フランチェスコ・グイチャルディーニはイタリアの政治家で歴史家(1483ー1540)。メディチ家の支配をフィレンツェや教皇国で支えた有力政治家だった。自身の政治家としての経験や見聞などをもとに、『イタリア史』などの著作を執筆した。これからみていくように、政治家としてマキャヴェリと共闘した。
この記事では、彼の理論についても説明する。
グイッチャルディーニ(Francesco Guicciardini)の生涯:『フィレンツェ史』
グイッチャルディーニはイタリアの名門貴族の出身である。グイッチャルディーニ家はメディチ家に仕えていた。彼自身もメディチ家に仕えることになる。
彼は法律を学び、その道でキャリアを開始した。同時に、『フィレンツェ史』の執筆を開始し、歴史家としての活動も始めた。
15世紀後半、メディチ家はフィレンツェの実質的な支配者になった。学芸のパトロンになり、フィレンツェのルネサンスを推進した。だが、15世紀末に、フィレンツェから追放された。
代わりに、修道士のサヴォナローラが神権政治を行った。その後、スペインの圧力のもと、メディチ家がフィレンツェに帰還するのに成功した。グイッチャルディーニもまたフィレンツェに戻り、法律家としての活動を再開した。
フィレンツェの大使:歴史家のまなざし
1512年、グイチャルディーニはフィレンツェ大使としてスペインに派遣された。この時期のイタリアは、特にフィレンツェは政情が不安定だった。15世紀末から、フランス王がイタリアでの権益拡大を図り、イタリア戦争を開始したためである。
国際関係が流動的であり不明瞭だった。フィレンツェはスペインやフランス、教皇の利害関係の中で難しい舵取りを迫られていた。そこで、グイッチャルディーニはスペインに派遣されることになった。
この外交業務において、グイッチャルディーニは主に3種類の記録を残している。1つ目はフィレンツェ政府の要人などに宛てた手紙である。2つ目は報告書である。政治的交渉の記録をフィレンツェ政府に報告するためのものだ。
3つ目は、『スペイン旅行記』である。旅は外国の人や風土などを理解する絶好の機会である。よって、この日記に、歴史家としての彼の側面が見出される。これを少し詳しくみてみよう。
旅行記では、 グイッチャルディーニは様々な情報を自身の経験に基づいて記録している。まず、旅程の情報である。どのようなルートを取ったのか。街と街の移動距離や時間を正確にもれなく記載した。
次に、訪れた街の特徴である。山や川などの地形や地理的情報、土壌の肥沃さ、宮殿や要塞などの人工的な街並み、政治的な状況や歴史的情報、カーニバルなどの習俗や伝統である。
グイッチャルディーニは特にアヴィニョンとバルセロナに興味をいだいたようである。だが、グイッチャルディーニはこの旅行記を旅行文学にするつもりはなかった。すなわち、各地の伝説や逸話、主観的な感想をあまり記さなかった。
教皇国での活躍:マキャヴェリとの共闘
1513年、ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世に即位した。グイッチャルディーニは教皇国の都市の統治者として、彼に仕えた。グイッチャルディーニはイタリア戦争では、教皇国の前線を守ることにもなった。
レオ10世が没した後、ジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世に即位した。グイッチャルディーニは再び教皇に仕えた。引き続きイタリア戦争に従事し、マキャヴェリらとともにフィレンツェを守ろうとした。その頃、自身の政治家としての経験を利用して、政治的著作も公刊した。
クレメンス7世はイタリア戦争での政策が不評だったこともあり、フィレンツェでメディチ家を追放する動きが活発になった。フランスがローマを攻略した際に、メディチ家はフィレンツェから一時的に追放された。
この頃、グイチャルディーニはフィレンツェの政治をもとに『フィレンツェの統治にかんする対話』を執筆した。
その後、グイッチャルディーニはメディチ家との関係で立場を失い、1530年にはフィレンツェで反逆罪を宣告された。彼はこの地を去った。クレメンスが没する1534年まで教皇に仕えた。だが、その後は教皇国での職を失った。
政治哲学:『フィレンツェの統治にかんする対話』
『フィレンツェの統治にかんする対話』は1522年にメディチ家への陰謀が活発になったのを背景としている。その頃、メディチ家がフィレンツェで共和制の統治改革に着手するだろうと期待された。
そのような状況下で、グイッチャルディーニはそのような改革の案を本書で提案している。実践的な書であると同時に、政治に関する彼の洞察を示す理論書でもある。
