林芙美子:波乱万丈の『放浪記』

 林芙美子は昭和前期の小説家(1903―1951)。幼少から住居を転々とし、成人してからは上京して職を転々とした。それらの経験を活かして『放浪記』を発表し、文名を高めた。庶民生活を主題とした自伝的小説で作家としての地位を確立した。さらに、これからみていくように、、戦時中にはあまり知られていない活動もした。

林芙美子(はやしふみこ)の生涯

 林芙美子は山口県下関で生まれた。本名はフミコである。父は行商人だったが、母の林キクの私生児として育てられた。母の離婚と再婚により、一家は転々とした。
 1915年、広島県尾道に定住するようになった。芙美子は尾道市立高等女学校に入り、1922年に卒業した。

 作家としての開花

 芙美子は愛人を頼って、東京に移った。だが、生活は安定しなかった。露天商や女工など、様々な職を転々とした。そのかたわら、文学への関心を深め、詩作を行うようになった。1924年には、詩誌『二人』を創刊した。

 芙美子は詩人や俳優などと交流をもち、同棲生活を送ることもあった。アナキスト詩人の岡本潤らと知り合い、影響を受けた。1926年には、画家見習いの手塚緑敏(てづかろくびん)と結婚した。

 この頃、芙美子は世間での女流作家の活躍をみて、自身も文筆活動を本格的に開始した。1928年、女流作家の文芸誌として、『女人芸術』が創刊された。
 同年、芙美子の『放浪記』が本誌に連載された。1929年、芙美子は詩集『蒼馬を見たり』を公刊した。1930年、『放浪記』が単行本として出版され、大成功を収めた。『続放浪記』も刊行された。

『放浪記』

 この作品はそれまでの林の人生経験をもとにした自伝的作品でもある。時代はまさに世界が不況であえぐ頃だった。
 主人公の少女は幼少時代から行商人の両親とともに各地を渡り歩いていた。女学校を卒業した後、東京に移った。女中や女工、当時流行していたカフェーの女給など、職を転々とする。
 様々な男性と同棲しては、追い出される。そのような貧窮と屈辱の放浪生活を送りながらも、決して腐らず、諦めず、他人を信頼し、文学への夢を抱き続ける。生の希望が通底した青春小説である。

 大衆作家としての活躍:『清貧の書』

 1931年、芙美子は『風琴と魚の町』や『清貧の書』を公刊した。庶民の生活を自伝的な仕方で描いた。これらも成功を収め、作家としての地位を確立した。同年、ヨーロッパを旅した。帰国後も『牡蠣』などを公刊した。

 林芙美子、半生を語る

 1935年、林は「文学的自叙伝」を公刊した。『放浪記』の基になった自身の半生を書いたものである。その内容をみてみよう。

女学生の頃

 幼少期、林は広島の尾道で両親と暮らした。そこで女学校に通っていた頃、しばしば図書室に通った。陰気で雑然とした図書室であり、閑散としていた。しかし、両親が行商で家にいないので、家に帰らず、図書室に入り浸っていた。
 そこでは、児童文学者の鈴木三重吉(すずきみえきち)の『瓦』などを読んだ。この時期は特に感動的なこともない生活を送った。地味で、親友もいなかった。
 しかし、2年生の頃、林は椿姫の唄という唱歌のレコードを学校で聞いた。その言葉は心が燃えるほど綺麗だった。その後、林は文学への興味を強めていく。
 『ポールとヴィルジニー』や『若きウェルテルの悩み』などを読んだ。この頃、担任教師が雨の日に、ドイツの詩人ハイネやノヴァーリスなどの詩の和訳を読み聞かせてくれた。それらが心温かく感じられた。林は「眼をつぶってその詩にききほれた」ものだった。
 特に、プーシキンの「うぐいす」という詩がお気に入りだった。このようにして、林は詩が大変好きになった。風景詩をつくって愉しんでいた。

