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トマス・ジェファソン

 トマス・ジェファーソンは19世紀初頭に第 3 代アメリカ合衆国大統領をつとめた政治家(1743 ー1826 )。アメリカ独立戦争に際しては、アメリカの独立のために様々な活動をした。その中でも、これからみていくように、この独立革命に不可欠なあの公文書を起草した。国務長官や副大統領を経て、激しい大統領選挙戦の末に、1801 ー1809 年に大統領をつとめた。

ジェファソン(Thomas Jefferson)の生涯

 ジェファソンはイギリス植民地だった北米ヴァージニアの大農場主の家に生まれた。10代の半ばで父が没し、財産を相続した。牧師のもとでフランス語やラテン語、ギリシャ語の初歩を学んだ。

 1760年にウィリアム・アンド・メアリー大学に入った。1762年に卒業し、弁護士事務所で見習いとなった。1767年には、独立した弁護士となった。奴隷をめぐる裁判などを担当した。

 政治家としての活動:アメリカの独立運動へ

 1769年から、政界にデビューした。ヴァージニアの植民地議会の議員に選出され、74年までつとめた。当時、北米植民地はイギリスからの課税や法律に強く反対していた。1770年のボストン虐殺事件などが起こり、反イギリスの気運が高まっていた。ジェファーソンはこの運動の指導者の一人として活動した。

 その一環で、1773年には、北米植民地を連携させるために通信連絡委員会を発足させた。さらに、74年には、『ブリテン領アメリカの諸権利の概観』を公刊した。

 そこでは、イギリスが北米植民地の権利を侵害し、この植民地を隷属させようとしているとして、イギリス本国に反旗を翻すべしと論じた。このように、著述によっても独立運動を推進し、名声を得た。

 1775年、アメリカ独立戦争が開始された。同年に第一回の大陸会議には、ヴァージニア代表として参加した。

 アメリカ独立戦争:アメリカ独立宣言の起草

 1776年、ジェファソンは第二回の大陸会議にも同様に出席した。ここで重要なことは、ジェファソンがジョン・アダムズやベンジャミン・フランクリンらとともに、起草委員に任命されたことである。

 ジェファソンは最初の独立宣言草稿を起草することになった。ジェファソンはだいたい2週間ほどをかけて初稿を完成させた。これが同委員会で審議された。文書の長さは当初の四分の三ほどに短縮されたが、根本的な内容はあまり変更を受けなかった。最終的に、独立宣言は同年4月に公布された。

 その後、ジェファソンはヴァージニア州議会に拠点を戻した。同年からヴァージニア州の法律を改正する事業に着手した。宗教の自由に関する法律が有名である。

 1779年からも、ジェファソンは重要な役職を歴任した。まず、81年まで、ヴァージニア邦知事をつとめた。その頃には大学教育の改革などに打ち込んだ。83ー85年には、再び大陸会議の代表となった。 85ー89年には、フランス駐在公使に任命された。アメリカ独立戦争で支援者となっていたフランスとの友好関係の維持につとめた。

 アメリカ合衆国の中枢へ

 周知の通り、アメリカの初代大統領にはジョージ・ワシントンが選出された。そのもとで、1790ー93年、ジェファソンはアメリカの初代国務長官をつとめた。

 誕生したばかりのアメリカ合衆国では、国のかたちをめぐって二大勢力が対立していた。連邦制度の推進するアレクサンダー・ハミルトンにたいして、ジェファソンは連邦制反対の勢力を主導した。ハミルトンらがそのために『ザ・フェデラリスト』を公刊したことは有名である。

 ワシントンが引退した後、ジェファソンは第二回アメリカ大統領選挙に出馬した。だが、アダムズが勝利して大統領に就任した。当時の規定により、得票率で第二位のジェファソンは副大統領をつとめた(1797ー1801)。

 1801年の大統領選挙で、ジェファソンはアダムズに勝利し、第三代大統領に就任した。

 大統領として

 ジェファソンはアダムズらの連邦主義者と敵対する政策を実施した。アメリカ独立後、ワシントンとアダムズの政権のもとで、アメリカ政府は強力な国家構築を目指し、合衆国銀行や司法制度などの様々な制度を設立していた。

 だが、ジェファソンはこの流れを頓挫させた。たとえば、海軍と陸軍の予算を削減し、国債を廃止した。合衆国銀行の特許延長に反対したため、これも廃止されることになる。とはいえ、これまで設立されてきた国家制度の全てを廃止したわけではなかった。

 ジェファソンは領土の拡張政策を推進した。1804年には、第一帝政のフランスから、北米のルイジアナ植民地を安値で購入するのに成功した。その結果、アメリカ合衆国の領土は二倍になった。

 その後も、北米大陸の探検者が次々と現れ、アメリカ合衆国は西部へと拡張を試みていく。この時期には、アメリカの主な政治的争点は債務返済から開発に移っていった。

 ジェファソンの時代に、アメリカの政党政治が発展していく。 1807年、イギリスとフランスがアメリカの船舶に攻撃を仕掛けていた。ジェファソンはその報復措置をとった。

 これへのさらなる報復措置によって、アメリカは大西洋貿易から締め出されることになった。アメリカの北部諸州は経済的には大西洋貿易に大きく依存していたので、大打撃を受けた。経済的な苦境により、政府への不満が高まり、投票に行く人が増えた。

 外交政策では、ジェファソンはナポレオンとの関係で頭を悩ませた。上述のように、フランスはかつてアメリカ独立戦争を支援した。そのため、アメリカはフランスに恩義があった。

 その後、1789年にフランス革命が生じた。周辺国がこの革命を妨害すべく、干渉戦争を開始した。だがフランスはこれに耐えた。さらに、ナポレオンのもとで、反転攻勢に成功していった。

 ジェファソンが大統領になった頃には、フランスが周辺国を次々と降伏させ、イギリスと対決していた頃だった。独立して間もないアメリカには国内の諸制度の整備など、多くの解決すべき問題があった。そのような中でフランスに味方すべきかどうか。様々な立場と利害関係の渦巻く中で、ジェファソンはどうにか中立政策を貫いた。

 晩年

 1809年に大統領の任期を終えて、政界を引退した。その後は、ヴァージニア大学を創立するなど、教育に貢献した。また、アメリカ哲学協会の会長を長くつとめた。

ジェファソンと縁のある人物

●ジョン・アダムズ:ジェファソンの政敵で、大統領選挙で競い合ったライバル。最初はアダムズが勝利して第二代大統領になった。その後はジェファソンが勝利し、アダムズの政策を転換していった。そのため、ジェファソンの時代を理解するにはアダムズの政策を理解するのが望ましい。

アダムズの記事をよむ

●アレクサンダー・ハミルトン:建国期のアメリカの政治家。『ザ・フェデラリスト』を公刊し、合衆国憲法の成立に尽力した。財務長官をつとめ、国立銀行を設立するなどして、幅広く活躍した。
ハミルトンの記事をよむ

トマス・ジェファソンの肖像画

トマス・ジェファソン 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

明石紀雄『トマス・ジェファソンと「自由の帝国」の理念 : アメリカ合衆国建国史序説 』ミネルヴァ書房, 1999

Thomas S. Kidd, Thomas Jefferson : a biography of spirit and flesh, Yale University Press, 2022

Paula Baker and Donald T. Critchlow(ed.), The Oxford handbook of American political history, Oxford University Press, 2020

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