イサベル1世:スペイン黄金時代の幕開け

 イサベル1世はスペインの女王(1451ー1504)。スペインの黄金時代の基礎を築いたことで知られる。アラゴン王と結婚することで、はじめてスペインと呼べるような国を誕生させた。700年以上にわたるレコンキスタの完了、コロンブスのアメリカ「発見」、スペインからのユダヤ人とイスラム教徒の追放などを行った。これからみていくように、時代の大きな転換期を生きた女王である。 イサベルの生涯を知ることで、スペインがどのようにしてこれほどの黄金時代に突入していったかを知ることができる。


イサベル1世(Isabel I de Castilla)の生涯

 イサベルはカスティーリャ国王フアン2世の娘として生まれた。当時、イベリア半島の大部分を占めるようなスペインと呼べるような単一の国は形成されていなかった。
 そのかわりに、イベリア半島にはカスティーリャやアラゴンのような王国が存在していた。フアン2世の死後、異母兄のエンリケ4世がカスティーリャ王に即位した。

 イサベルは当初、将来女王に即位すると期待されていなかった。政治に関与せず、静かに暮らしていた。様々な教育を受け、敬虔な少女として育った。だが、カスティーリャ内での政争に巻き込まれ、宮廷で監視下に置かれるようになった。

フェルディナントとの結婚:二人の仲とは

 イサベルはカスティーリャの王位継承権を持っていたので、政略結婚を望む者が多かった。様々な候補者の名が挙がった。
 そのような中で、イザベルはアラゴンの王子フェルナンドの名前を第一に挙げていた。だが、カスティーリャにたいするアラゴンの影響力の増大を恐れた貴族たちによって、当初は反対された。
 その後も、イサベルの政略結婚の相手探しは続いた。アルフォンソ5世との結婚案がでた。だが、これはカスティーリャに不利と思われたので、却下された。
 イサベルは当初のフェルディナントの案を断行することを決めた。反対を避けるために、フェルディナントとの結婚を内密に決めた。
 1469年、フェルディナンドがひそかにカスティーリャに入って、バリャドリードで結婚した。この結婚への反対に対処するために、ローマ教皇庁の支援をえた。

 カスティーリャ女王への即位

 1474年、エンリケ4世が没した。イサベルはカスティーリャ女王への即位を宣言した。だが、これへの反乱が生じた。1480年頃に、ようやく反乱を鎮定できた。
 1479年に夫がアラゴン王フェルディナンド2世に即位した。よって、アラゴンとカスティーリャが結合し、スペインと呼ばれるような国が形成された。
 アラゴンの貴族たちは女性が王になることに反対していた。それへの対処として、イサベルはフェルディナントに自身と同等の王権を認めた。
 そのため、イサベルはフェルディナンドとともに重要な決定を下していくことになる。両者は互いに役割分担をしながら、協力し合ってスペインを統治することになる。 

 1480年、イサベルはカスティーリャの法典の制作を決定した。これにより、王権の確立を目指した。通貨の安定にも着手した。

 イサベルの治世で行われたこととして、主に三点挙げられる。レコンキスタやユダヤ人追放、アメリカ発見である。

 レコンキスタの完遂:グラナダの陥落

 イサベルの治世の特徴として、まずレコンキスタの完了が挙げられる。レコンキスタは8世紀から始まった。
 これは、それまでにイベリア半島に進出していたイスラム勢力を追い返そうとするキリスト教徒の再征服運動である。13世紀には大きく進展した。だが、スペイン南部のグラナダがイスラム支配地として残った。

 イサベルとフェルディナントはグラナダ攻略のために、近くのコルドバに居を移した。攻略を続け、ついに、グラナダは1492年の初頭に陥落した。イベリア半島からイスラムの政権が消滅し、レコンキスタが完了された。

 ユダヤ教徒とイスラム教徒の追放 

 イサベルたちは国内の宗教問題に着手した。イサベルからすれば、キリスト教の信仰が全ての自国民によって共有されることで、スペインの統一性は確保される。それゆえ、当時のスペインに住んでいたユダヤ教徒とイスラム教徒が問題となった。

