中世ヨーロッパでは、魔女狩りや魔女裁判が行われた。それはいつからどのように本格化していったのか。どのような特徴をもっており、異端審問とはどのような関係にあったのか。この記事では、中世の魔女裁判について説明していく。
なお、魔女狩り・魔女裁判については、次の記事もある。
魔女裁判や魔女狩りはいつから始まった?
西洋では、魔女にかんする信仰はすでに古代から存在していた。だが、魔女裁判がいつから始まったかを厳密に特定するのは難しい。
魔女への信仰はすでに古代から存在していた。魔女の観念も時代と場所によって内容が様々であるので、魔女裁判の始まりを特定するのは一層難しいといえる。
それでも、魔女裁判の本格的な時期がいつ始まったかについては、おおむね通説が形成されている。それは1400年代である。この本格的な時期は1400−1750年頃だと考えられている。
この記事は中世の魔女裁判について説明する。そのため、主に1400年代の魔女裁判や魔女狩りを扱う。1500年代−1750年の近世の魔女裁判については、別の記事で扱う。
魔女狩りや魔女裁判はなぜ起こったか?その原因
1430年代に魔女裁判の嵐が吹き荒れた。その原因としては、いくつか指摘されている。
まず、この時期の天候不順である。この時期のヨーロッパはいわゆる小氷期だった。気温が全体的に下がったため、凶作となり、農作物の収穫量が減った。栄養状態が悪化し、病気が蔓延しやすくなった。このような社会不安やストレスなどが魔女狩りの一因とされる。
特に、魔女が魔術で天候を操り、農作物を破壊すると信じられていた点がここで関連してくる。魔女がどのような罪をいわばなすりつけられたのかは後述するが、その一つは嵐などを引き起こして農作物をダメにしてしまうことだった。
実際には小氷期の特殊な天候によって農作物が育たなかったのだとしても、その特殊な事態が魔女の仕業だとされた。
魔女とは何者か:ローザンヌのパラダイム
15世紀ヨーロッパの魔女裁判を理解する上で、そもそも魔女とはどのような人物を指したかを理解することは重要である。なぜなら、魔女の具体的な特徴は魔女を裁判で有罪と断じて罰する根拠としばしば結びついたためである。
この時代、魔女のイメージについてはいくつかのモデル(パラダイム)が存在した。その中でも特に重要とされてきたのが、スイスのローザンヌ地方のモデルである。
特徴
魔女の具体的な特徴は次の通りだ。
・魔女は悪魔が人里離れた場所で開催する集会に出席する。ほうきに乗って空を飛んだり瞬間移動したりして、そこに参加する。このような悪魔と魔女の秘密集会は「サバト」と呼ばれる
・キリスト教の信仰を放棄し、冒涜し、悪魔を崇拝する
・悪魔から有害な魔術(黒魔術)を学ぶ
・悪魔の命令で、秘密裏に人間や家畜や農作物に対して邪悪な行為を行い、それらを破壊したり滅ぼしたりする
・子供を殺し、その遺体を魔女の集会に持ち込んで食べさせ、その遺体から秘薬をつくる
・魔女の集会で性的乱交にひたる。悪魔とも性交渉をおこなう
・悪魔と契約を結び、キリスト教社会に敵対する新たな異端である
異端や異端審問との関係
中世の魔女裁判は異端審問と密接な関係にあると長らく論じられてきた。よって、魔女裁判と異端審問は一つの大きなテーマと考えられてきた。
異端審問は中世カトリック教会の制度である。ドミニコ会という修道会が主に異端審問官を担当した。キリスト教徒の異端を摘発し、裁く制度である。
ローザンヌの公文書などでは、魔女は異端者と呼ばれた。さらに、ヴォードリー(Vauderie)という用語が魔女に使われるようになった。これは後期中世の異端のワルドー派と同じ単語であった。
だが、ここで注意が必要である。魔女たちはワルドー派のような特定の異端のセクトと関係づけられたわけではなかったことだ。なぜなら、魔女裁判の尋問等において、魔女たちはワルドー派やカタリ派のような異端であるかを特定するための質問を受けなかったためである。
魔女たちは当時の体制的な宗教となっていたキリスト教に敵対する者という意味合いで、異端と呼ばれていた。魔女たちを取り締まったのが異端審問官だったのも、魔女たちが異端と呼ばれた理由の一つだろう。
異端や魔術との関連で断罪された著名な人物
中世において、異端審問や魔女裁判は有力者にたいする政治裁判の性格を帯びることがあった。たとえば、14世紀初頭のテンプル騎士団に対する裁判、トロワのギシャール司教に対する裁判、アンゲラン・ド・マリニーに対する告発(ネールの塔事件)などがそうである。最も有名なのはおそらく、15世紀フランスのジャンヌ・ダルクだろう。
14世紀には、民衆の魔術よりもむしろ儀式的魔術や学問的魔術が魔女として糾弾される傾向にあった。15世紀から、民衆の魔術がその標的となっていく。
それとともに、禁断の魔術の実践者とみなされた者は博識な男性から文盲な女性へと変わっていった。よって、「魔女」となる。ただし、16世紀以降も、一定数の男性が「魔女」(ウィッチ)として裁かれた。
魔女裁判にかんする著作と魔女裁判の相互影響
ローザンヌのモデルは1430年代以降のローザンヌなどでの史料に基づいて形成された。史料を作成したのは当時の異端審問官や神学者、法学者である。
15世紀スイスの異端審問官は、そもそも魔女とはどのような人物であるか、なぜ魔女は有害であり、それゆえ処罰に値するかなどを考察し、本として公刊した。
彼らはその内容が異端審問での魔女の供述や、他の裁判事例から収集した情報に基づくと主張した。ただし、実際の裁判報告の内容には合致しない部分も多いと指摘されている。
