ナントはフランスのブルターニュ地方の主要都市です。ナントはフランスで歴史的に決定的な役割を果たしてきたといえます。産業や商業で発展してきた街であり、いまでもこの地域を支える活気のある都市です。歴史情緒ある地方の都市空間を形成しています。この記事では、ナントの歴史を紹介します。
ナントの歴史
ナントの歴史を時系列に沿って紹介していきます。
都市ナントの形成
古代ローマの時代、ナントはガリア人のナムネート族によって建設されました。ナントの都市名はこの民族の名前に由来しています。ナントはローマ帝国に組み込まれ、この地域の政治と交易の中心地として栄えました。
5世紀、ゲルマン人の大移動の影響で、西ローマ帝国が滅びました。ナントは西ゴート族などの侵略を受け、荒廃しました。9世紀には神聖ローマ帝国の創設者カール大帝がこの地域を征服し、ナントを支配下に置きました。
その後、ノルマン人の支配下に置かれました。ノルマン人が追い出された後、イギリスがナントへの進出を目論みました。12世紀、イギリスはナントの位置するブルターニュへと支配を拡大していったのです。
ブルターニュ公国での発展
13世紀には、ブルターニュ公がフランス王のもとでブルターニュ公国を統治しました。ナントはこの公国の一部であり、二番目の主だった都市となりました。14世紀には、ブルターニュ公国の継承戦争が生じました。その後、ブルターニュ公国は事実として独立国としてふるまいます。ナントはそのもとで繁栄しました。
15世紀後半、最後のブルターニュ公のフランソワ2世がこの公国を統治していました。彼はフランス王との対決のために、ナントに要塞を建設しました。これは同時に居城でもあり、ブルターニュ公爵城として知られています。
かくして、ナントが公国の中心地となります。イギリス王などと同盟を結びながら、権勢をふるいました。地の利を活かして、塩や織物などの貿易でも栄えました。
フランスへの統合
フランソワ2世の死後、娘のアンヌはフランス王シャルル8世と結婚しました。イタリア戦争を開始したことで有名な王です。しかし、シャルルは間もなく没します。アンヌは次にフランス王ルイ12世と結婚しました。その結果、ブルターニュ公国領はフランス王のものになりました。よって、ナントも同様です。
フランス宗教戦争とナントの勅令
16世紀前半、ドイツではルターの宗教改革が始まりました。これは従来のカトリック教会とは異なるキリスト教の集団を生み出しました。これはプロテスタントと呼ばれています。ヨーロッパの各地でプロテスタントの活動が活発になりました。
ドイツではカトリックとプロテスタントの宗教戦争が起こりました。同様に、16世紀後半にはフランスでも宗教戦争が起こります。
この戦争の中で、フランス王権は長らくカトリックを支持し、プロテスタント諸侯と戦いました。同時に、過激派のカトリック諸侯をも抑えこむ必要がありました。情勢が大きく動いていったのは1589年です。フランス王アンリ3世が暗殺されたのです。
後継者のアンリ4世はそれまでの王と異なり、プロテスタントの信仰を抱いていました。プロテスタントのフランス王の誕生を防ぐために、当時の大国スペインがフランスのカトリック諸侯を支援します。後者はカトリック同盟を結成し、アンリ4世と激しく戦いました。フランスはそれまでの戦争でかなり疲弊していました。
アンリ4世は王国の平和のために、ある決断をします。1593年、プロテスタントの信仰を棄て、カトリックに改宗したのです。そのうえで、プロテスタント諸侯には信仰の実践を保証して安心させました。アンリ4世はフランス全体を再び王権のもとに置くために、戦争と交渉を続けました。
アンリ4世に最後まで対抗したのがブルターニュ総督メルクール公であり、その拠点がナントでした。メルクール公はカトリック同盟のために戦っていました。1598年、ついにアンリ4世に服従しました。ナントは門をアンリ4世に開き、その支配下に置かれました。同年4月、世界史で有名なナントの勅令がアンリ4世によって署名されました。
カルヴァン主義のプロテスタントにも一定の信仰の実践と市民としての平等などを認めた勅令です。この勅令により、フランス宗教戦争は幕を閉じました。それほどの重要な勅令がナントで出されたのは、このような背景があったのです。ナントの名前が歴史的にもっとも知られているのはこの勅令によってでしょう。