 この点でイサベルにかんして悪名高いのは、キリスト教に改宗したユダヤ人やイスラム教徒の追放である。それぞれをみていこう。

ユダヤ人の追放の背景

 中世のスペインでは、ユダヤ教やイスラム教とキリスト教の共存が図られた時期もあった。ユダヤ人はいずれキリスト教徒に改宗するだろうと楽観的に考えられ、この意味で潜在的なキリスト教徒とみなされた。
 だが、14世紀には、状況が次第に悪化していった。この頃、スペインはペストや戦争などで深刻な危機に陥った。このような危機の中で、ユダヤ人のイメージも変わった。
 ユダヤ人は高利貸しとしてキリスト教徒から金を奪い取るとか、井戸に毒物を投げ込んでペストを発症させるイスラム教の同盟者だとか、キリストを殺害した神殺しの民だとかいわれるようになった。
 スペインでの反ユダヤ主義は行動に移されるようになる。14世紀末には、セビーリャでユダヤ人への強制改宗が行われた。15世紀半には、コンベルソ(ユダヤ教からキリスト教徒に改宗した人物)は都市や宮廷そして大学や教会で職を得られないよう定められた。
 15世紀なかばには、ユダヤ人の追放や異端審問所の設立を求める動きが強まっていった。特に、ユダヤ人がキリスト教徒に偽装改宗するケースが問題視された。

ユダヤ人の追放

 そこで、イサベル1世は教皇シクストゥス4世との交渉の結果、様々な権限をえた。

 1480年、スペインにイサベルは異端審問所を導入した。王が異端審問官たちのトップであり、個別に異端審問官を任命することができるようになった。よって、これはローマ教皇庁の異端審問所ではなくスペイン王権の異端審問所として認識されている。

 実際に、スペイン全体に共通する制度がほとんど存在しなかったこの時代において、異端審問所は異端対策という口実で王権を伸長する手段として機能していく。
 1492年、イサベルはついにユダヤ人にたいして、4ヶ月以内の改宗か追放の二択を迫った。10万人ほどのユダヤ人がスペインを離れ、ポルトガルやオスマン帝国へと逃れた。

イスラム教徒の追放

 イサベルは同様の試みをグラナダのイスラム教徒にも行った。グラナダでキリスト教の確立を目指した。グラナダが陥落したとはいえ、その多くの住民はイスラム教徒だった。
 敬虔なイサベルはこの街を再びキリスト教の色で染め上げようとしたのだ。ローマ教皇庁がこれを支援した。この政策が暴力を伴うようになったため、グラナダで反乱が生じた。

 1501年、イサベルはスペインでイスラム教を禁止し、イスラム教徒にはキリスト教への改宗か移住かを迫った。
 とはいえ、実質的には移住の選択肢をとるのが難しくなるよう条件を設定した。イスラム教徒は地域によっては重要な労働力だったためである。

イタリア戦争

 イサベルとフェルディナンドには、イスラム教徒をめぐる別の懸念もあった。オスマン帝国などとの地中海周辺での対決である。
 特に、フェルディナンドのアラゴン王国はそれまで地中海をわたってイタリア南部やアフリカ北部と深いつながりをもっていた。フェルディナンドはこれらへの権益を保持しようとしていた。

 だが、1494年末、フランスのシャルル8世がナポリの相続権を主張し、進軍を開始した。これがきっかけとなり、イタリア戦争が始まった。スペインもこれに多くの人的・資金的な資源を費やすことになる。

 コロンブスのアメリカ「発見」と植民地建設

 イサベルの他の重要な点として、コロンブスのインド航海への公的支援が挙げられる。コロンブスは香辛料などを求めてインド航海事業をイサベルとフェルディナントに提案した。
 イサベルはこの提案を委員会の諮問にかけた。長らく、コロンブスは好意的な返答をえられなかった。そのため、イギリスにも同様の事業を提案した。

 紆余曲折を経て、レコンキスタの完了後、1492年、スペイン王権はコロンブスの提案を受け入れ、彼に様々な権限と資金を提供した。同年、コロンブスはスペインを出発した。
 だがインドではなくアメリカに到達した。その結果、中南米でのスペイン帝国の礎が築かれていく。コロンブスによる成功を受けて、スペイン人たちが立身出世や金銀財宝を求めてアメリカへと大量に押し寄せるようになる。
 そこで、スペイン王権は人流と物流を管理するため、1503年、スペイン本国での輸出港をセビーリャに限定した。すなわち、スペインとアメリカの貿易をセビーリャに限定したのである。

