アレクサンデル6世はローマ教皇(1431-1503)。本名はロドリゴ・デ・ボルハ。聖職者の道を進み、叔父の庇護で出世した。1492年に教皇になった。大航海時代やイタリア戦争などと深いかかわりを持った。アレクサンデルは敵が多かったため、彼の評価は単純に真っ黒に塗りつぶされる傾向にある。だが、これからみていくように、彼の人柄と功績はそれほど単純なものではなかった。
アレクサンデルの生涯を通して、スペインが16世紀に世界帝国へと発展していくための基礎をいかにして形成したかが理解できる。さらに、16世紀の教皇が国際政治の舞台で主要な政治プレーヤーの一人としていかに重要な影響力を行使していたかが理解できる。
アレクサンデル6世の生涯
ロドリゴ・デ・ボルハはスペインのバレンシア地方で貴族の家庭に生まれた。幼くして父を亡くしたので、一家は叔父のアルフォンソ・デ・ボルハ司教のもとに移った。
ロドリゴはこの叔父のもとで聖職者の道を志した。叔父はまもなく枢機卿に昇進し、ロドリゴのキャリア形成を後押しした。ロドリゴは法学を学んだ。1455年、この叔父が教皇カリクトゥス3世として教皇に即位した。カリクトゥスは一層ロドリゴを後押ししていく。
ロドリゴはイタリアのボローニャ大学に移り、学問を続けた。1456年には博士号をえた。
カリクトゥスはロドリゴとその兄弟を教会のキャリアで昇進させていった。このような縁故主義は批判を惹起した。他方で、ロドリゴは法学的才能の高さを認められてもいた。
教会での出世
1456年、ロドリゴはアンコナ地方の平定のためにカリクトゥスによって派遣され、この任務をこなした。そのため、1457年には、教皇軍の指揮官に任命された。当時の教皇は教皇国の世俗君主でもあり、独自の軍隊をもっていた。
ロドリゴはその他の教会での役職もつとめた。様々な経験をしながら、多くの特典も獲得して、財産を蓄えていった。1458年には、故郷のバレンシア司教になった。同年、カリクトゥスが没した。
ロドリゴは次第に官能的で豪勢な生活を始めた。1468年頃から子どもがうまれていく。1480年頃には、数名の子どもが生まれたのが確認されている。聖職者は基本的に妻帯を禁止されていた。
ロドリゴは宮殿に居を構え、常に多くの取り巻きとともに住んでいた。ロドリゴ自身が叔父によって縁故主義で出世したように、ロドリゴ自身も親族などの出世を後押しした。
スペインの後継者問題
1472年、ロドリゴは混乱していたスペインに教皇特使として派遣された。当時、スペインはまだ統一された国家ではなかった。カスティーリャやアラゴンといった複数の国がイベリア半島に存在していた。
カスティーリャはイサベル1世が女王として継承し、アラゴンはフェルディナント2世が即位し、両者が結婚することで、スペインという国ができあがることになる。だが、1472年はそれ以前のスペインの政治的危機と不安定の時期であり、後継者争いが生じていた。
その問題のために、ロドリゴはスペインに派遣された。ロドリゴはイサベルを後継者として支持し、彼女とフェルディナントの結婚を支持した。その見返りとして、ロドリゴはオスマン帝国への十字軍の資金援助を彼らから受けた。
その後も、ロドリゴはアルバーノやポルトなどの様々な地域の司教に任命された。司教に任命されたとしても、その地域に司教として赴任したわけではなかった。司教としての収入をえて、財産を増やしていった。
教皇の即位
1492年、教皇インノケンティウス 8世が没した。教皇選挙が行われた。ロドリゴは買収や親族の枢機卿の支援により、教皇選挙で勝利した。教皇アレクサンデル6世として即位した。もっとも、当時の政治状況もまたこの勝利に寄与したといえるだろう。
イタリアはオスマン帝国の進出に脅威を感じており、教皇庁は十字軍を呼びかけようとしていた。スペイン王夫妻はイベリア半島でレコンキスタを完遂したばかりだった。すなわち、700年以上かけてイスラム教徒を戦争で追放するという事業を完遂したばかりだった。ロドリゴはスペイン王夫妻と特別なコネクションをもっていたのである。
アレクサンデルは教会ko改革のプランを作成させた。だが、これが教皇の権威を削減する可能性がでてきたこともあり、ほとんど実行しなかった。ただし、スペインなどで生じた教会改革の試みを支援した。
