フランソワ1世はフランス国王(1494ー1547)。在位は1515−1547年。即位後間もなく、イタリア遠征を開始した。神聖ローマ帝国の皇帝選挙に挑んだが、カール5世に負けた。そこから没するまで、皇帝カール5世とイタリア戦争で断続的に戦いを繰り返した。国内では、王権を強化し、諸制度の統一を進めた。経済は発展した。イタリア・ルネサンスの文化をフランスに広めた。宗教改革にたいしては、寛容から弾圧に変わった。
フランソワ1世(François I)の生涯
フランソワ1世はフランスのコニャックで貴族の家庭に生まれた。父はアングレーム伯シャルルであり、フランス王ルイ12世の従兄弟だった。
王族の血筋からは比較的遠かったため、幼少期は王の後継者になるとは思われていなかった。そのため、フランソワは若い頃、王としての教育を受けなかった。
騎士道物語をこのみ、戦地に派遣され、軍事経験を積んだ。優れた身体能力と頭脳明晰で知られた。
フランス国王として:イタリア戦争へ
1515年、ルイ12世が没し、フランソワ1世がフランス王に即位した。即位してまもなく、フランソワはかつてのフランス王シャルル8世のように、イタリア進出を図って戦争を行った。
フランソワはマリニャーノの戦いでスペインやローマ教皇などの軍に勝利した。当時最強といわれたスイスの傭兵団にも勝利した。ミラノを得るなど、当初は有利に事を運べた。教皇はフランソワに屈した。
ボローニャの政教協約
1516年、フランソワはローマ教皇レオ10世との間でボローニャ政教協約を結んだ。これにより、フランソワは自国の教会から教皇の影響力を排除し、この教会への権利を確固たるものにした。これがフランス教会の自律(ガリカニズム)の発展に寄与した。
同年、フランソワは著名なレオナルド・ダ・ヴィンチを宮廷画家・建築家・技師に任命し、フランスに招いた。ただし、ダ・ヴィンチはフランスで従来のように活発には芸術品の制作を行わなかったようだ。そのまま1519年にフランスで没することになる。
神聖ローマ皇帝の選挙:カール5世との対立へ
1519年、フランソワは神聖ローマ帝国の選挙に挑んだ。スペイン王カルロス1世との直接対決だった。フランソワが敗北し、カルロスが皇帝カール5世として即位した。
ここから、晩年までフランソワとカールの対立が続く。その主な原因として二点あげよう。
第一に、この皇帝選挙の敗北である。当時の皇帝選挙はカネでの買収が禁止されていなかった。というより、皇帝選挙は実質的には選帝侯の支持を買収しあう競争でもあった。
そのため、フランソワは莫大な費用を投じた末に敗北したことになる。この痛手と恨みが理由の一つとなった。
第二に、フランスがカールの領地に包囲されるような形になったことだ。カールはスペイン王および神聖ローマ皇帝として、広大な領地をもった。
フランスの東には神聖ローマ帝国、北にはネーデルラント、南にはスペイン、南東にはイタリア諸都市がある。
これらはすべてカールの領地であるか、その権益が及んでいた。このような包囲網がフランス人に恐怖を与えた。それが2つ目の理由として指摘されている。
ヘンリー8世との同盟の試み
フランソワはカールとの戦争の準備として、イギリス王ヘンリー8世を同盟に引き込もうとした。豪華な金色の布で大きな陣をつくりあげ、そこで会談を行った。フランソワはこのようにして大盤振る舞いでヘンリーをもたなしたが、同盟結成には失敗した。
イタリア戦争の再開:パヴィアの戦いでの大敗
1521年、フランソワはイタリア戦争を再開した。フランスは皇帝軍などと戦った。イギリスなども参戦し、戦争の範囲が拡大していった。フランスは劣勢に置かれた。
1525年のパヴィアの戦いで大敗した。多くの兵が命を失い、フランソワ自身や有力貴族がが捕虜になるほどの失態となった。フランソワはマドリードで幽閉された。かくして、今回の戦いは明らかに失敗だった。
その結果、フランスはミラノなどでのイタリアでの諸権利を失った。当初、イギリスやイタリア諸都市などはフランスを脅威とみなしていた。
だが、フランソワがカール5世にここまで大敗したため、彼らはむしろ皇帝の勢力があまりに拡大するのを恐れるようになった。
ローマ劫掠から和平へ
1526年、釈放されたフランソワはイタリア諸都市や教皇とコニャック同盟を組んで、再度カールに戦いを挑んだ。これが1527年のローマ劫掠を引き起こすことになった。フランソワは再び劣勢に置かれた。
この頃、ドイツではプロテスタント諸侯とカール5世の間で対立が深まっていった。1517年のルターによる宗教改革の影響である。
さらに、同時期、オスマン帝国のスレイマン1世がヨーロッパ遠征を本格化させていった。1529年にはカールのハプスブルク家の本拠地たるウィーンへの攻撃を始めた(第一次ウィーン包囲)。これはフランソワがスレイマンをウィーンへと仕向けた結果でもあった。
そのため、カールはイタリア戦争への余力がなくなってきたので、イタリアでの和平を望んだ。1529年、フランソワとカールの間で和約が結ばれた。フランスはイタリアでの権利を失ったが、ブルゴーニュを保持することになった。
巻き返しを図る:スレイマン1世との同盟
1533年には、フランソワは息子のアンリとカトリーヌ・ド・メディシスを結婚させた。当時は独立国だったフィレンツェとの関係強化のためである。さらに、スレイマン1世のオスマン帝国と同盟を組んだ。
