18世紀なかば、フランスはイギリスとの7年戦争で敗北した。その結果、カナダなど、海外植民地の大部分の植民地をイギリスに奪われた。そのため、長らく、フランスの植民地はフランス革命にとって重要ではないと思われ、歴史学でも軽視されてきた。だが、この流れが大きく変わりつつある。
そこで、この記事では、フランス革命での植民地と奴隷制廃止について説明する。
七年戦争以後のフランスの海外植民地:経済的側面
特に注目されているのは、カリブ海に浮かぶフランス領のアンティル諸島である。グアダルーペ島やマルティニク島などである。
特に、サン・ドマング島は1760年代以降に砂糖生産で発展した。この島は当時の砂糖生産量の世界第1位となり、砂糖の世界貿易の半分を占めていた。 よって、砂糖生産に従事していた奴隷の貿易も盛んだった。フランス領アンティル諸島の砂糖生産量はイギリス領の西インド諸島のそれを上回っていた。
植民地の経済発展はフランスの主要港に大きな利益をもたらした。ナントやボルドー、マルセイユなどである。これらの国際貿易商が一財を成し、新たな勢力として台頭し始めた。
革命前、フランス植民地はこのような経済的重要性をもっていただけではない。18世紀後半において、様々な議論の的になっていた。たとえば、植民地貿易は独占貿易であったことが一つの論点となった。この問題は自由主義経済と独占をめぐる当時の論争に属した。
政治的側面
革命とのつながりで着目されるのは、その政治的側面である。1783年にイギリスの北米植民地が独立革命によってアメリカ合衆国として独立する。これがフランス領アンティル諸島に刺激を与えた。
アンティル諸島はフランス本国政府からの自治や様々な権利を求めるようになった。そこでは、奴隷制度や、有色人種の自由民の権利などの改革を求める声も挙がっていた。
革命前夜、アンティル諸島での有色人種の自由民の人口は白人の自由民の人口と大差ないほどだった。さらに、前者は経済的に発展しつつあり、後者に挑戦していた。だが、様々な制度のもとで、厳しい人種差別を受けていた。それゆえ、その改善を訴える声が強くなっていった。
フランス本国でも、このような植民地の動きに関心が集まった。1770年から、レーナルの『両インド史』が公刊され、ベストセラーとなった。これはアジアやアフリカ、アメリカなどのヨーロッパ植民地の歴史を批判的に描いたものである。そこでは、アメリカでのアフリカ人奴隷による反乱が示唆されていた。
黒人の友協会
革命前夜に、奴隷制度をめぐって、廃止運動も生じた。1788年、黒人の友協会が設立された。これはアメリカのペンシルバニアでの奴隷廃止運動などに触発されたものだった。
黒人の友協会は奴隷制を非人間的なものとして批判した。同時に、経済的理由でも批判した。彼らの考えでは、奴隷制度は賃金労働よりも生産性などの点で劣った労働形態であった。よって、この経済の仕組みを改革することで、フランス経済を改善することも目的だった。そのための具体策を模索した。
植民地をめぐる対立は1789年の三部会において表出した。一方では、植民地主義者が白人植民者の利益を主張し、奴隷や有色自由民を抑え込もうとした。他方で、黒人の友協会がこれに対立した。多くの代議士はその対立を抑え込みたかった。
三部会では、これら植民地の位置づけなどが議論された。これまで通りの植民地とすべきか、それとも海外の県とすべきか、などである。
国民議会にて:フランス人権宣言の影響
1789年8月のフランス人権宣言は当然ながら植民地問題にとって重要な契機となった。貴族の特権が廃止され、法の下の平等が宣言された。だが、国民議会は議論の末に、奴隷をその例外とした。
さらに、植民地主義者はフランス人権宣言などが植民地に影響を与えないよう情報統制を図ろうとした。だが、植民地の代議員などはこの箝口令を無視し、植民地に人権宣言を伝えた。
ここから、国民議会では、白人と有色の自由人植民者の差別が大きな論点となっていく。
国民議会は、植民地の問題を専門とする植民地委員会を設置した。この時点で、植民地でも革命の動きが伝わっていた。フランス王権の執政者は白人植民者によって追放されていた。植民地の政情が不安定だったので、この委員会が設立されたのである。
植民地委員会はフランス本国の憲法を植民地に適用せず、奴隷制を現状のまま維持するという植民地法を制定した。奴隷貿易などがフランスの国益にとって重要だという理由だった。黒人の友協会の訴えは通らなかった。
植民地は本国とは別に、独自の憲法を制定する権利をもった。そのための議会を招集することになった。だが、白人植民者はこの議会への参加を有色自由人に認めようとしなかった。
それまでの差別もあいまって、有色自由人は1790年には植民地で反乱を開始した。だが、植民地委員会は植民地での身分に関する立法を植民地議会だけが主導できると定めた。