また、アレクサンデルは信仰心を欠いた俗物のように描かれることが多いが、実際は信仰心を保っていたようだ。特に、聖母マリア崇拝に傾倒していた。
大航海時代との関わり:アレクサンデルの教書「インテル・カエテラ」
1493年、アレクサンデルはスペイン王にたいして、教書を発布した。この公文書は大航海時代において重要な役割を果たす。
その背景として、15世紀初頭、ポルトガルとスペインが大航海時代に突入した。エンリケ航海王子らがアフリカ大陸の西海岸の探検航海を推し進めた。スペインとポルトガルは競争し、15世紀後半にはこれまで到達したことのないアフリカ大陸の南部へと進んでいった。
1492年、スペイン王は上述のようにレコンキスタを完遂した後、コロンブスのインド航海事業を採択し、出資した。コロンブスがインドへ向けて出発し、意図せず、アメリカに到達した。新世界の「発見」である。
コロンブスはスペインに戻り、その成果をスペイン王に報告した。スペイン王がアレクサンデルに依頼し、上述の教書を彼から得た。
この教書では、教皇はスペイン王に、一定の発見された土地と今後発見される土地の領有権を与えると宣言した。その土地とは、アゾレス諸島の西100リーグに設定された境界線を越えた土地である。事実上、主にアメリカを指す。
教皇がこれらの土地をスペイン王に与えるとは、どういうことか。教皇庁の理論では、教皇はこの世界全体の皇帝のような存在だとされた。よって、アメリカのまだ発見されていない土地であろうと、その領有権をもつとされた。
アレクサンデルはこの教書によって、その領有権をスペイン王に与えた。そのかわりに、スペイン王に宣教活動を義務付けた。アレクサンデルはキリスト教を弘めるのに熱意をもっていた。
スペイン王はポルトガルとの植民地競争の中で、コロンブスの発見した新世界の領有権を確保しようとした。そのために、教皇の権威を利用した。このような試みは大航海時代に入ってから、ポルトガルとスペインが繰り返してきたことだった。お互いが新たに到達した地域の領有権を教皇に認めてもらおうとしてきた。アレクサンデルの教書はその一環であった。
ちなみに、ポルトガルはアレクサンデルの教書に不満をもったので、スペインと直接再交渉した。そのため、両国の植民地の境界線は変更された。だが、アレクサンデルの教書は重要であり続けた。
たとえば、イギリスやフランスなどが後にスペインとポルトガルの植民地に進出してきた時、スペインとポルトガルが植民地の独占を正当化する根拠としてこれを利用し続けた。
なお、アレクサンデルはのちに、スペイン王夫妻に「カトリック両王」の称号を与えた。このような称号の授与自体は当時において珍しくなかった。
イタリア戦争へ
アレクサンデルは即位当初、イタリアの平和とキリスト教世界の団結を推し進めると宣言した。多くの人たちはアレクサンデルの政治家としての資質を高く評価していたので、彼の教皇としての働きぶりに期待した。
だが、アレクサンデルは早速ナポリ王と対立した。そのために、フランス王シャルル8世や、ミラノとヴェネチアと同盟の交渉を行った。そのために親族の婚姻政策を利用した。
だが、スペイン王夫妻はナポリからの要請などにより、アレクサンデルの反ナポリ政策を止めようとした。そこで、夫妻はアレクサンデルの有名な息子チェーザレ・ボルジアにバレンシア司教の地位を与えるなどの提案をした。
アレクサンデルはその提案を受け入れた。アレクサンデルはナポリへの敵対を止め、教皇庁とナポリそしてフィレンツェの良好関係を確認した。
アレクサンデルはナポリの味方をするようになった。だが、フランス王シャルル8世がナポリ王の後継者を自認し、1494年にナポリに進軍した。これがイタリア諸侯との戦争を惹起した。イタリア戦争の始まりである。ヴェネチアやスペイン、教皇や神聖ローマ皇帝がシャルル8世と戦い、撃退した。
アレクサンデルはさらに、イングランドなどをこの同盟に引き込もうとして、部分的に成功した。アレクサンデルはフランスの領土に追撃した。フランスに奪われていた教皇領の奪還を試みた。1497年にオスティアを奪還できた。
その後も、アレクサンデルは政略結婚などでナポリとの関係をかためて安定化させ、イタリアの秩序の維持を目指した。