 セビーリャに通商院を新設した。通商院において、人・モノ・カネの移動の管理を行った。さらに、遠洋航海に必要な海図・地図の作成、航海士の育成なども進める。
 かくして、セビーリャがスペインの大航海時代の中心地として発展していく。16世紀のスペインの中でも、特に発展した都市となる。

 

 イサベルの死

 イサベルとフェルディナンドはレコンキスタや宗教政策などにより、教皇アレクサンデル6世から、「カトリック両王」の称号を得ることになった。1504年、イサベルは後継者問題に頭を悩ませながら、没した。

 死の直前、イサベルはフェルディナントのことを「スペインの最高の王」と呼んだそうである。それほどフェルディナントと深く結びついた生涯だった。

イサベル1世と縁のある場所:グラナダのアルハンブラ宮殿

 上述のように、グラナダはレコンキスタの最後の都市である。イスラム王権が居城としていたアルハンブラ宮殿が有名であり、現在では人気の観光スポットになっている。宮殿の建築や庭園などでアラビア芸術を鑑賞することができる。

 また、アルハンブラ宮殿はイサベルたちがコロンブスの航海事業に承認を与えた場所でもあった。イサベルたちがグラナダを陥落させた後、アルハンブラ宮殿に居を移した。
 そのタイミングで、コロンブスが宮殿を訪れ、再び航海事業を彼らに提案したという流れだ。よって、アルハンブラ宮殿はスペインがイベリア半島の再征服からアメリカの征服へと切り替えた画期的な場所だったともいえる。

イサベル1世の肖像画

おすすめ参考文献

立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社, 2022

Barbara F. Weissberger, Queen Isabel I of Castile : power, patronage, persona, Tamesis, 2008

Peggy K. Liss, Isabel the Queen : life and times, University of Pennsylvania Press, 2004

 イサベル1世はスペインの女王(1451ー1504)。スペインの黄金時代の基礎を築いたことで知られる。アラゴン王と結婚することで、はじめてスペインと呼べるような国を誕生させた。700年以上にわたるレコンキスタの完了、コロンブスのアメリカ「発見」、スペインからのユダヤ人とイスラム教徒の追放などを行った。これからみていくように、時代の大きな転換期を生きた女王である。

イサベル1世(Isabel I de Castilla)の生涯

 イサベルはカスティーリャ国王フアン2世の娘として生まれた。当時、イベリア半島の大部分を占めるようなスペインと呼べるような単一の国は形成されていなかった。そのかわりに、イベリア半島にはカスティーリャやアラゴンのような王国が存在していた。フアン2世の死後、異母兄のエンリケ4世がカスティーリャ王に即位した。

 イサベルは当初、将来女王に即位すると期待されていなかった。政治に関与せず、静かに暮らしていた。様々な教育を受け、敬虔な少女として育った。だが、カスティーリャ内での政争に巻き込まれ、宮廷で監視下に置かれるようになった。

フェルディナントとの結婚:二人の仲とは

 イサベルはカスティーリャの王位継承権を持っていたので、政略結婚を望む者が多かった。様々な候補者の名が挙がった。そのような中で、イザベルはアラゴンの王子フェルナンドの名前を第一に挙げていた。だが、カスティーリャにたいするアラゴンの影響力の増大を恐れた貴族たちによって、当初は反対された。
 その後も、イサベルの政略結婚の相手探しは続いた。アルフォンソ5世との結婚案がでた。だが、これはカスティーリャに不利と思われたので、却下された。イサベルは当初のフェルディナントの案を断行することを決めた。反対を避けるために、フェルディナントとの結婚を内密に決めた。
 1469年、フェルナンドがひそかにカスティーリャに入って、バリャドリードで結婚した。この結婚への反対に対処するために、ローマ教皇庁の支援をえた。