上京生活

 女学校を卒業した後、林は当時の若い女性と同様に、単身で東京に移った。特に目的もなく、生活がうまくいかなかった。まもなく、両親が東京に移ってきて、同居した。
 この時期は事務員などをつとめ、食べていくのに精一杯だった。両親と一緒に神楽坂などで雑貨の夜店を出すようになった。慣れてきて、一人で夜店を出すようになった。
 そのかたわら、林は古本を読み漁った。特に、加能作次郎(かのうさくじろう)の小説が気に入った。雑誌『 文章倶楽部』を好んで読んだ。その中でも、室生犀星(むろうさいせい)の詩が特に好きだった。

放浪と文学

 1923年、関東大震災が起こった。東京は甚大な被害を受けた。林一家は東京から四国へ移った。四国では目標のない鬱屈した日々を過ごした。
 林は再び単身で東京に移った。女工や売り子などをして生計を立てた。俳優と知り合い、結婚した。萩原恭次郎(はぎわらきょうじろう)や高橋新吉(たかはししんきち)などの詩人と交流を持った。彼らはアナーキズムの詩を制作していた。3ヶ月ほどで結婚生活は終わった。
 林は友谷静栄とともに『二人』という同人の詩誌を公刊し始めた。だが、資金が続かず、5号で廃刊になった。童話を制作したが、売れなかった。この時期が一番苦しかった。食費を節約するために、カフェで働いた。
 その後、林は詩人の野村吉哉(のむらよしや)と結婚した。この結婚生活は2年間ほど続いた。別れた後、小説家の平林たい子といっしょに住んだ。
 カフェで働きながら、詩を雑誌に投稿し、童話を書いた。社会主義運動が活発になる中で、無産婦人同盟に入った。だが馴染めなかった。

詩への欲求

 この時期には、林は小説家の徳田秋声(とくだしゅうせい)のもとに足繁く通った。ご飯をごちそうしてもらったり、落語に連れて行ってもらったりした。
 小説を見てもらったことはなかったが、詩を見てもらったことはある。そのとき、徳田は眼鏡を外して涙を流した。「たった一言『 いい詩だ』と云って下すったことが、やけになって、生きていたくもないと思っていた私を、どんなに勇ましくした事か」。林は感激した。
 「考えてみると、私を、今日のような道に誘って下すったのは徳田先生のような気がしてなりません」。
 1926年、林は手塚緑敏と結婚した。この頃に、「私はようやく、何か書いてみたいと思い始めました」。とはいえ、文筆活動の収入は少なく、生活は苦しい日々が続いた。書き溜めていた日記を雑誌『女人芸術』で連載し始めた。すなわち、『放浪記』である。
 著述に打ち込んだ。ただし、『女人芸術』が左翼の雑誌になってしまったという理由で、林はそこでの連載を1年間でやめた。

文人としての転機

 1930年の夏、林は普段着の浴衣も売ってしまったので、赤い海水着を普段着としていた。ある日、洗濯していたところに、改造社の社員が訪ねてきた。林は自分の姿に恥ずかしくなりながらも、対応した。
 雑誌『改造』の十月号に「九州炭坑街放浪記」が掲載された。「その時のうれしさは何にたとえるすべもありません」。同じ号には、谷崎潤一郎の「卍」や川端康成の「 温泉宿」が掲載された。ほかにも、斎藤茂吉や室生犀星、三木清や河上肇の論考などが掲載された。林はそれらに大いに励まされた。
 改造社からは、2ヶ月は遊んで暮らせるほどの原稿料をえた。これまでまともに原稿料を得たことがなかったのでこれがとても身にしみた。
 この頃、林は図書館に通い、乱読を始めた。「此様に私にとって愉しい時代はありませんでした」。岡倉天心の『茶の本』やカントの宗教哲学などの本を読んだ。
 この頃から、小説を書きたいと思うようになった。だが、実際に書いてみると、苦痛だった。なぜか。
 「詩で云えば十行で書き尽くせるような情熱を、湯をさますようにして五十枚にも百枚にも伸ばして書く小説体と云うものが大変苦痛だったのです」。詩への林の熱情はいよいよ高まっていった。友人の支援をえて、詩集『蒼馬を見たり』を公刊した(記事の後半でその中身を紹介する)。

