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ヒポクラテス:「西洋医学の父」の古典医学とはどのようなものだったか

 ヒポクラテスは古代ギリシャの医師(紀元前460年頃ー370年頃)。『ヒポクラテス全集』が後世に広く伝わり、広範な影響力をもった。それゆえ、医学の父と呼ばれる。この記事では、『ヒポクラテス全集』や体液生理学などについて説明する。

ヒポクラテス(Hippocrates)の生涯

 ヒポクラテスはギリシャのコス島で、医者の家庭に生まれた。父から医者としての指南を受けた。ギリシャから小アジアまで旅をし、医療を施したり、医学を教えたりした。
最終的には故郷に戻り、医者としての活動を全うした。古代ですでに、名医としての評判を確立した。

 医学の父:『ヒポクラテス全集』

 西洋の古典古代の文献としては、医学に関する史料は他の学問領域のものと比べれば非常に多くが現存している。それでも、当時存在していた史料の一部が残っているに過ぎない。

 後世の人々においては、ヒッポクラテスの名前を冠した『ヒポクラテス全集』がヒポクラテスの学説を伝える著作集として認知されるようになる。これは紀元前に、主にエジプトのアレクサンドリア図書館が収集したものである。

 本書は医学の学習のために普及し、古代ギリシャの医学文献としては古典的な権威として認められるようになった。60冊ほどが現存している。
 だが実際には、本書は時代も場所も異なる医学者たちが執筆した著作とヒポクラテス自身のものが混じり合っている。どの部分がヒポクラテスに由来するかについては、意見が割れている。よって、これは純粋にヒポクラテスの著作とはいえない。

  ヒポクラテスの体液生理学

 中世においては、体液生理学がヒポクラテスの学説として認知されることになる。これがどのようなものかをみていこう。

 四大元素説

 体液生理学は四大元素説に基づいている。古代ギリシャでは、人間はミクロコスモスとして理解された。その構成要素が空気・火・土・水の四元素である。その構成のあり方に応じて体型・体質が決まるとされた。この考え方は中世に引き継がれた。
 四元素をより詳しくみてみよう。四つの元素のうちの二つの元素の組み合わせによって、温暖湿乾の性質がうまれるとされた。
 火と空気の温、水と土の寒、土と火の乾、空気と水の湿である。すべてのものは必ずどれかの性質をもつ。それぞれ度合いが異なる。

 体液生理学

 ヒポクラテスが四大元素説をもとに体液生理学を構築した。この理論では、人間の身体は血液、黄胆汁、粘液、黒胆汁の四体液で構成される。血液は空気、黄胆汁は火、粘液は水、黒胆汁は土に支配される。

 体質はそれぞれの体液に応じたものになる。多血質は温と湿の組み合わせである。同様に、胆汁質は温と乾の、寧々気質は寒と湿の、黒胆汁質は寒と乾の組み合わせである。

 
 各人はどれか一つの体液が優性であり、それによってその人物の体質と気質が決まる。たとえば、明るく活発な多血質、怒りっぽい胆汁質、鈍重な寧々記質、憂鬱で陰気な黒胆汁質となる。

中世での受容

 この理論が中世になって、西洋キリスト教世界に受容された。キリスト教の考えでは、アダムとイヴは楽園にいた頃には完全に健康であり、全く病気をしなかった。よって、楽園のアダムとイヴは完璧な体液バランスだった、

 だが、アダムとイヴは神の掟を破って、楽園から追放された。その頃から、アダムとイヴおよび子孫としての人類は体液バランスを崩した。これが一因で、病気にかかるようになった、と考えられた。
 病気の治療はこの体液バランスを正常に戻すことだと考えられた。

 『ヒポクラテス全集』の影響と意義

 『ヒポクラテス全集』は中世のはじめごろに西欧世界では一度衰退した。西欧では西ローマ帝国が滅んでから、文芸が急速に衰退したためだった。だが、ヒポクラテスの著作は東方のビザンツ帝国やアラビア世界では権威として利用されていく。

 9世紀頃の翻訳活動などを経て、本書はアヴィケンナやアヴェロエスによる翻訳を介して西欧世界に再び流入した。12世紀にはイタリアのボローニャ大学やパドヴァ大学で重宝され始め、普及していった。

 その後の西欧中世で、ヒポクラテスはガレノスとアヴィケンナとともに、医学の権威だった。中世キリスト教世界において、ヒポクラテスは異教徒であったにもかかわらず、頭の上に光の輪をつけた肖像画も描かれたほど権威として受け入れられた。

 さらに、『ヒポクラテス全集』の影響は医学以外にも広範にみられた。というのも、医学は文芸とも深く関連したためである。たとえば、人体はミクロコスモスとして理解され、外的世界のマクロコスモスと対応すると理解された。

 ただし、ヒポクラテスの権威はガレノスと比べると、低かった。

 医学は他の仕方でも文芸と深い関連をもったため、ヒポクラテス的な観念は西洋文化に広範な影響をもった。近世の科学革命がヒポクラテス医学を刷新する時、西洋文化にも広範なインパクトをもたらすことになる。

『ヒポクラテス全集』の問題

 ただし、古典古代の西洋医学を理解する際には、注意しなければならない点がある。『ヒポクラテス全集』が長らくガレノスの著作とともに、古典古代の医学を代表するものとしてほぼ排他的に重要な著作とみなされてきたことである。

 その結果、近年に至るまで、古典古代の医学といえばヒポクラテスかガレノスだと考えられてきた。だが、実際には、彼ら以外にも古典古代には様々な医学的な書物が存在していた。よって、ヒポクラテスとガレノスの著作に過度に関心が集中してきたのである。

 しかも、上述のように、『ヒポクラテス全集』はその多くの部分がヒポクラテス以外の著者によるものだと判明してきた。したがって、古典古代の医学を理解するうえで、ヒポクラテスの名前に依拠することにはそれなりの大きな弊害があるといえる。

 ヒポクラテスに注目しすぎると、認識が歪んでしまうのである。近年になって、プラクサゴラスなどの、ヒポクラテス以外の医学的な文献にも光が当たるようになってきた。かくして、この弊害は改善されつつある。

ヒポクラテスと縁のある人物や事物

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ヒポクラテスの肖像

ヒポクラテス 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

久木田直江, 2014『医療と身体の図像学』泉書館

Mark Jackson(ed.), 2013, The Oxford handbook of the history of medicine, Oxford University Press

Elizabeth M. Craik, 2015, The ‘Hippocratic’ corpus : content and context, Routledge

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