ロバート・ボイルは17世紀イギリスの哲学者(1627ー1691)。ボイルの法則で知られる。だが、彼の功績はこれに限られていない。むしろ、これからみていくように、科学革命が勃興する時代において、実験主義の導入や科学活動の組織化で大きな貢献をした。ボイルの法則の発見はまさにその一環であった。
ボイル(Robert Boyle)の生涯
ボイルはアイルランドのリズモアで裕福な貴族の家庭に7男として生まれた。父は初代コーク伯である。母を幼くして亡くした。ボイルはイートン・カレッジで学んだ。後年、ボイルはこの時期の自分を読書の熱烈な友だったと評している。抜群の記憶力で知られた。貴族出身であることが後の科学活動に影響してくる。
グランド・ツアーへ
1639年からは、弟とともに貴族としてグランド・ツアーを開始した。当時のヨーロッパ貴族は教育の総仕上げとしてヨーロッパ大陸旅行(グランド・ツアー)をおこなう慣習があった。そのため、ボイルもまたこれに出発した。スイスやイタリア、フランスをめぐった。
だがこの頃、故郷のアイルランドで反乱が生じた。そのため、旅行の資金繰りに大きな問題が生じた。彼の兄は故郷に戻り、戦いに参加することになった。だがボイルは年齢的な問題もあり、故郷に戻らず、ジュネーヴに移った。
1644年、イギリスに戻ってきた。所領のストールブリッジに居を構えた。当初は自然学ではなく、倫理や神学の著作を執筆した。自制心や心の使い方、瞑想などについて論じた。
自然学者としての活躍へ
その後、ボイルは自然学者や哲学者など、様々な人々と交流をもつようになった。その中に、化学者が含まれた。彼らがボイルを実験的な科学にいざなった。
1649年、ボイルは科学の実験設備を整え、実験科学に打ち込むようになっていった。1654年には、オックスフォードに移った。ボイルは実験科学に関心のある学者たちのグループを形成した。また、ジョン・ロックとも知り合った。ちなみに、ボイルはオックスフォード大学の正式の学生でも研究員でもなかった。
空気ポンプの実験:画期的な実験
1658年、ボイルはフックらとともに空気ポンプの実験を行った。ボイルは大きなガラス球の精巧で高価な実験装置から空気を排出し、真空状態を作り出した。この装置を使って数々の実験を行った。
ボイルらは空気の性質や真空の不可能性についての伝統的なアリストテレス理論に挑戦した。この一連の実験では、同一の現象を空気のある状態とない状態(=真空状態)で試し、結果が異なるかどうかを試した。
たとえば、次のことを実験で試した。空気のある状態とない状態では、ろうそくの炎はついたままなのか消えるのか。水銀の柱の高さに変化がでるのかどうか。液体の沸騰の仕方に変化はあるのか。動物の呼吸はどうかである。
ボイルの主要な結論はこうである。空気の圧力は、人がこれまで考えてきたよりも多くの現象に影響を及ぼす可能性がある。この一連の実験がボイルの法則の発見につながった。さらに、伝統的なアリストテレス理論の誤りを明らかにすることになった。伝統的な理論は真空の存在を否定していたためである。
ボイルの法則の公表
1661年、ボイルは『懐疑的な化学者』を公刊した。これは古代以来のアリストテレスらの権威的な元素論を批判し、その代わりに近代的な機械論的な粒子論を提唱するものだった。
1662年、ボイルはいわゆるボイルの法則を発表した。これは、一定の温度において、気体の体積はその圧力に反比例して変化するというものである。また、王政復古の果たされたこの時期、ボイルらは上述の学者グループを中心に、ロンドンで王立協会を設立した。
研究上の功績:科学革命への貢献
ここからがボイルの功績として特に重要である。現代の自然科学において、実験室で実験器具を用いて自然に関する真理や事実を確かめるという方法は一般的であり、当然のことだと考えられている。だが、ボイルが生きた400年前のヨーロッパでは、この実験主義の方法は一般的ではなかった。
むしろ、実験主義の方法がヨーロッパで普及され制度化されていったのがこの時期であった。これが科学革命の一つの成果だった。その立役者の一人がボイルだった。
ボイルは実験主義を重視したが、そのパイオニアではなかった。17世紀前半には、イギリス経験論の父といわれるフランシス・ベーコンがこの流れを生み出していった。ボイルはその潮流に属していた(ベーコンについては、「ベーコン」の記事を参照)。
実験主義の導入へ
ボイルは理論を構築する際の実験の重要性を訴えた。当時、自然科学は自然哲学と呼ばれていた。自然的な事実や真理は実験よりも思索や推論によって探求されていた。ボイルは推論が重要な要素であることを否定しない。
