁判で訴追され、罰せられたのだろうか。1400年から1775年の間に、ヨーロッパとその南北アメリカ植民地では、およそ10万人が魔女として訴追された。
 そのほとんどが処刑された、と思うかもしれない。それがこれまでの常識的な考えだろう。だが、実際には、処刑された人数は5万人ほどだった。
 その半分がドイツないし神聖ローマ帝国内で行われた。よって、ドイツは魔女狩りの中心地と呼ばれている。
 もっとも、ドイツの中でも、魔女裁判の地理的な違いは大きかった。 最悪の魔女狩りはヴュルツブルクやバンベルクのような小さな教会領内で起こった。
 なお、命が助かった魔女たちの境遇は厳しいものだった。これらの魔女はほとんどの場合、後述のような別の刑罰を受けた。
 無罪として放免された魔女もまた、厳しい状況に置かれた。大半の場合、魔女はもともとの居住地で生き続けるのに困難を感じた。魔女を魔女として告発していた隣人たちから疎まれ続けた。
 彼らは魔女裁判で正義が果たされなかったと確信した場合に、魔女を自分たちの手で懲らしめようとすることもあった。よって、魔女は近隣住民の嫌がらせやリンチにおびえて暮らした。

魔女裁判での処罰:火刑が当然?

 魔女裁判での処罰といえば死刑であり、主に火あぶりの刑が行われた、と思うかもしれない。だが、これはシンプルに間違いである。上述のように、魔女裁判はこの点でも、地域の差が大きいからである。
 たしかに、魔女に対して死刑が宣告され、火あぶりになる例は多く存在する。この場合、火あぶりが選ばれた理由もある。火は穢れを浄化すると期待されたためでもある。今日の日本でも、お焚き上げなどが似たような発想であろう。
 ヨーロッパの魔女裁判では、死刑判決が下ったとしても、死刑が執行されないケースも少なくなかった。
 魔女裁判で死刑が執行される場合、火あぶり以外の選択肢もあった。たとえば、絞首刑や斬首刑である。絞首刑は罪人の首を吊ったまま、長らく見せしめとして放置することが多かった。斬首刑は見せしめにしないことが多かった。
 たとえばロシアでは、男性の魔女にたいしては、これらが火あぶりよりも多かった。女性の魔女は頭を地上に出したまま生き埋めにされ、衰弱死させられた。
 魔女裁判での死刑を早い段階で廃止していったのはフランスだった。17世紀前半以降、死刑を実質的に廃止していった。よって、フランスでは魔女裁判といえば死刑だとはいえない。
 他の罰としては、鞭打ちのような身体刑が行われた。ロシアでは、魔女が魔術によって深刻な身体的危害を加えたと判断されたなら、手や足を切断された。
 ほかの主な刑罰としては、追放刑があげられる。魔女は居住地から一時的あるいは恒久的に追放された。他の地域に住めばいい、と思うかもしれない。だが、この時代はそれほど簡単な問題ではなかった。他の地域の正式な住民になるには、現代と比べて、かなりハードルが高かった。
 よって、追放された人々は多くの場合、もともとの居住地の外部で路上生活者となった。この時代、正規の住民と路上生活者の区別は実際的に大きな影響力をもった。たとえば、刑罰の内容や実施のされ方に大きな違いをもたらした。同じ罪を犯しても、住民はなかなか罰されないが、路上生活者は安易に罰せられた。
 追放はそのような効果をもつ罰だった。
 他の罰には、長期の投獄やガレー船送りもあった。ガレー船送りは、ガレー船で奴隷のように厳しい労働を強いられることになる。
 ローマ教皇庁の場合、魔女は街頭で公衆の面前での屈辱を受けるという罰ですまされることも多かった。もっとも、この時代は名誉あるいはメンツは民衆にとって重要なものだった。メンツを失うことで、職を失うこともあった。
 ほかに、特定の地域からの移動禁止という刑罰もくだされた。追放刑の逆といえる。
 以上のように、魔女裁判の刑罰は死刑が当たり前ではなく、種類は多様であった。

 魔女裁判が終わった理由については、別の記事で示そう。

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おすすめ参考文献

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Brian P. Levack(ed.), The Oxford handbook of witchcraft in early modern Europe and colonial America (Oxford, 2014)

池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』岩波書店, 2024

黒川正剛『図説魔女狩り』河出書房新社, 2024

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