有色自由民の反乱は残忍な仕方で弾圧された。そのため、1791年、国民議会は植民地問題を再びとりあげた。
ハイチ革命とジャコバン派の活発化
同年8月、サン・ドマングでは本格的な反乱が始まり、白人植民者と対決し始めた。すなわち、ハイチ革命の始まりである。
ハイチ革命はジャコバン派の組織発展に大きな影響を与え、その結果としてフランス革命の進展にも影響を与えていく。
まず、国民議会では、ジャコバン派が奴隷制支持者を内部から追放していった。その結果、ジャコバン派は革命支持の奴隷廃止論者となっていった。反革命的な奴隷制支持論者がこれに対抗するようになっていった。
その流れの中で、そもそもハイチ革命がフランス本国に知られるようになったのは、同年10月下旬だった。議会では、黒人の友協会はこの反乱の原因だとして批判された。
黒人の友協会は植民地の境遇を少しずつ改善しようと計画していた。だが、この反乱により、計画変更を余儀なくされた。まずは平穏を取り戻すことを優先課題とみなした。反乱を鎮圧することである。だが、有色の自由民の権利を保障するなどの政策をあきらめなかった。むしろ、これが事態の解決に寄与すると考えた。
ジャコバン派は精力的に活動し、支持をかためていた。1792年4月の法律で、ついに有色の自由人に完全な市民権を与えることになった。これは植民地での秩序回復のためだと論じられた。あるいは、奴隷制廃止の前提条件だとも論じられた。植民地でも、肌の色に関係なく、法の下の平等が認められた。
さらに、ジャコバン派は政策を推し進めた。植民地議会から植民地の住民の身分を決める権利を奪い取ったのである。
奴隷制廃止へ
立憲議会はこれらの決定を実行するために、植民地に委員会と軍隊を派遣した。まずは反乱を鎮圧しようとした。だが、この鎮圧がうまくいかなかった。イギリスやスペインがこの反乱に介入し、戦闘が拡大していったためである。
植民地での対立構図は複雑で錯綜していた。たとえば、白人植民者は有色の自由人と必ずしも対立したわけではなく、奴隷制維持のために協力することもあった。イギリスやスペインと彼らとの関係も流動的だった。
本国の国民公会は植民地での争いの事態を部分的にしか把握できなかった。植民地の情勢が混沌とする中で、山岳派では内部対立も生じた。奴隷制を廃止すべきか、それとも事態が沈静化するまでは容認すべきかなどで、対立した。事態は膠着化していった。
そのような中で、1793年、サン・ドマングから代表団が国民公会に到来した。これが事態を大きく動かした。彼らとの交渉に後押しされて、1794年2月、奴隷制廃止令が可決された。
1794年5月、植民地の黒人将軍トゥーサン・ルーヴェルチュールは国民公会を支持した。彼は奴隷制廃止のために戦い続けていたためである。植民地の情勢が安定化していった。
奴隷廃止令の制定は倫理的な理由と実際的・軍事的な理由のためだった。
この点で注目すべきは、砂糖価格の高騰である。上述のように、これらの植民地は砂糖の主要な供給地だった。奴隷はその生産の労働力だった。だが、ハイチ革命により、砂糖の生産は当然ながら急激に落ち込んだ。砂糖の価格が高騰していった。
パリなどでは食糧危機が革命当初から問題になっていた。1792年から1793年にかけての冬の間、パリの労働者たちは砂糖価格の高騰に危機感を募らせた。ハイチ革命は砂糖の危機というかたちで、食糧危機に拍車をかけたのである。ハイチ薄明が首都の状況をさらに悪化させた。その結果、ジロンド派と山岳派の対立を一層激化させた。
ジャコバン独裁の成立後、1793年9月の最高価格令では、砂糖も対象に入っていた。このような形でも、植民地問題はフランス革命の本流に組み込まれていた。
なお、奴隷廃止令の影響は重要だが、部分的でもあった。この法律は実際にはグアダルーペとギアナだけに関わった。そこでは、奴隷たちは解放され、賃金労働者となった。
サン・ドマングはすでに武力で奴隷たちが自由を獲得していた。マルティニークはイギリスに占領されていた。さらに、モーリシャスは植民者が本国の役人を追放し、この法律を拒否した。
かくして、フランスの共和制は市民の権利をこの植民地にも拡大しようとした。植民地を海外領土に変えようとした。国内と同じ制度を適用し、その一部としようとした。
だが、この流れには反動が生じ、強まっていく。特に、1799年のナポレオンのクーデターにより、本格化する。ナポレオンは奴隷制を復活させることになる。
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おすすめ参考文献
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