エルナン・コルテス:アステカ帝国の征服

 エルナン・コルテスは16世紀スペインの貴族(1485ー1547)。アステカ帝国の征服者。インカ帝国の征服者のピサロとともに、大航海時代の代表的な征服者とみなされている。コルテスは少数のスペイン人を率いてアステカ征服を成し遂げた。以下では、コルテスの今日の評価やピサロとの違いについても説明する。

 アステカ帝国はインカ帝国とともに、アメリカ大陸の二大文明をなしていた。コロンブスのアメリカ到来から約30年後に、コルテスはこの帝国を滅ぼした。コルテスの生涯を知ることで、スペインのアメリカ征服の一つのピークを知ることができる。

コルテス(Hernán Cortés)の生涯

 コルテスはエストレマドゥーラで下級貴族の家に生まれた。当時、ヨーロッパでも名門として名高いサラマンカ大学で、法学を学んだ。

 コロンブス以降のアメリカ

 スペイン王権の後ろ盾のもと、コロンブスが1492年にアメリカを「発見」した。コロンブスはその成功のおかげで提督に昇進し、大出世した。その後、スペイン人が立身出世や金銀財宝を求めて、アメリカへ大挙した。

 とはいえ、当初、アメリカ大陸ではなく、キューバなどのカリブ諸島付近が彼らの探検地域だった。いまだ20歳に満たないコルテスもまた、まずはこれらの島々に到来した。
 1511年には、ベラスケス主導のキューバ遠征に参加した。サンチャゴの市長もつとめた。

 それらの島々に到来したスペイン人は先住民を奴隷にして強制労働させた。十分な食事も与えられず、先住民は死んでいった。あるいは、スペイン人の残酷な噂を聞き、集団自殺する先住民部族もでてきた。
 次第に、島々の住民が死滅していった。そこで、スペイン人はさらに探検を加速させ、アメリカの大陸部への進出を加速させる。

 アステカ帝国との接触

 1519年、コルテスはそのような遠征隊の一つに隊長として選ばれ、メキシコ方面へ派遣された。同年、ベラクルスという都市を設立し、その総督になった。

 同年末、ついにアステカ帝国の攻略を開始する。コルテスは自らの兵を500人程度しか連れていなかった。それにたいし、 アステカ帝国は数百万の臣下の巨大な帝国だった。首都テノチティトランの人口は20万を越えた。

アステカ帝国の内情:圧政の帝国

 だが、当時のメキシコの政情がコルテスに味方した。当時、アステカ帝国は古来から存在する国だったわけではなかった。なにより、周辺国にたいして圧政を敷いていた。それゆえ、アステカにしぶしぶ服従させられている先住民が多数存在した。

 他にも、アステカは近隣の敵国をあえて征服しないままにしていた。その目的は自国の近くで生贄を確保するためだった。戦闘で敵国の民を生け捕りし、アステカの神々への生贄として捧げたのだった。

 そのような状況であったので、アステカ帝国は敵国から恨まれ、従属国からも確固たる忠誠をかちとっていなかった。
 このタイミングで到来したコルテスは、これらの先住民からは解放者とみなされた。よって、彼らはコルテスのアステカ征服では同盟者となった。

 アステカ帝国の征服

 当初、コルテスのアステカ征服は順調に思われた。首都テノチティトランに達し、皇帝モクテスマ2世と面会した。


 コルテスはモクテスマを拿捕した。釈放の身代金として、帝国の金銀財宝が提供されたが、解放されなかった。

 それでも、征服は一辺倒に進んだわけでもなかった。1520年には、コルテスの兵士の多くがアステカの反撃で死傷した。コルテス自身も命からがらテノチティトランを脱出した。また、スペインの征服者同士の内乱も生じていた。

 だが、1521年には再び首都攻略に成功した。そこにスペイン人の都市としてヌエバ・エスパーニャを設立し、その総督になった。かくして、スペインはアメリカの大陸部に主だった植民地を設立するのに成功した。
 また、コルテスは金銀財宝を大量に入手できたので、新世界には黄金郷があるという伝説がいわば現実化するかたちとなった。

 勝利の原因とは

 なぜコルテスは巨大なアステカ帝国に勝利できたのか。一つには、上述のように、アステカ帝国の対内的不和が挙げられる。この点について付け加えるなら、この不和を事前に察知し、利用するためのコルテス自身の準備も挙げられる。

 たとえば、コルテスは先住民とのやりとりのために、通訳を育成していた。通訳を通してアステカの政情を知り、対内的不和を利用できるようになっていた。このような事前準備も重要だった。さらに、コルテスの政治家としての交渉力の高さもここで役に立った。

 ほかの原因としては、鉄製の武器や馬などの軍事技術での優位が挙げられる。アメリカ大陸では、当時、鉄が使用されていなかった。また、馬のような大型家畜もいなかった。

 ほかに、ヨーロッパ由来の伝染病による先住民の被害もあげられる。

エピソード:スペイン人はアメリカ先住民の神のケツァルコアトル?

