カール5世(カルロス1世):近世ハプスブルク帝国の覇者

 カール5世は神聖ローマ皇帝でスペイン国王(1500ー1558)。スペイン王としてはカルロス1世で、ハプスブルク家の出身。ドイツでルターの宗教改革に対抗し、ネーデルラント(現在のベネルクス)の支配を確立し、東欧や地中海エリアでオスマン帝国のスレイマン大帝と戦い、南・中央アメリカに広大なスペイン帝国を構築した。フランソワ1世とはイタリア戦争を行い、その最中にローマ劫掠が生じた。
 カール5世は16世紀前半のヨーロッパ史の中心にいたため、その生涯と事績を知ることで、この時代の主要な出来事のそれぞれの関係性を理解することもできる。

カール5世(Karl V / Carlos I)の生涯

 カールは現在のベルギーのヘントで生まれた。父はブルゴーニュ公のフィリップで、母はスペイン王女フアナである。祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世である。
 カールは近隣のメヘレンの宮廷で育てられた。当時の貴族と同様、宮廷では主にフランス語が使われていたので、カール自身もフランス語を話した。

 スペイン国王としての即位:カルロス1世


 スペインでカールは王位継承者として浮上してきた。母フアナは精神に病気をきたしたと考えられ、女王として行動できないとみなされた。そこで、1516年、カールがカルロス1世としてスペイン国王に即位した。

 形式的には、母フアナとの共同統治であった。1517年、カールはスペインに到来した。カスティーリャやアラゴンの議会から王として迎えられた。

 中南米の植民地建設と世界一周の事業

 スペインは15世紀末にコロンブスが新世界を「発見」してから、アメリカ征服を開始していた。カールがスペイン王に即位してから、スペインはアメリカ大陸への征服と植民の活動を本格化させていった。

アステカ帝国とインカ帝国の征服


 たとえば、1519−21年、エルナン・コルテスがメキシコのアステカ帝国を征服した。1531−33年、ピサロがペルーのインカ帝国を征服した。これら二大帝国は中南米の主要な文明である。

 これらの帝国は大量の金銀財宝を所有していた。スペイン人はこれらの金銀を奪った。その一部がスペイン本国に移された。
 より多くのスペイン人が立身出世や金銀財宝を求めて中南米へ進出していく。彼らは黄金郷を求めてアメリカ大陸を探検した。その結果、中南米の地理情報が徐々に把握されていった。

 かくして、カールが没するまでには、中南米の主要な地域がスペインの支配下に置かれることになる。その過程で、多くの先住民がヨーロッパ伝来の伝染病や戦争で命を落とした。
 ほかにも、マゼランが1519年から東南アジアの香辛料貿易のためにスペインを出発した。マゼラン一行は初めて世界一周を果たした。カールは東アジアでの植民地獲得競争において、当初、ポルトガルと競った。

 ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達し、香辛料貿易を始めていた。カールはポルトガル王との交渉により、東アジアからはひとまず撤退することを決めた。

 神聖ローマ帝国の皇帝へ:フランソワ1世との確執


 1519年、コルテスが上述のようにアステカ征服を開始した年に、カールの祖父のマクシミリアン1世が没した。
 当時、皇帝の地位は選挙によって決められた。そこで、同年、カールはフランス国王フランソワ1世と皇帝選挙で競った。ドイツのフッガー家などから資金援助を受けながら、カールは皇帝選挙で勝利した。
 1520年、ドイツのアーヘンで皇帝カール5世として戴冠した。だが、この選挙戦での敗北を一因として、後述のように、フランソワ1世はカール5世と戦争を繰り広げることになる。

 ドイツの宗教改革:ルターの台頭

 1517年、ドイツではルターが宗教改革を開始した。カール5世はカトリックの守護者を自認していた。ルターはすでに異端的として自説の撤回を求められていた。
 1521年、カールはヴォルムス帝国議会を開き、そこにルターを出頭させ、自説撤回を求めた。だが、ルターはこれを拒否した。ルターはザクセンのフリードリヒに匿われ、ルター主義勢力がドイツで拡大していく。

 スペインでの支配の確立

 カールがドイツに赴いていた頃、スペインではこの新たな国王に対する反乱が生じていた。さらに、この混乱に乗じて、フランス王フランソワ1世がスペインに進軍した。
 カールはイギリス王ヘンリー8世と同盟を結び、このスペインでの反乱と戦争に対処した。1524年には、これらの対処に成功した。かくして、スペインでの支配を安定化させた。