これらの魔女に関する著作は当時の魔女裁判に一定の影響を与えた。たとえば、彼らの本は、現在進行形で行われている魔女裁判がなぜ適切あるいは必要なのかを論じた。すなわち、魔女裁判を正当化し、推進した。さらに、魔女裁判のための取り調べはどのような手順で行うべきかをも示した。
翻って、そのような裁判の実例がそのような著作の内容に反映されていく。たとえば、魔女裁判を担当した裁判官たちが魔女について語った内容が、部分的にであれ、それらの著作で論拠として採用された。
かくして、魔女(裁判)の著作と実際の魔女裁判は相互に影響を与えあった。よって、魔女裁判の著作は魔女裁判自体の原因の一つであった。
魔女裁判の著作の例
たとえば、クロード・トロサンの論考である。彼は法学博士であり、10年間で約100件の関連裁判をドーフィネ地方で行った。トロサンによれば、告発された魔女たちは、悪魔的な宗派に属していた。トロサンは魔女の夜間飛行を幻想とみなした。
だが、トロサンの説明では、サバトの集会は現実であり、極悪な犯罪である。そこにおいて、魔女たちはさらってきた子供を焼いたり茹でたりして食べた。悪魔の助けを借りて、人や動物を殺したり農作物を破壊したりできる秘薬をつくった、と。
悪魔学
15世紀前半に魔女裁判や魔女狩りが活発化するとともに、その理論的な正当化の試みに拍車がかかる。そこで登場したのが、15世紀なかばの一連の悪魔学の著作だった。
悪魔学者のほとんどは神学者あるいは異端審問官であった。ジャン・ヴィネやニコラ・ジャキエらが知られている。彼らは新しいサバトの考えを、従来のキリスト教の悪魔学の枠組みに組み込もうとした。
彼らはスコラ哲学的な理論の道具を用いた。聖書、教父、アウグスティヌス、アクィナスのような神学者などを典拠とした。
これらの悪魔学の著作は、しばしば魔女裁判の結果として作成された。これらは魔女裁判の規範的枠組みを作り、魔女狩りを正当化することを目的としていた。
それらは魔女の極悪非道さを強調し、極刑の必要性を訴えた。そこでは、魔女の実在性などの論拠は、実際の魔女裁判での自白の供述だった。
魔女裁判の進め方
スイスの例では、魔女裁判はドミニコ会の異端審問官が行った。尋問の手順が次のように定式化される傾向にあった。
まず、魔女として訴えられた被告人は以前に魔術で中傷されたことがあるか、魔女が行うと言われていることを知っているかを尋ねられた。
次に、異端審問官によって、魔女としての罪を自白するよう促された。異端審問官は彼女たちが魔女になった動機に関心を向けた。同時に、彼らは魔女の共犯者の名前を聞き出そうとした。
この時期の異端審問官は拷問を多用した。それは次のような場合だ。魔女の被告人が十分な自白をしなかった場合や、期待された証言をしなかった場合である。自白した内容の一部が揺らいだり撤回されたりした場合や、共犯者の名前を挙げられなかった場合もそうである。
魔女の被告人はなにを「自白」したのか。それは被告人がまさに魔女だといえるような行いをしたということである。たとえば、次のとおりである。
悪魔が人間または獣の姿で魔女の前に現れたこと、魔女が悪魔に身を捧げたこと、キリスト教の教えを否定し、冒涜したこと。魔女たちの集会に参加したこと、その集会には魔術によって移動したこと(瞬間移動など)、幼児を殺害し食べたこと、魔女や悪魔との性的乱交。悪魔の命令で、人間や家畜、農作物などに危害を与えたこと。
以上のようなことが、ローザンヌ・モデルの魔女裁判の特徴であった。
ローザンヌ・パラダイムの限界
以上のようなローザンヌのモデルがその後も発展していきヨーロッパの各地で広まった、と想定したくなるかもしれない。だが、実際にはそうならなかった。むしろ、このモデルは縮小していった。この点は、別の記事で説明することになる。
しかも、15世紀の時点でも、ローザンヌ・モデルとは別のモデルが存在した。しばしば指摘されるのはイタリアのものだ。
イタリアの魔女はストレガと呼ばれた。ストレガは他人の家に侵入し、その血を吸うことによって幼児を殺すといわれた。ローザンヌ・モデルの魔女と異なり、ストレガは魔女の集会を行ったり、子どもを食べたりするとは考えられなかった。
魔女の信仰や裁判への批判
15世紀の時点でも、以上のような魔女の信仰や裁判への批判は生じていた。魔女の信仰自体が迷信だと批判された。さらに、魔女が実在するので告発すべきだという考えも迷信的だとして批判されていた。
魔術自体が断罪されたわけではないこと
もう一点、知っておくべきことがある。中世において、あらゆる魔術が断罪されたわけではなかったことだ。いわゆる黒魔術がその対象だった。
たとえば、病気を治すため、未来を知るため、失くしたものを見つけるため、豊作をもたらすための魔術は断罪されなかった。それどころか、民衆から王侯貴族まで、多くの人々によって頼りとされていた。
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おすすめ参考文献
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Brian P. Levack(ed.), The Oxford handbook of witchcraft in early modern Europe and colonial America (Oxford, 2014)
池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』岩波書店, 2024
黒川正剛『図説魔女狩り』河出書房新社, 2024