 カスティーリャ女王への即位

 1474年、エンリケ4世が没した。イサベルはカスティーリャ女王への即位を宣言した。だが、これへの反乱が生じた。1480年頃に、ようやく反乱を鎮定できた。1479年に夫がアラゴン王フェルディナンド2世に即位した。よって、アラゴンとカスティーリャが結合し、スペインと呼ばれるような国が形成された。
 アラゴンの貴族たちは女性が王になることに反対していた。それへの対処として、イサベルはフェルディナントに自身と同等の王権を認めた。そのため、イサベルはフェルディナンドとともに重要な決定を下していくことになる。両者は互いに役割分担をしながら、協力し合ってスペインを統治することになる。 

 1480年、イサベルはカスティーリャの法典の制作を決定した。これにより、王権の確立を目指した。通貨の安定にも着手した。

 イサベルの治世で行われたこととして、主に三点挙げられる。レコンキスタやユダヤ人追放、アメリカ発見である。

 レコンキスタの完遂:グラナダの陥落

 イサベルの治世の特徴として、まずレコンキスタの完了が挙げられる。レコンキスタは8世紀から始まった。これは、それまでにイベリア半島に進出していたイスラム勢力を追い返そうとするキリスト教徒の再征服運動である。13世紀には大きく進展した。だが、スペイン南部のグラナダがイスラム支配地として残った。

 イサベルとフェルディナントはグラナダ攻略のために、近くのコルドバに居を移した。攻略を続け、ついに、グラナダは1492年の初頭に陥落した。イベリア半島からイスラムの政権が消滅し、レコンキスタが完了された。

 ユダヤ教徒とイスラム教徒の追放 

 イサベルたちは国内の宗教問題に着手した。イサベルからすれば、キリスト教の信仰が全ての自国民によって共有されることで、スペインの統一性は確保される。それゆえ、当時のスペインに住んでいたユダヤ教徒とイスラム教徒が問題となった。

 この点でイサベルにかんして悪名高いのは、キリスト教に改宗したユダヤ人やイスラム教徒の追放である。それぞれをみていこう。

ユダヤ人の追放とその背景

 中世のスペインでは、ユダヤ教やイスラム教とキリスト教の共存が図られた時期もあった。ユダヤ人はいずれキリスト教徒に改宗するだろうと楽観的に考えられ、この意味で潜在的なキリスト教徒とみなされた。
 だが、14世紀には、状況が次第に悪化していった。この頃、スペインはペストや戦争などで深刻な危機に陥った。このような危機の中で、ユダヤ人のイメージも変わった。ユダヤ人は高利貸しとしてキリスト教徒から金を奪い取るとか、井戸に毒物を投げ込んでペストを発症させるイスラム教の同盟者だとか、キリストを殺害した神殺しの民だとかいわれるようになった。
 スペインでの反ユダヤ主義は行動に移されるようになる。14世紀末には、セビーリャでユダヤ人への強制改宗が行われた。15世紀半には、コンベルソ(ユダヤ教からキリスト教徒に改宗した人物)は都市や宮廷そして大学や教会で職を得られないよう定められた。
 15世紀なかばには、ユダヤ人の追放や異端審問所の設立を求める動きが強まっていった。特に、ユダヤ人がキリスト教徒に偽装改宗するケースが問題視された。そこで、イサベル1世は教皇シクストゥス4世との交渉の結果、様々な権限をえた。

 1480年、スペインにイサベルは異端審問所を導入した。王が異端審問官たちのトップであり、個別に異端審問官を任命することができるようになった。よって、これはローマ教皇庁の異端審問所ではなくスペイン王権の異端審問所として認識されている。

 実際に、スペイン全体に共通する制度がほとんど存在しなかったこの時代において、異端審問所は異端対策という口実で王権を伸長する手段として機能していく。
 1492年、イサベルはついにユダヤ人にたいして、4ヶ月以内の改宗か追放の二択を迫った。10万人ほどのユダヤ人がスペインを離れ、ポルトガルやオスマン帝国へと逃れた。

イスラム教徒の追放

 イサベルは同様の試みをグラナダのイスラム教徒にも行った。グラナダでキリスト教の確立を目指した。グラナダが陥落したとはいえ、その多くの住民はイスラム教徒だった。敬虔なイサベルはこの街を再びキリスト教の色で染め上げようとした。ローマ教皇庁がこれを支援した。この政策が暴力を伴うようになったため、グラナダで反乱が生じた。