 他の原因の一つとして、アステカ人がコルテスを土着の神と勘違いしたことが挙げられる。

 アステカ帝国の神話では、かつてこの世界で神々が戦争した。ケツァルコアトルという神が敗北した。「再び戻ってきて、復讐する」と言いながら、西の海に逃げていった。これは「白い羽毛のヘビ」という意味合いの神であり、外見が白かった。

 コルテスらは白人であり、西の海からアステカ帝国に到来した。先住民の知らない雷の音や煙の術などを使えた(実際には鉄砲などのこと)。
 そのため、アステカ皇帝はコルテスをケツァルコアトルと勘違いした。コルテスらと戦う前から、戦意を喪失してしまったとされる。

 コルテスはこの征服について、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に報告書簡を出した。コルテスはこの成功によって、初代オアハカ侯爵に任じられた。

 1524年からは、ホンジュラスの遠征を行った。

ケツァルコアトル

 征服の「手柄」をめぐって

 しかし、コロンブスと同様に、新世界の植民地でのコルテスの地位はすぐに揺らぐことになる。
 当時、スペイン王室は植民地のスペイン人の勢力が強大化することを危惧した。彼らが封建貴族のようになって、スペイン王室に対抗できる勢力へと成長することを防ごうとした。
 この点について、アメリカ大陸がスペインから遠かった点も重要である。当時はアメリカとスペインの往復に半年以上かかった。よって、アメリカでの最新情報がスペイン本国に届くのは早くても半年後である。
 その分だけ、アメリカの植民地統治はスペイン本国からは困難であった。よって、アメリカの征服者が封建貴族化するのは王権にとってなおさら不都合であった。

 他方で、植民地のスペイン人たちの思惑も一致していなかった。
 実際に、コルテスはその地位を解かれた。そこで、1528年に帰国して、地位の回復をカルロス1世に求めた。これは一時的に成功した。コルテスは巨大な富を築いた。なお、この頃、フランシスコ・ピサロがインカ帝国の征服に着手し始めた。

 だが、スペイン王室はやはり植民地での征服者たちの封建貴族化を予防する方針をとった。アメリカ植民地に副王制度を導入したのである。
 副王は、植民地での王の代理人であり、最高位の統治者である。副王には、本国から派遣された貴族が就任した。かくして、征服者たちの出世ルートが限定された。

 コルテスはこれに反発し、1540年にスペインに戻った。カルロス1世に訴えるも、今度は失敗した。結局、失意の中で没した。とはいえ、征服によって立身出世に成功したといえる。

 コルテスとピサロとの違い

 上述のように、フランシスコ・ピサロが1531年からペルーのインカ帝国を征服した。アメリカ大陸ではアステカ帝国とインカ帝国が最重要とみなされてきた。そのため、コルテスとピサロは征服者の代表的人物として知られる。両者の違いはなにか。
 コルテスとピサロは様々な面で異なっていた。コルテスは政治家であり外交官であった。征服を行っただけでなく、上述のように、この征服を自身の「手柄」としてアピールするのに精力を費やし、それなりに成功した。

 カルロス1世への報告書簡を公刊したり、あるいは直接スペインの宮廷に赴いて演説や交渉を行ったのである。コルテスはこの弁論や著述の能力に優れていた。自身の罪を自分の敵に転嫁し、敵の功績を自分の功績として提示し、周囲を納得させた。

 コルテスの報告書簡はスペインだけでなく、別の国や地域でも公刊された。1530年頃から、スペインのアメリカ征服関連の著作が次々と公刊されていった。それらとともに、コルテスの報告書簡も売れた。
 コルテスの征服物語は当時流行していた騎士道物語のように受け止められた。ドラマティックな見世物として人気をえた。

 このようにして、コルテスは貴族としての地位や名声を高め、広大な領地をえて、莫大な富を築いた。最終的には王室の植民地政策に勝てなかった。
 それでも、総体的に見れば、征服者としての実績のみならず政治家としての交渉力を存分に発揮することで、立身出世に成功した。
 これに対し、ピサロは軍人気質だった。コルテスと同様に、新世界の卓越した帝国を征服した。だが、コルテスと異なり、その手柄を自ら宣伝することを嫌った。手柄を他者にアピールする手腕に欠けていた。