『放浪記』の出版

 1930年、林は改造社から『放浪記』の単行本を公刊した。「そのときは頭が痛いほどうれしく」思った。2ヶ月の中国旅行に出た。1931年、『風琴と魚の町』を公刊した。林はこれを「大人の童話のようなもの」だと述べている。

ヨーロッパ旅行

 同年、林はパリへと旅に出た。その背景として、この頃の日本はプロレタリア文学が盛んであり、林は孤立無援だと感じていた。もはや仕事を続ける自身を失い、どこか外国へ行きたくなったのだった。
 『清貧の書』の手直しをして改造社に送った後、いざ日本を出発した。「再び日本へは帰って来られない」と思いながら、旅立った。
 パリに着いてからも、林は紀行文の執筆に追われた。アパートに閉じこもって書く日々だった。
 翌年にはロンドンを訪ねた。ここでも寒かったので屋内で読書をした。多くの詩を読んだ。立派な詩を書きたいと思った。このときの心境をこう語っている。
 「私は欧洲にいて日本の言葉の美しさ、日本の詩や歌の美しさを識りました。日本の言葉の一つもない欧洲の空で、白秋氏の詩でも、犀星氏の詩でも春夫氏の詩でも声高くうたってみると、言葉の見事さに打たれます。私は日本の言葉を大変美しいと思い、ひそかに自分の母国語にほこりさえ持ちました」。
 日本に帰りたいと思うようになったが、旅費を捻出できなかった。

日本への回帰

 翌年、林は改造社の社長の好意で旅費を得て、日本に帰ってきた。素晴らしい詩を書きたいと思った。
 「日本のいまの文学から消えているものは詩脈ではないかと思ったりしました。詩のない世界に何の文学ぞやと思ったりしました。私は欧州で感じた日本の言葉の美しいのに愕き、その言葉で歌った日本の詩に金鉱を掘りあてたようなほこりを持ったのです」。
 日本の文壇ではロマン主義や能動精神などが言われるようになったが、みな詩を欲しているのではないか、と林は考えた。林は詩集『面影』を公刊した。詩のほうが小説よりも百倍愉しいのである。今後は詩と小説に専念したいと思った。

 晩年

 この頃、日本は第二次世界大戦へと傾いていった。そのような中で、芙美子は中国やインドシナなどに赴いた。従軍記として、『戦線』などを公刊した。

 戦後、芙美子は戦時中の経験から、反戦の作品を公刊していった。また、1948年の『晩菊』で女流文学者賞をえた。『浮雲』の連載などを精力的に行った。1951年に病没した。

 林芙美子の詩を『蒼馬を見たり』から紹介

 蒼馬を見たり

古里の厩は遠く去つた

花が皆ひらいた月夜
港まで走りつゞけた私であつた

朧な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻きをまいて
汽船を恋ひした私だつた。

だけれど……
腕の痛む留置場の窓に
遠い古里の蒼い馬を見た私は
父よ
母よ
元気で生きて下さいと呼ぶ。

忘れかけた風景の中に
しほしほとして歩ゆむ
一匹の蒼馬よ!
おゝ私の視野から
今はあんなにも小さく消へかけた
蒼馬よ!