 イタリア戦争

 その頃、フランスはイタリア戦争を再開した。これはもともと、フランス王シャルル8世がナポリの支配権を得るために開始した戦争である。フランソワ1世は1515年にイタリアに進軍し、勝利を収めていた。
 1525年、フランソワは再び進軍した。だが、今度は大失敗だった。フランソワはパヴィアの戦いでカール5世などの軍に大敗し、自ら捕虜になるほどだった。これにより、カールとフランソワのパワー・バランスが大きく変化した。

 ローマ劫略へ

 その結果、フランソワよりもカールがイタリア諸侯にとって脅威とみなされるようになった。そのため、ローマ教皇らがカールに対抗するために同盟を結成した。
 だが、この同盟軍は皇帝軍に敗北した。それのみならず、1527年、皇帝軍の一部が暴徒化し、ローマで略奪を行った。いわゆるローマ劫掠である。
 16世紀前半には、カールはイタリアのミラノとナポリを支配下に置いた。そのかたわら、ネーデルラントでは、戦争と外交手腕を駆使して、それらの地域全体を支配下におくことに成功した。

オスマン帝国との戦い

 カール5世が皇帝に即位した頃、オスマン帝国ではスレイマン1世が皇帝に即位した。1520年代なかば、スレイマンはヨーロッパ進出を本格化させた。まず、ハンガリーを襲い、首都のブタベストを支配下においた。

 第一次ウィーン包囲

 さらに、スレイマンはハプスブルク家の本拠地のオーストリアのウィーンを陥落させようとした。1529年の第一次ウィーン包囲である。
 この背景には、ヨーロッパで強大化するカール5世にたいして、フランスのフランソワ1世がオスマン帝国を自身の同盟相手に誘ったという経緯があった。
 だが、ウィーンはカールの弟フェルディナント1世によって、どうにか持ちこたえ、カールの軍隊によって救出された。ウィーンは天候に助けられた面もあった。
 スレイマンはもう一度ウィーンを攻撃しようとしたが、再び失敗した。これらの失敗により、ヨーロッパへの本格的な進撃をやめた。

 地中海エリアでの戦い

 その代わり、スレイマンはアフリカ北部などの地中海エリアへの進軍を本格化した。とくに、ヨーロッパで海賊として恐れられたバルバロッサを用いて、地中海での進撃を進めた。イタリアやスペインがこの脅威にさらされた。

 そこで、1535年、カール5世はポルトガル王ジョアン3世らの協力をえて、バルバロッサの拠点チュニスを攻撃した。これに成功し、数千人の捕虜も解放した。
 だが、1541年のアルジェ征服には失敗した。そのため、アフリカ北部はその後もヨーロッパ人への海賊行為などの拠点として残ることになる。

 ドイツでの宗教問題:トリエント公会議

 カールがこのようにオスマン帝国やフランスなどとの戦いで忙殺されていた頃、神聖ローマ帝国ではルター主義勢力が自身の信仰を帝国で公認してもらおうと試みていた。
 だが、カールは拒否した。とはいえ、ルター派諸侯を武力で制圧できるほどの余力をもっていなかった。
 そこで、カールはルター派を含めたプロテスタントとカトリックの公会議を開催するという考えをもった。実際、教皇と会談を行い、このような公会議を試みた。
 これは、1545年から開催されたトリエント公会議として結実する。ただし、この公会議は両派の融和ではなく決裂に終わることになる。

ドイツでの宗教戦争へ:シュマルカルデン戦争

 1546年には、長年繰り返し戦ってきたフランソワ1世が没した。フランスとの戦いの危険は遠のいた。
 そこから、ついにカール5世と帝国のルター派諸侯が戦火を交えることになった。1546年のシュマルカルデン戦争である。カールはこれに勝利した。ルター派の主だった諸侯が処刑された。同年、ルターも没した。
 だが、ルター主義勢力との戦いは終わらなかった。むしろ、最終的には、彼らを打ち倒すことはできなかった。
 カールはカトリックの守護者としてルター派を撲滅できなかったことで、意気消沈した。ドイツの宗教問題を弟のフェルディナンド1世に委ねた。1555年、アウグスブルクの宗教和議が結ばれ、ルター主義の信仰も帝国で認められた。

 カール5世の遺産:広大な領地を弟フェルディナントと息子フェリペ2世に分割

 これまでみてきたように、カール5世は皇帝とスペイン国王を兼務した。そのため、スペインや神聖ローマ帝国、オーストリア、イタリアの一部、ネーデルラント、中南米などに及ぶ広大な地域を支配した。
 1555年の宗教和議はカールにとって不本意だった。カトリックの信仰を守りきることが出来なかったと考えたためだ。失意のまま、退位することになる。
 帝国の領地はフェルディナント1世に、スペインの領地はフェリペ2世に譲渡した。その結果、ハプスブルク家はフェルディナントのオーストリア・ハプスブルクとフェリペ2世のスペイン・ハプスブルクに分かれた。