1536年から、フランソワは皇帝カール5世と再び戦争を開始した。スレイマンとの同盟は、キリスト教徒同士の戦争のために異教徒と同盟を組むことであった。これは当時スキャンダルとみなされ、大きな物議を醸した。
というのも、スレイマンの第一次ウィーン包囲がヨーロッパでイスラム教の脅威とみなされ、イスラム君主にたいするキリスト教徒の団結が声高に訴えられていたためだ。だが、フランソワはカールへの勝利を優先して、同盟を維持した。
なお、これ以降、フランスはハプスブルク家に対抗するためにオスマン帝国と同盟関係を続け、両者は伝統的な同盟相手になっていく。
1542年には、ミラノの権益をめぐって、フランソワとカールは再び戦争した。これが両者の最後の戦争となった。結局、はっきりとした勝敗はつかなかった。
国内の発展
フランソワは上述のようにイタリア戦争に邁進する一方で、国内での王権確立にも着手した。徴税制度や司法制度などの改革も進めていった。鉱山業が発展し、貴金属の流通量が増えた。そのため、商業が発展した。
イタリア・ルネサンスの流入
イタリア遠征の影響で、イタリア・ルネサンスがフランス宮廷に流れ込んだ。フランソワ自身もイタリア諸侯のように学芸のパトロンとなったので、フランスでルネサンスが花開いた。
たとえば、上述のようにレオナルド・ダ・ヴィンチらがこれに貢献し、フランソワから年金を受けた。また、1530年、フランソワは学芸の発展のために、王立教授団を設立した。これはのちにコレージュ・ド・フランスに発展する。
フランスでの宗教改革の始まり
フランソワの時代に、フランスでも宗教改革の動きがみられた。当初、フランソワは彼らに対して穏健な態度をとった。
そもそも、フランソワは、宗教的寛容で有名な人文主義者のエラスムスを敬愛していた。また、ドイツ宗教改革の主導者メランヒトンの考えにも親しんでいた。長らく、フランソワは人文主義の発展を推進する立場だった。
フランスでは、その人文主義サークルの一部が宗教改革の動きに共鳴した。聖書の仏訳を行った。宗教改革は聖書主義であるので、この翻訳は非常に重要だった。
1520年代には、この人文主義サークルはフランス宮廷にも影響をもつほどに至った。だが、いわゆる檄文事件が転機となった。
檄文事件は1534年10月に起こった。カトリックのミサを偶像崇拝と非難する檄文がパリやルーアンなど各地に貼られたのである。その作者はおそらく改革派牧師のアントワーヌ・ド・マルクールであるとされている。
フランソワ1世はこれを主なきっかけとして、福音主義すなわちプロテスタントを厳しく取り締まる政策をとった。その結果、彼らはスイスなどへ逃亡した。1540年には、フランソワはすべての世俗裁判所に異端取り締まりの権限を付与した。
カルティエの海洋拡張
16世紀のヨーロッパは大航海時代に突入していた。スペインとポルトガルが先陣を切った。15世紀末、スペインはコロンブスがアメリカに到達し、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。フランスはこの点で遅れを取っていた。
フランソワ1世が 即位した頃、ブルターニュの人々は北米のニューファウンドランド沖で漁をしていた。フランソワ自身もポルトガルの香辛料貿易の大成功に触発され、ジャック・カルティエを中国貿易のために派遣した。
そのルートはいわゆる北西航路だった。当時、ヨーロッパ人はアメリカや東アジアの正確な地理的情報をもっていなかった。そのため、ヨーロッパから北西に進めばインドや中国にたどりつくのではないかと考えた。
そこで、カルティエは中国に行くためにフランスの北西へ向かった。その結果、1534年にカナダに到着した。一度帰国し、1535年にフランス王代理として再度カナダ探検へ向かい、現在のケベックに至った。先住民の首長ドンナコナを捕まえ、翌年、フランスへ連れて帰った。
1541 年、カルティエは三度目のカナダ航海を行った。フランソワの時代にこのような航海事業が行われたが、植民地建設には至らなかった。
フランソワの死
フランソワは晩年には熱病におかされ、没した。
フランソワ1世と縁のある人物
●カール5世:フランソワの天敵となったスペイン王かつ神聖ローマ皇帝。フランス最大の敵だった。カールは神聖ローマ帝国でも最重要の皇帝の一人といえるほど、多くの出来事を経験する。
●カトリーヌ・ド・メディシス:フランソワの息子の妻で、王妃。息子がまもなく没するため、フランソワの次の時代はカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王権を牽引することになる。
フランソワ1世の肖像画
おすすめ参考文献
ルネ・ゲルダン『フランソワ一世 : フランス・ルネサンスの王』辻谷泰志訳, 国書刊行会, 2014
Cédric Michon, Les conseillers de François 1er, Presses universitaires de Rennes, 2011
Georges Bordonove, François Ier : le roi-chevalier, Pygmalion, 2006