古里の厩は遠く去つた
そして今は
父の顔
母の顔が
まざまざと浮かんで来る
やつぱり私を愛してくれたのは
古里の風景の中に
細々と生きてゐる老いたる父母と
古ぼけた厩の
老いた蒼馬だつた。

めまぐるしい騒音よみな去れつ!
生長のない廃屋を囲む樹を縫つて
蒼馬と遊ぼうか!
豊かなノスタルヂヤの中に
馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!
私は留置場の窓に
遠い厩の匂ひをかいだ。

 赤いマリ

私は野原へほうり出された赤いマリだ!
力強い風が吹けば
大空高く
鷲の如く飛び上る。

おゝ風よ叩け!
燃えるやうな空気をはらんで
おゝ風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ。

 ランタンの蔭

キングオブキングを十杯呑ませてくれたら
私は貴方に接吻を一ツ上げませう
おゝ哀れな給仕女

青い窓の外は雨のキリコダマ
さあ街も人間も××××も
ランタンの灯の下で
みんな酒になつてしまつた。

カクメイとは北方に吹く風か……
酒をぶちまけてしまつたんです
テーブルの酒の上に真紅な口を開いて
火を吐いたのです。

青いエプロンで舞ひませうか
金婚式! それともキヤラバン……
今晩の舞踊曲は――

さあまだあと三杯
しつかりしてゐるかつて
えゝ大丈夫よ。

私はおりこうな人なのに
ほんとにおりこうな人なのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のやうな男達へ
おしげもなく切り花のやうに
ふりまいてゐるんです。

カクメイとは北方に吹く風か……

 お釈迦様

私はお釈迦様に恋をしました
仄かに冷たい唇に接吻すれば
おゝもつたいない程の
痺れ心になりまする。

ピンからキリまで
もつたいなさに
なだらかな血潮が逆流しまする
蓮華に座した
心にくいまで落付きはらつた
その男ぶりに
すつかり私の魂はつられてしまひました。

お釈迦様
あんまりつれないではござりませぬか!
蜂の巣のやうにこわれた
私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無情を悟すのが
能でもありますまいに
その男ぶりで炎の様な私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱き締めて下さりませ。

ナムアミダブツの
お釈迦様!

 帰郷

古里の山や海を眺めて泣く私です
久々で訪れた古里の家
昔々子供の飯事に
私のオムコサンになつた子供は
小さな村いつぱいにツチの音をたてゝ
大きな風呂桶にタガを入れてゐる
もう大木のやうな若者だ。

崩れた土橋の上で
小指をつないだかのひとは
誰も知らない国へ行つてゐるつてことだが。
小高い蜜柑山の上から海を眺めて
オーイと呼んでみやうか
村の人が村のお友達が
みんなオーイと集つて来るでせう。

 苦しい唄

隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であらふ――

生活の中の食ふと言ふ事が満足でなかつたら
描いた愛らしい花はしぼんでしまふ
快活に働きたいものだと思つても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしやがんでゐる。

両手を高くさし上げてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切つて行く人間ばかりなのか!
いつまでも人形を抱いて沈黙つてゐる私ではない。

お腹がすいても
職がなくつても
ウヲオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。

血をふいて悶死したつて
ビクともする大地ではないんです
後から後から
彼等は健康な砲丸を用意してゐる。
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのやうに軽やかに美しいのでせう。

そこで始めて
神様コンチクシヨウと吐鳴りたくなります。

 疲れた心

その夜――
カフエーのテーブルの上に
盛花のやうな顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて

夜は辛い――
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色のお白粉に疲れ
十二時の針をひつぱつてゐた。

 鯛を買ふ
    ――たいさんに贈る――

一種のコオフンは私達には薬かも知れない。

二人は幼稚園の子供のやうに
足並そろへて街の片隅を歩いてゐた
同じやうな運命を持つた女が
同じやうに瞳と瞳をみあはせて淋しく笑つたのです
なにくそ!
笑へ! 笑へ! 笑へ!
たつた二人の女が笑つたつて
つれない世間に遠慮は無用だ。
私達も街の人に負けないで
国へのお歳暮をしませう。

鯛はいゝな
甘い匂ひが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには
父もあり
母もあり
家も垣根も井戸も樹木も……

ねえ小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいつた
大きな広告を張つておくれ
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜こんで遠い近所に吹ちようして歩く事でせう

