カルロス2世:スペイン・ハプスブルクの終焉

 カルロス2世はスペイン国王(1661−1700)。生まれながらにして病弱であり、国王として統治を実施するのに困難を伴った。彼自身は生殖能力にも問題があり、跡継ぎをのこさなかった。フランスやオーストリアなどが黄金時代の余韻の残るスペイン帝国の後釜を狙い、競い合った。これからみていくように、カルロスはスペイン国王として後継者を選び、理由を考え、遺言で示した。そこからスペイン継承戦争が始まる。

カルロス2世(Carlos II)の生涯

 カルロス2世はフェリペ4世とハプスブルク家のマリアナとの間に生まれた。フェリペ4世の遺言により、カルロスは成人するまで、摂政評議会によって支えられることになった。
 カルロスは生まれつき虚弱体質だった。発育が悪かった。ラテン語やフランス語などの教育を受けたが、体調ゆえに、しばしば中断された。

 フランスとの戦争

 17世紀後半はフランスがルイ14世のもとで領土拡張戦争を大々的に行った時期である。その主なターゲットの一つがスペインだった。というのも、スペインはカルロス2世のもとで弱体化していったためである。
 1667年、ルイ14世はさっそく現在のベルギーで戦争を開始した。当時、ベルギーの地域はスペイン領だった。
 この頃、スペインの外交政策の主導権を握ったのは王太后のお気に入りだったイエズス会士だった。そのもとで、スペインは多くの重要な地域をフランスに譲渡した。

 ポルトガルの再独立

 さらに、1668年には、彼はポルトガルの独立を承認した。 ポルトガルは1580年にフェリペ2世によってスペインに併合されていた。1640年に再独立のための戦争を開始し、ようやく再独立を正式に果たしたのである。
 同時に、スペイン国内では、フアン・ホセがマリアナと二サールに敵対した。フアン・ホセはカタルーニャなどに勢力を築いた。二サールの追放を要求し、成功した。

 王への即位 

 1675年、カルロス2世は14歳となり、正式に成人した。だが、カルロスは病弱だった。長らく続いていたハプスブルク家の近親交配の結果である。
 カルロスは統治者としての才覚をもたなかった。カルロスの時代は、派閥争いが耐えなかった。さらに、時が経つにつれ、カルロスには跡継ぎをもうける能力がないことが明らかになった。
 その結果、スペイン・ハプスブルク家がほどなくして滅ぶことは周辺国に認識されるようになった。
 よって、周辺国はスペインの領地を虎視眈々と狙った。問題は、戦争によって奪うか、後継者争いを通して奪うかである。フランスは戦争で奪おうとした。イギリスやオランダなどは、ヨーロッパでの勢力図が大きく変化するのを警戒した。

カルロス2世の治世

 当初は、フェルナンド・デ・バレンズエラが政治を主導した。だが、たいした才覚をもたなかった。
財政改革や公共事業の推進などを行った。1676年、上述のフアン・ホセなどとの派閥争いに負けて、権力の座から追放された。 彼はスペイン領だったフィリピンへ追放され、最終的にはメキシコで没することになる。

 1677年、カルロスはフアン・ホセを宰相に選んだ。フアン・ホセはカルロスの行動を公的な場面でも私的な場面でも管理し、監視した。母マリアナの政治的影響力を排除しようとした。

 フランスとの婚姻政策

 1678年、フランスとの戦争が一旦終わった。婚姻政策により、1679年、カルロスはルイ14世の姪であるフランスのマリー・ルイーズと結婚した。 この結婚により、スペイン宮廷におけるフランス人の存在感は高まった。フアン・ホセは失脚した。

 メディナセリ公による刷新

 この頃、スペイン経済はインフレの悪化で苦しんだ。この危機において、1680年、カルロスはメディナセリ公を宰相に選んだ。

 メディナセリ公はスペイン軍の総司令官をつとめていた人物であり、当時のスペイン政界の大物だった。スペインの産業活動を推進する立場だった。
 メディナセリ公は大胆な金融政策により、インフレの抑制に成功した。さらに、スペイン領アメリカ植民地との通商制度を改革していった。
 メディナセリは1685年まで政権を維持した。その頃には経済状況は安定していた。スペイン全体で、経済成長の兆しがみられた。このように優れた手腕をふるった。

 オロペサの時代

 だが、1685年、メディナセリ公が派閥争いによって失脚した。オロペサ伯爵が宰相として、1691年まで権力を掌握した。
 オロペサは税制改革と官僚の合理化を徹底的に行った。 その結果、スペインのエリートは多くの所得を減らした。オロペサは特に宮廷で多くの敵を作った。

 マリアの影響力

 1689年、王妃マリー・ルイーズが没した。1690年、カルロス2世はオーストリアのマリア・アナ・オブ・ノイベルクと結婚した。マリアはスペイン・ハプスブルク家が滅亡した先を見据えて、オーストリアの利害を優先しようとした。
 それは、当時のオーストリア・ハプスブルク家の当主で神聖ローマ帝国の皇帝レオポルト1世の思惑に合致するものだった。ハプスブルク家は16世紀なかばにスペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルク家に分かれていた。レオポルトはこれらを統合しようとしたのだ。

 そのような中で、1688年、ルイ14世は再びスペインへの侵略戦争を開始した。 アウクスブルク同盟戦争である。イギリスやオランダなどがフランスを封じ込めようとして一致団結した。1698年に和平が結ばれたとき、関係国はスペインの領地を分け合った。
 1691年、オロペサが没した。カルロスの妻マリアが実権を握るようになった。カルロスは政治的決定を下せないとマリアは手紙で述べている。
 この時期に、メディナセリなどの重要な政治家たちも没した。よって、エリートの代替わりが生じた。さらに、オーストリアからマリアの顧問団が到来し、スペイン政治で影響をもつようになった。

 スペイン・ハプスブルク家の終焉へ

 フランスやオーストリアなどがカルロスの後継者問題をめぐって争った。カルロスには信頼できる顧問がいなかった。1696年には、妻マリアが没した。カルロスはこれら二度の結婚を経ても、後継ぎができなかった。
 1696年、カルロス自身も重大な病に陥った。後継者問題をめぐって、スペイン貴族はフランス派とオーストリア派に割れた。
 1699年ごろには、フランス派が勢力を強めた。トレド大司教がカルロスに、この選択肢を説得するのに成功した。フランスこそがスペイン帝国の崩壊を防ぐことができる唯一の国であると判断したためである。

 そこで、カルロスは遺言で、ルイ14世の孫であるアンジュー公のフィリップを後継者に指名した。ルイ14世がスペイン王フェリペ4世の娘と結婚していたので、このような王位継承の可能性がでていた。この政略結婚はフランスの宰相マザランの外交成果だった。
 フィリップの王位継承の条件として、フィリップがフランス王権に対するあらゆる権利を放棄することが明示されていた。
 1700年、カルロス2世は没した。かくして、栄光のスペイン・ハプスブルク家は滅んだ。フェリペ5世のスペイン・ブルボン家が誕生する。そのためには、スペイン継承戦争が生じることになる。

カルロス2世と縁のある人物

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https://rekishi-to-monogatari.net/leo1

カルロス2世の肖像画

おすすめ参考文献

川成洋『スペイン通史』丸善出版, 2020

William D. Phillips, Jr. and Carla Rahn Phillips, A concise history of Spain, Cambridge University Press, 2016

Andrew Dowling(ed.), The Routledge handbook of Spanish history, Routledge, 2024

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