サヴォナローラとの対立と処刑
このようなイタリアでの政情の変化はアレクサンデルへの批判と結びついた。フィレンツェでは、長らくメディチ家が実質的に支配していた。だが、1490年頃、メディチ家批判として、修道士サヴォナローラが台頭してきた。
彼はメディチ家の腐敗を批判した。フィレンツェに救世主がやってくると予言した。1494年に上述のシャルル8世がフィレンツェに進撃した。サヴォナローラは預言者として人気が高まり、メディチ家を追い出して、フィレンツェで実権を握った。
サヴォナローラはフィレンツェの政治や習俗などの改革を推進した。従来の教会をも貪欲や贅沢などとして痛烈に批判した。その一環で、アレクサンデルをも批判した。
アレクサンデルは彼に説教を禁じた。サヴォナローラは当初これに従ったが、すぐに批判的な説教を再開した。アレクサンデルへの批判を強めた。アレクサンデルは彼を破門にした。
だが、サヴォナローラは屈しなかった。一方的に不利だったわけでもない。むしろアレクサンデルに対抗するようキリスト教の君主たちに訴えた。アレクサンデルが買収によって教皇の職を獲得したとして、アレクサンデルを退位させようと活動した。アレクサンデルと敵対していたフランス王の強力を得ようとした。
だが、サヴォナローラは次第にフィレンツェで人気を失っていった。アレクサンデルは彼の政敵たちを利用して、彼を逮捕させた。1499年、サヴォナローラは死刑となった。
オスマン帝国への十字軍
1499年、オスマン帝国は東ヨーロッパに進撃を開始した。15世紀後半に勢力を拡大したオスマン帝国にたいして、歴代の教皇は脅威を感じていた。その脅威がこのような形で現実になったため、アレクサンデルは防衛のために十字軍を組織した。
外交使節をキリスト教の諸君主に派遣した。1500年、スペインとヴェネチアと教皇の軍がオスマン帝国との戦いで、ギリシア付近で部分的な勝利を収めた。だが、オスマン帝国はここから優勢になっていく。
教皇国の確立
この時期の政情は変化しやすかった。アレクサンデルはスペイン王夫妻の拡張主義を抑え込もうとした。そのために、フランス王ルイ12世に接近した。アレクサンデルはチェーザレ・ボルジアに教皇軍を指揮させ、イタリアのロマーニャ地方などを征服させた。フランス王がこれを支援した。
アレクサンデルは1500年、チェーザレを教皇軍の将軍にした。さらに、1501年、征服した地域をロマーニャ公国として設立し、チェーザレに与えた。他の地域を別の公国として設立し、息子たちに委ねた。さらに、教皇国に新しい要塞を構築し、防備を固めた。ヴァチカンの有名なサンタンジェロ城もその一つである。
教皇庁や教皇国での政治は、教皇と少数の側近からなる小さな委員会にますます集中するようになった。アレクサンデルの親族や従者、銀行家などによる委員会である。そこには、教皇軍の将軍も含まれ、そこにチェーザレが任命されていた。
ちなみに、アレクサンデルは文化のパトロンもつとめた。彼の宮廷には、ジョスカン・デ・プレのような著名な音楽家も活躍した。
最晩年
1503年4月、スペインはナポリの征服に成功した。アレクサンデルは両者の戦いで中立を保とうとした。だが、この勝利の確定により、アレクサンデルはスペイン王夫妻と和解することを決めた。
同年8月、アレクサンデルは病没した。
アレクサンデル6世と縁のある人物
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アレクサンデル6世の肖像画
おすすめ参考文献
G.バラクロウ『中世教皇史』藤崎衛訳, 八坂書房, 2021
Gianvittorio Signorotto(ed.), Court and politics in papal Rome, 1492-1700, Cambridge University Press, 2011
Pierre Hurtubise, La cour pontificale au XVIe siècle d’Alexandre VI à Clement VIII (1492-1605), Biblioteca Apostolica Vaticana, 2017