 カロリナ法典

 司法についても、カールは重要な功績を残した。1532年、カール5世はカロリナ法典を完成させた。これは刑法典であり、刑事裁判規定でもあった。
 カロリナ法典では、犯罪要件が細かく規定された。たとえば、窃盗だけでも23の要件が設定された。初犯か再犯か累犯か、被害額はどうか、などである。
 たとえば、空腹ゆえの食料窃盗は無罪とされた。空き巣や集団押し込みは絞首刑であり、盗賊は極刑とされた。教会荒しは通常の窃盗より重罪とされ、供え物などの窃盗は極刑とされた。
 世俗の犯罪では犯行での暴力の程度、初犯かどうか、被害額、審問中の態度などで刑が決定された。さらに、裁判所は刑量に自由裁量の余地をもっていた。
 立証手段としては、二人の立派で信頼に足る証人か、自白という手段を認めた。裁判所が状況証拠で判断を下すのは原則として認められなかった。
 自白を得る手段として特徴的なのが拷問である。あるいは、審問官の他の手段として、意識がなくなるまでの尋問、自白した共犯者との対決、計略に乗せる、などが利用された。
 さらに、カロリナ法典では、いわゆる「法の下の平等」は認められていなかった。すなわち、社会階級によって、罪と罰が異なった。たとえば、貴族、聖職者、学者などは基本的に拷問を免除された。

 特に放浪者については。罰の種類や程度を規定せず、状況に合わせて、専門家の助言に基づくように、とされた。罪刑法定主義が放浪者の場合にはみられなかったのだ。
 放浪者はどの社会にも属していなかったので、市民として扱われなかったのであり、その分だけ権利を軽視されていた。
 カロリーナ法典は広く影響力をもった。その本質はポーランド、ロシア、スイス、スペイン、オランダ、フランスにも受け入れられた。これを基礎として、警報の規定や法規を定める領邦がでてきた。

 16-18世紀は刑法の中核構造は変わらなかった。ただし、近世の刑法が統一がとれたとか明快だったとかいうのではない。伝統的要素とカロリナ法典の要素の混在がみられた。

カール5世と縁のある都市:ベルギーのヘント

 カールはヘントで生まれた。その地で、ネーデルラント総督だった叔母のマルグリット(マルハレータ)に育てられた。それゆえ、現在のヘントはカール生誕の地であることを誇りにしている。

 ヘントはベルギーの北部に位置する都市である。現在のベルギーは、北部がオランダ語圏で、南部がフランス語圏。ヘントの周辺には、東に首都のブリュッセルやアントワープ、西にブルッヘ(ブリュージュ)がある。それぞれ電車で一時間ぐらいの距離。

 ヘントはいわゆる(インスタ)映えする街並みの美しい都市。最も繁栄したのは中世後期の14−15世紀あたりだった。その頃、ブルッヘとともに、ヨーロッパでも主要な貿易都市の一つだった。
 それゆえ、ヘントは中世ヨーロッパの街並みを愉しみたい人にうってつけだ。街の中心部は、どちらの方向から写真をとっても絵になる。

 様々な美しい教会。そこに飾られている祭壇画や説教壇も一見の価値がある。これらの中には、カトリックの対抗宗教改革の中で生み出されたものもある。すなわち、宗教改革のさなかに、民衆をカトリックに惹きつけるために生み出された荘厳なキリスト教美術の作品である。
 ベルギーは対抗宗教改革の腫瘍拠点だったので、ルーベンスの作品のように、そのような作品が多いのも魅力だ。

 他には、フランドル伯の城も面白い。フランドル(フランダース)を支配していた伯爵の居城だ。中世の主だった貴族の邸宅を知ることができる。また、中世の城は長らく刑務所の役割も担った。

 さらに、フランドル伯の城の地下には、犯罪者などを拷問する空間が存在した。これは現在、一般公開されている。拷問道具も展示されており、独特な匂いの漂う空間だ。中世ヨーロッパのゾッとする側面を覗いてみたい人は訪れるとよいだろう。

現在のヘントの動画(画像をクリックすると始まります)

 カール5世と縁のある人物

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カール5世の肖像画

カール5世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

ジョセフ・ペレ『カール5世とハプスブルク帝国』遠藤ゆかり訳, 創元社, 2002

伊東章『不滅の帝王カルロス五世 』鳥影社, 2005

Geoffrey Parker, Emperor : a new life of Charles V, Yale University Press, 2019

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