 1501年、イサベルはスペインでイスラム教を禁止し、イスラム教徒にはキリスト教への改宗か移住かを迫った。とはいえ、実質的には移住の選択肢をとるのが難しくなるよう条件を設定した。イスラム教徒は地域によっては重要な労働力だったためである。

イタリア戦争

 イサベルとフェルディナンドには、イスラム教徒をめぐる別の懸念もあった。オスマン帝国などとの地中海周辺での対決である。特に、フェルディナンドのアラゴン王国はそれまで地中海をわたってイタリア南部やアフリカ北部と深いつながりをもっていた。フェルディナンドはこれらへの権益を保持しようとしていた。

 だが、1494年末、フランスのシャルル8世がナポリの相続権を主張し、進軍を開始した。これがきっかけとなり、イタリア戦争が始まった。スペインもこれに多くの人的・資金的な資源を費やすことになる。

 コロンブスのアメリカ「発見」と植民地建設

 他に、コロンブスのインド航海への公的支援が挙げられる。コロンブスは香辛料などを求めてインド航海事業をイサベルとフェルディナントに提案した。イサベルはこの提案を委員会の諮問にかけた。長らく、コロンブスは好意的な返答をえられなかった。そのため、イギリスにも同様の事業を提案した。

 紆余曲折を経て、レコンキスタの完了後、1492年、スペイン王権はコロンブスの提案を受け入れ、彼に様々な権限と資金を提供した。同年、コロンブスはスペインを出発した。だがインドではなくアメリカに到達した。その結果、中南米でのスペイン帝国の礎が築かれていく。

 コロンブスによる成功を受けて、スペイン人たちが立身出世や金銀財宝を求めてアメリカへと大量に押し寄せるようになる。そこで、スペイン王権は人流と物流を管理するため、1503年、スペイン本国での輸出港をセビーリャに限定した。すなわち、スペインとアメリカの貿易をセビーリャに限定したのである。

 セビーリャに通商院を新設した。通商院において、人・モノ・カネの移動の管理を行った。さらに、遠洋航海に必要な海図・地図の作成、航海士の育成なども進める。かくして、セビーリャがスペインの大航海時代の中心地として発展していく。16世紀のスペインの中でも、特に発展した都市となる。

 

 イサベルの死

 イサベルとフェルディナンドはレコンキスタや宗教政策などにより、教皇アレクサンデル6世から、「カトリック両王」の称号を得ることになった。1504年、イサベルは後継者問題に頭を悩ませながら、没した。

 死の直前、イサベルはフェルディナントのことを「スペインの最高の王」と呼んだそうである。それほどフェルディナントと深く結びついた生涯だった。

☆イサベル1世のスペイン観光・旅行地:グラナダのアルハンブラ宮殿

 イサベル1世に関する歴史情緒溢れる観光地としては、スペインのグラナダのアルハンブラ宮殿がおすすめだ。上述のように、グラナダはレコンキスタの最後の都市である。イスラム王権が居城としていたアルハンブラ宮殿が有名であり、現在では人気の観光スポットになっている。宮殿の建築や庭園などでアラビア芸術を鑑賞することができる。

 また、アルハンブラ宮殿はイサベルたちがコロンブスの航海事業に承認を与えた場所でもあった。イサベルたちがグラナダを陥落させた後、アルハンブラ宮殿に居を移した。そのタイミングで、コロンブスが宮殿を訪れ、再び航海事業を彼らに提案したという流れだ。よって、アルハンブラ宮殿はスペインがイベリア半島の再征服からアメリカの征服へと切り替えた場所だったともいえる。

現在のアルハンブラ宮殿の動画(画像をクリックすると始まります)

 イサベル1世と縁のある人物

●コロンブス:イサベルのもとでアメリカを発見したイタリアの航海士。イサベルから航海事業の支援をうけるまでには多大な困難があった。スペイン以外にも、あの国にも同じ事業を打診していた。

●カルロス1世:イサベルの死後、スペインの本格的な発展に寄与したスペイン王。神聖ローマ皇帝カール5世でもある。スペインはイサベルの後、どのような時代を迎えたのだろうか。

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イサベル1世の肖像画

イサベル1世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社, 2022

Barbara F. Weissberger, Queen Isabel I of Castile : power, patronage, persona, Tamesis, 2008

Peggy K. Liss, Isabel the Queen : life and times, University of Pennsylvania Press, 2004

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