本書では、グイチャルディーニは様々な経験的事実を考察し、メディチ家の君主制的な支配よりも共和政のほうがフィレンツェにふさわしいと考えた。共和制の自由がフィレンツェにとっては自然である、と。
とはいえ、1494年以降のメディチ家の支配は共和制の制度と伝統を尊重し、少なくとも自由のイメージを保っていた、ともいう。
理想の政体とは
グイチャルディーニは様々な政体を比較して評価する唯一の基準として、政体の効果を挙げた。それはどれだけその政体が法と正義を守り、社会的身分を尊重し、万人の善を確保することができるかという点での効果である。
この基準でみた場合に、グイチャルディーニはかつての共和制の自由よりもメディチ家の支配がより優れた効果をもつので、より優れた政体だと論じる。
他方で、グイチャルディーニはフィレンツェの共和制の改革を念頭に置きながら、理想的な共和政体の指導原理についても述べた。これは端的にいえば、(理想化された)ヴェネチア共和国の混合政体である。
ヴェネチアはその優れた政体ゆえに、何世紀もの間、一度も反乱や内乱を経験することなく、同じ形の政治を維持してきたとされる。これは一般的にはヴェネチア神話と呼ばれている。
その指導原理は上層階級と下層階級の力の均衡であると同時に、少数の思慮深く経験豊かな市民のエリートが決定的かつ穏健な役割を果たすというものである。このエリートは貴族である必要性はなく、実力主義で選ばれる。
元老院はこのような最も有能で気高い市民で構成され、君主制の要素(ゴンファロニエーレ)と民衆の要素がそれぞれ行き過ぎることがないようにする。グイチャルディーニはそのような政体への改革を提案した。
『イタリア史』
その後、彼はフィレンツェに戻り、再びメディチ家に仕えた。浩瀚な『イタリア史』の執筆に取り組み、完成させた。
本書は16世紀イタリアの代表的な歴史書の一つとして知られる。これは1492年から1534年にかけてのイタリア半島の歴史を扱っている。
本書では、15世紀後半のイタリアでの勢力均衡による相対的な平和の時代に比して、本書の時期のイタリアの状況をイタリア戦争による悲惨なものとして描く。
従来のイタリア・ルネサンスの著作では、無私の個人による調和のとれた政治が理想とされ、そのような理想主義的な観点のもとで政治が分析される傾向にあった。
だが、グイッチャルディーニはマキャベリと同様に、人間や政治の性質について、より悲観的なスタンスで分析を行った。彼らからすれば、内部の不和や対立といったものは政治の世界では避けがたいものなのである。
『ネーデルラント全体の記述』
ほかにも、グイッチャルディーニは『ネーデルラント全体の記述』を公刊した。これはネーデルラントを忠実で平和を愛する地域として描いた。古代のネーデルランと人はタキトゥスらに基づき、野蛮人として描かれた。
だが、ネーデルラント人はその後に、慣習や振る舞いを大いに改善させてきた、と。彼らはいまや社交的で、信心深く、従順である。優れた商人でもある、と彼は論じる。
だが、実際には反乱があったり、宗派も多様だった。それゆえ、本書では、一種の理想化がほどこされていた。ネーデルラント人はよい性格で敬虔で従順な、模範的な臣民として描かれた。
本書の公刊からまもなく、ネーデルラントでは主君たるスペイン王への反乱が生じることになる。
グイッチャルディーニと縁のある人物
☆教皇レオ10世:メディチ家出身の教皇で、グイッチャルディーニの主君。いわゆる免罪符を大量に発行して、ルターの宗教改革を引き起こした。大量発行には、この時代ならではの興味深い理由があった。
●マキャヴェリ:フィレンツェの官吏などをつとめた。『君主論』で有名。
グイッチャルディーニの肖像画
グイッチャルディーニの主な著作・作品
『フィレンツェ史』(1509)
『リコルディ』(1512)
『フィレンツェ政体論』(1526)
『イタリア史』(1537ー1540)
おすすめ参考文献
グイッチァルディーニ『イタリア史』 末吉孝州訳, 太陽出版, 2001ー2007
Anne Robin, Atlante : Revue d’études romanes, vol.12, 2020
Michael Wyatt(ed.), The Cambridge companion to the Italian Renaissance, Cambridge University Press, 2014
J.H. Burns(ed.), The Cambridge history of political thought, 1450-1700, Cambridge University Press, 1994