 ピサロの側近がピサロの代わりに彼の伝記を書くことになった。だが、コルテスほどの著述能力をもたなかったので、宣伝の面ではコルテスほど成功しなかった。その結果、ピサロは征服においてコルテスの模倣者だという評価も生まれた。
 さらに、ピサロは政治家としてもコルテスより劣っていた。コルテスは政敵を政治家としてやり込めるのにしばしば成功した。
 これに対し、ピサロはインカ帝国征服の際にスペイン人の政敵と戦っただけでない。征服後に、2年後にその政敵の残党に暗殺されることになった。この点でも両者は異なっていた。

 今日のコルテスの評価:メキシコの歴史教科書

 コルテスがメキシコのアステカ帝国を征服して建設したヌエバ・エスパーニャは現在のメキシコ・シティへと発展していく。メキシコの首都である。では、現在のメキシコの歴史教科書では、コルテスはどう評価されているのか。
 コルテスはアメリカの征服者だったので、手厳しい評価が下されている、と思われるかもしれない。だが、実際には、コルテスは両義的に描かれている。善と悪、正義と不正、勇気と憂い、高貴さと罪の両面を帯びた人物として描かれている。

 さらに、驚嘆すべき個性ももっていた。優れた指揮官や政治家だった。アステカ征服後に、スペイン様式の都市や生活様式をそこに持ち込んだ。同時に、先住民を奴隷のように扱った、と。
 このような両義的評価には、現在のメキシコ人の出自が反映しているといえる。メキシコでは、スペイン人と先住民が結婚し、混血者(クリオーリョ)が生まれていった。19世紀前半、メキシコはスペインから独立戦争によって独立した。

 その主役はクリオーリョだった。そのため、メキシコ人の大部分はスペイン人と先住民の両方にルーツをもつ。
 コルテスがアステカ帝国を征服しなければ現在のメキシコは存在しなかっただろう。だが、同時に、メキシコ人はその征服の甚大な被害を受けた先住民の子孫でもある。この立場がコルテスの評価につながっている。

 コルテスの新設したエヌバ・エスパーニャ:メキシコシティ

 アステカ帝国の首都はテノチティトランだった。コルテスがこれを征服し、ヌエバ・エスパーニャという植民都市を建設した。これが現在のメキシコシティとなった。

 コルテスの時代に属する地域は様々ある。まずは、メキシコシティの中心地のソカロ広場が挙げられる。この広大な広場には、かつて、アステカ帝国の様々な神殿などが建設されていた。だが、コルテスらによって徹底的に破壊された。その代わりに、ソカロ広場が建設された。

 ソカロ広場には、コルテスの時代に建設が開始されたメトロポリタン大聖堂がある。これはヌエバ・エスパーニャの主要な大聖堂として機能した。圧巻の建造物である。

 アステカ帝国などの、先住民の在りし日の繁栄を垣間見たいという場合には、国立人類学博物館が適している。膨大な数の展示品があり、一日では見きれないほどだ。

 また、メキシコシティから少し離れたところには、テオティワカン遺跡がある。ここには、太陽のピラミッドがある。
 スペインの征服者たちはエジプトのピラミッドの存在を知っていた。そのため、アメリカ大陸の先住民がアフリカにルーツをもつと考えられたこともあった。
 しかし、アメリカ先住民の容姿はアジア人に似ている。そのため、アメリカ先住民のルーツがどこにあるのか、16世紀にもヨーロッパ人は論じあったものだった。

クリックすると、動画が始まります(現代のメキシコ・シティ)

 コルテスと縁のある人物

●モクテスマ:アステカ帝国の最後の皇帝。スペインによるアステカの征服は、この皇帝の視点において、どのようにみえたのか。

●ピサロ:インカ帝国の征服者。コルテスがアステカを征服した10年後に、ペルーのインカ帝国を征服した。コルテスとともに代表的な征服者。

●カルロス1世:コルテスが仕えたスペイン王。神聖ローマ帝国カール5世でもある。コルテスがアステカを征服していた頃、神聖ローマ帝国のドイツではあの世界史的な動きが進展し、カール5世はこれに取り組まなければならなかった。

エルナン・コルテスの肖像画

エルナン・コルテス 利用条件はウェブサイトで確認
アステカの神々に生贄を捧げる儀式(ヨーロッパ人が描いたもの)。生贄の心臓を神々にささげている 利用条件はウェブサイトで確認
アステカの神々に生贄を捧げる儀式(ヨーロッパ人が描いたもの)。生贄の心臓を神々にささげている

モクテスマに面会するコルテス 利用条件はウェブサイトで確認
モクテスマに面会するコルテス

おすすめ参考文献

コルテス『コルテス報告書簡』伊藤昌輝訳, 法政大学出版局, 2015

安村直己『コルテスとピサロ : 遍歴と定住のはざまで生きた征服者 』山川出版社, 2016

Stefan Rinke, Conquistadors and Aztecs : a history of the fall of Tenochtitlan, Oxford University Press, 2023

Donald E. Chipman, Sword of Empire, State House Press, 2021

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