17世紀:ナントの勅令の「その後」
17世紀、フランスは絶対王政の時代を迎えました。
絶対王政の象徴といえば、国王ルイ14世です。ルイ14世は17世紀後半に実権を握り、様々な重臣を使いながら、自ら政策を決定しました。その一つが1685年のフォンテヌブローの勅令です。この勅令によって、ナントの勅令は廃止されました。
実のところ、フランスのプロテスタントへの取り締まりや弾圧は17世紀前半には再開され、徐々に厳しさを増していました。この流れがフォンテヌブローの勅令で確定的となり、フランスではプロテスタントは信仰の実践が困難になりました。その結果、多くのプロテスタントが国外へ亡命しました。主な亡命地はオランダでした。
この勅令が一因となり、フランスは周辺国との同盟軍との戦争を強いられます。戦費の増大などにより、絶対王政フランスは衰退していきます。
大西洋貿易での繁栄
17世紀、フランスは当時の強国オランダなどのように、海洋帝国を築こうとしました。そのために、カリブ諸島への進出を企て、成功していきます。この地域での貿易は長らくフランス王権によって規制されていました。
しかし、18世紀前半、この貿易が自由化されました。これにナントの海洋商人が本格的に参加するようになりました。アフリカとカリブ諸島とナントの間で、黒人やタバコと砂糖などの三角貿易が成立しました。
ナントはこの貿易で莫大な富を築いただけでなく、これらの貿易品の加工や造船業でも大いに潤いました。ナントは植民地時代のフランスの主要港となったのです。このような貿易はフランスで奴隷制が廃止される19世紀前半まで続きます。
しかし、今日では奴隷貿易による繁栄という過去は批判的に理解されるようになっています。
フランス革命での悲劇
1789年、フランス革命が起こりました。革命政府がフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑したことで有名な革命です。
この時期のナントについては、悲劇的な逸話が知られています。革命派の公安委員会のジャン=バプティスト・キャリエがナントに派遣されました。1793年、パリでロベスピエールの恐怖政治が行われた頃、ナントではキャリエが同様に過酷な弾圧を行いました。
フランス革命の恐怖政治といえば、ギロチンによる大量処刑が有名です。従来の火刑による処刑では、一人の処刑に数時間がかかっていました。ギロチンはこの所要時間を大幅に短縮させました。そのため、ギロチンの導入によって短時間で大量の処刑が可能になり、恐怖政治が成立することになりました。
ところが、キャリエはギロチンでは処刑に時間がかかりすぎると考えました。ギロチンのかわりに、集団で溺死させるという方法を案出しました。ナントはこのような暴君のもとで恐怖政治を味わったのです。
20世紀
20世紀に入り、ナントは都市の再開発を進めていきます。芸術では、シュールレアリズムの芸術家を惹きつけました。二つの世界大戦を乗り越えました。戦後、ロワール地方の主要な都市として発展していきます。
サービス業のみならず工業も盛んです。食品や造船業、機械や電気製品などの生産、バイオテクノロジーなど多種多様です。人口は30万人ほどです。
以上がナントの歴史です。これをふまえたうえで、ナント旅行の魅力を紹介します。
フランスの都市の歴史と観光
☆リヨン:フランス第3の都市。フランス南東に位置し、絹織物産業や貿易で発展してきました。スイスやイタリアなどと近いため、それらの国との深い交流から様々な影響を受けてきました。世界中の織物作品を集めた稀有な博物館があります。
☆マルセイユ:フランス第2の都市。2500年前からアフリカ西岸や北欧などと貿易を始めた地中海貿易の主要都市です。現在では工業や金融などの面も発展し、フランスを支えています。海外からの移民を長らく受け入れてきたため、フランスでありながらアフリカなどの異国情緒を感じさせる独自の魅力を備えています。
おすすめ参考文献
藤井真理『フランス・インド会社と黒人奴隷貿易 』九州大学出版会, 2001
阿河雄二郎『近世フランス王権と周辺世界 : 王国と帝国のあいだ』刀水書房, 2021
Olivier Pétré-Grenouilleau, Nantes, Palantines, 2003