だが、体系的な実験と観察を推論より重視すべきと訴えた。よって、自然的事実にかんする理論は実験や観察によって裏付けられ、場合によっては修正される必要がある、と。
そのため、ボイルは実験という方法にこだわった。実験方法の改良にもこだわり続けた。実験結果が想定と異なるものであっても、すなわちネガティブなものであっても、公表すべきだと論じた。
様々な実験を数多く実施してその大量のデータを公表することには、科学発展のための十分な意義があると考えた。ボイル自身はこれらを実行した。実験の作業と比べると、ボイルは実験結果を体系的に総合して理論化する作業には関心が薄かった。この点は同時代の学者たちにも認識されていた。
ボイルはほかのタイプの実験も推奨した。たとえば、特定の理論の正しさを確認するためではないものである。これはむしろ、実験から得られた知見によって、新たな理論を生み出すようなタイプである。
ボイルの実験主義の新しさとは
とはいえ、それまでのヨーロッパにおいても、自然的事実を確かめるために広い意味での実験が行われていた。たとえば、古代ギリシャのアルキメデスの王冠のエピソードがそうだ。
アルキメデスは王冠が金だけで製造されているのか銀も混合されているのかを確かめる方法を探していた。浴槽に入った時に、そこから溢れ出すお湯の量をみて、その方法を思いついたというエピソードである。金と銀の体積の違いを利用して、王冠を水の中にいれることで、それが純粋に金だけでつくられているかを確かめるのである。
ボイルなどの実験主義で新しかったのは、自然的事実を確かめるためだけに専用の空間と大掛かりな器具をつくり用いたことである。すなわち、実験室と実験器具を用いたことである。そのようにして、自然的知識を生み出す体系的な手段として、ボイルたちは体系的で定量的な実験を導入したのだ。
上述の空気ポンプは実験室用の大掛かりな実験器具の最初期の例として知られている。よって、空気ポンプの実験で明らかになったボイルの法則は、実験によって論証された最初の物理法則として知られている。ただし、この実験そのものはボイルではなくフックが行ったと考えられている
実験主義の制度化という貢献:王立協会
ボイルたちの貢献としては、実験主義の手法を制度化したことも挙げられる。上述のように、ボイルたちは実験主義のグループを形成していた。さらに、科学団体として王立協会を設立した。
実験主義の手法が普及し継承されるために、この組織化が重要な役目を担った。このような制度化の試みがなされなければ、ボイルらの死とともに実験主義は定着せず、この世から消え去っていたかもしれない。
もっとも、科学団体の設立には前例があった。17世紀前半のローマのリンチェイ・アカデミーがある。これにはガリレオが所属していた。また、フィレンツェのチメント・アカデミーも存在していた。だが、どちらも50年間も存続しなかった。
イギリスの王立協会については、数学者や医師、天文学者などが、ロンドン市内のグレシャム・カレッジで毎週会合を開くようになった。これが私的な学会として正式に運営されるようになった。
1662年に国王チャールズ2世から勅許状を与えられ、自然科学促進のためのロンドン王立協会となった。かくして、実験主義の制度化が図られていった。
制度化と実験主義の妥当性
この制度化はボイルの実験主義の妥当性それ自体にも影響を与えた。この流れで、ボイルの実験が当時のジェントルマン階級の文化のもとで行われたことが重要だと指摘されている。
ボイルは様々な実験を行った。それぞれの実験は何度も繰り返されず、たいていは一度きり行われた。それにもかかわらず、その実験結果が理論的基礎になりうると考えられた。なぜか。
それは、実験が王立協会の部屋という準公共的な空間で、ジェントルマンたちという知的および政治的に立派とされる人々に「目撃)されたからである。知的および社会的にしっかりした人たちがいわば証人となることで、この一度きりの実験は一般的な「経験」とみなされる。よって、科学的な主張の根拠として利用できると考えられた。
社会的功績:イギリス産業革命の下地
ボイルはこのように自然科学の研究で成果をあげた。それだけではない。研究成果を実業のために応用した。この点もまたボイルや同時代のイギリスの科学者にかんする重要な点である。
たとえば、その実験の成果により、当時の吸引ポンプが約10メートル以上水を上昇させることができない理由も明らかになった。これは運河をより深く掘るような工事において重要である。一見すると些細なことに思われるが、実は当時の大きなニーズに合致していた。