―娘があなた、お江戸の日本橋から買つて送つて下れましたが、まあ一ツお上りなしてハイ……

信州の山深い古里を持つ
かの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
―明日は明日の風が吹くから、ありつたけのぜにで買つて送りませう……
小僧さんの持つた木箱には
さつまあげ、鮭のごまふり、鯛の飴干し

二人は同じやうな笑ひを感受しあつて
日本橋に立ちました。

日本橋! 日本橋
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでゐた。

二人はなぜか淋しく手を握りあつて歩いたのです
ガラスのやうに固い空気なんて突き破つて行かう
二人はどん底を唄ひながら
気ぜはしい街ではじけるやうに笑ひました。

 馬鹿を言ひたい
    ――古里の両親に――

千も万も馬鹿を言ひたい……
千も万も馬鹿を吐鳴りたい……
只何とはなしに……

こんなにも元気な親子三人がゐて
一升の米の買へる日を数へるのは
何と云ふ切ない生きかただらう。

呆然と生きて来たのではないが
働き馬のやうに朝から晩まで
四足をつゝぱつて
がむしやらに
食べたい為に
只呆然と生きて来てしまつた!

親子三人そろつて
せめて
千も万も 千も万も
馬鹿を吐鳴つたらゆかいだらう。

 酔醒

なつかしい世界よ!
わたしは今酔つてゐるんです。

下宿の壁はセンベイのやうに青くて
わたしの財布に三十銭はいつてゐる。

雨が降るから下駄を取りに行かう
私を酔はせてあの人は
何も言はないから愛して下さいと云ふから
何も言はないで愛してゐるのに
悲しい……

明日の夜は結婚バイカイ所へ行つて
男をみつけませう――

わたしの下宿料は三十五円よ
あゝ狂人になりそうなの
一月せつせと働いても
海鼠のやうに私の主人はインケンなんです。

煙草を吸ふやうな気持ちで接吻でもしてみたい
恋人なんていらないの

たつた一月でいゝから
平和に白い御飯がたべたいね

わたしの母さんはレウマチで
わたしはチカメだけど
酒は頭に悪いのよ――

五十銭づゝ母さんへ送つてゐたけど
今はその男とも別れて
私は目がまひそうなんです
五十銭と三十五円!
天から降つてこないかなあ――

 恋は胸三寸のうち

処女何と遠い思ひ出であらふ……
男の情を知りつくして
この汚らはしい静脈に蛙が泳いでゐる。

こんなに広い原つぱがあるが
貴方は真実の花をどこに咲かせると云ふのです
きまぐれ娘はいつも飛行機を見てゐますよ
真実のない男と女が千万人よつたつて
戦争は当分お休みですわ。

七面鳥と狸!
何だイ! 地球飛んじまえ
真実と真実の火花をやう散らさない男と女は
パンパンとまつぷたつに割れつちまへ!

 女王様のおかへり

男とも別れだ!
私の胸で子供達が赤い旗を振る
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振つて暮らさう。

皆そうして飛びだしてくれ!
そうして石を運んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上にのせてくれ。

さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しつかり しつかり
旗を振つてくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。

林芙美子の『清貧の書』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)

林芙美子の『放浪記』の朗読の動画

林芙美子の肖像写真

林芙美子 利用条件はウェブサイトで確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

林芙美子の代表的な作品

『放浪記』(1928)
『蒼馬を見たり』 (1929)
『風琴と魚の町』(1931)
『清貧の書』(1931)
『牡蠣』(1935)
『戦線』(1938)
『晩菊』(1948)
『浮雲』(1949ー1950)

おすすめ参考文献と青空文庫

福田清人『林芙美子』清水書院, 2018

尾形明子『華やかな孤独 : 作家林芙美子 』藤原書店, 2012

川本三郎『林芙美子の昭和 』新書館, 2003

※林芙美子の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person291.html)

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