そのニーズとはなにか。当時のヨーロッパの列強国オランダは、現在もそうであるが、多くの運河をもっていた。これはオランダの土地の大部分が海面より低いところにあるためである。
すなわち、運河は常に海から国土へ入り込んでくる水を海へと排出する手段である。この時期のオランダは国土改良事業を推進しており、より深い運河を掘れるようになることが望まれた。そのため、より優れた排水機を欲していた。
ボイルの実験の成果はこのようなニーズに合致た。このような自然科学の研究成果と実業の結びつきは、上述のロンドン王立協会によって促進された。このような伝統と組織がのちのイギリス産業革命の遠因となっていく(より詳しくは、「イギリス産業革命」の記事を参照)。
実験主義にかんしては、こちらの記事も参照。
科学革命との複雑な関係
ボイルの時代はボイル自身も寄与した科学革命の時代だった。ボイルには科学革命への貢献にかんして、評価が割れる側面もある。この点を理解するために、ボイルの錬金術やキリスト教の信仰についてみてみよう。
なお、長らく、錬金術とキリスト教は科学革命を阻害する要因だと考えられてきた。だが、この考え自体が近年になって、修正をうけつつある。この点について、詳しくは「科学革命」の記事を参照。
錬金術
ボイルはニュートンと同様に、錬金術に関心を抱き、実践もしていた。そもそも、当時は錬金術と化学を厳密に区別することが不可能だった。様々な物質を化合などさせて金をうみだすことは、多くの学者たちにとって可能なことだと信じられた。そのための実験も多くなされていた。王権や貴族たちもこれを推進し、あるいは自ら行った。
彼らがこのような実験に利害関心を抱いたことについては詳細な説明は不要かもしれない。だが、少しだけ背景を説明しよう。15世紀以降、ヨーロッパは大航海時代に突入し、世界各地に進出して植民地を形成していった。ヨーロッパ人の大規模な海外進出の一因は、ヨーロッパでの金銀の不足にあった。金銀は遠距離貿易で通貨として利用されたので、その不足は由々しき問題だった。
大航海時代の中で、スペインが中南米の植民地から大量の金銀を、特に銀をヨーロッパにもたらした。その結果、金と銀の価値が逆転した。それまで銀が金より高価だったが、その逆になった。ポルトガルもアフリカで金を入手した。
だが、ボイルのイギリスはこの植民地競争に出遅れていたので、金銀を海外で大量に獲得できなかった。そのため、他の方法で国際通貨としての金を入手できたなら、それは国家にたいする大きな貢献となった。かくして、ボイルは王立協会のメンバーとして、錬金術の可能性を信じ、これに励んでいたのである。
科学革命とキリスト教
ボイルは中世のキリスト教的な世界観が科学革命によって動揺する中でも、キリスト教を信仰し続けた。ボイルは敬虔なキリスト教徒であった。だが、盲目的なキリスト教徒ではなかった。
たとえば、同時代の一般的なキリスト教徒の状況にたいして批判的だった。ボイルからすれば、一般的なキリスト教徒はただ親や教師などがたまたまキリスト教徒だったからキリスト教を信じているにすぎない。しかし、キリスト教徒は自覚的にキリスト教について深く知らなければならない。
とはいえ、科学革命や新しい哲学の潮流によって、従来とは異なる新たな論点がキリスト教にかんしても生じてきた。ボイルはこのような中で宗教的著作も多く公刊した。たとえば、ボイルはキリストの奇蹟を信じた。
奇蹟こそ、他の宗教ではなくキリスト教を信じるべき理由とみなした。さらに、神による世界の創造を事実として信じた。無神論に反対し、新たな自然科学とキリスト教の調和的な関係を模索した。
ボイルは1691年に病没した。遺言で、遺産を用いて上述の調和的関係のための「ボイル講演」を設立した。
ボイルと縁のある人物や事物
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ボイルの肖像画
ボイルの主な著作・作品
『懐疑的な化学者』 (1661)
『有徳なキリスト教徒』(1690)
おすすめ参考文献
金森修編『科学思想史』勁草書房, 2010
Jan-Erik Jones(ed.), The Bloomsbury companion to Robert Boyle, Bloomsbury Academic, 2020
Teich Mikuláš, The Scientific Revolution Revisited, Open Book Publishers, 2015
Michael Hunter, Boyle : between God and science, Yale University Press, 2010