メッテルニヒはオーストリアの政治家(1773―1859)。フランス革命への反動主義やウィーン会議の主宰者として知られる。オーストリア宰相も長くつとめた。ナポレオン戦争後に、ウィーン体制を構築し、主導した。
ウィーン体制は19世紀前半から半ばまでのヨーロッパの国際秩序であった。よって、その主導者たるメッテルニヒの生涯と功績を知ることで、当時のヨーロッパの国際政治を深く知ることができる。
メッテルニヒ(Klemens von Metternich)の生涯
メッテルニヒは、現ドイツのコブレンで貴族の家庭に生まれた。1788年、ストラスブール大学で政治学を学んだ。1790年、マインツ大学に移った。その後、ブリュッセルに移った。1794年にはウィーンに移り、自然科学や医学を学んだ。
1795年、メッテルニヒはオーストリアの元宰相カウニッツの孫娘と結婚し、上級貴族とのつながりを得た。19世紀に入り、ドレスデンやベルリンでオーストリア大使をつとめた。
ナポレオン戦争の中で
1806年、メッテルニヒはフランスでオーストリア大使をつとめた。
この頃、フランスは1789年以降のフランス革命の延長線上にあった。そこで、フランス革命からの流れを簡単に確認しよう。
フランス革命が進展する中で、1792年、オーストリアはそれを妨害するためにフランスと戦争を開始した。
フランスは当初劣勢だった。だが、ナポレオンらの活躍により、巻き返しに成功していく。フランスはオーストリアなどの攻撃に耐えきったのみならず、逆にそれらの周辺国の征服に着手した。
フランス国内では、ナポレオンがクーデターを起こして実権を握った。1804年には、ナポレオンは皇帝ナポレオン1世となった。フランスは帝政に移った。
メッテルニヒはフランスのタレーランなどと接触し、フランスの政情に精通していった。
1806年、ナポレオンの要求により、神聖ローマ帝国が消滅した。最後の皇帝フランツ2世はハプスブルク家の当主でもあった。よって、オーストリアやハンガリー、ボヘミアなどの君主でもあった。フランツは1804年にはオーストリア帝国を樹立した。
そのかわりに、神聖ローマ帝国の再生をあきらめ、1806年に崩壊させたのである。 1809年、メッテルニヒはフランツ2世によって、オーストリアの外相に任命された。オーストリアの皇女マリ・ルイーズとナポレオン1世の政略結婚を成功させ、フランスとの友好関係を築いた。
ナポレオン戦争の終結へ
ナポレオンは周辺国への戦争を継続した。1812年、ナポレオンはロシアへの進軍を開始した。ナポレオン軍が劣勢に置かれていった。
そのような中で、当初、メッテルニヒはオーストリアの中立路線を保った。だが、1813年、対フランスの連合軍側に味方し、フランスとの戦争を開始した。
その後、1814年のワーテルローの戦いをへて、ナポレオンは敗北し、コルシカ島に流された。
ウィーン会議とウィーン体制
1814年、ナポレオン戦争を終わらせるために、ウィーン会議が開かれた。メッテルニヒは議長をつとめた。正統主義と勢力均衡にもとづいて、ヨーロッパ秩序を再建しようとした。
ウィーン会議の結果、いわゆるウィーン体制が構築されていった。これはヨーロッパの新しい集団安全保障システムであり、メッテルニヒによって主導された。そこでは、オーストリアはロシアとプロイセンなどの拡張主義を抑制した。
同時に、メッテルニヒはイタリアなどのナショナリズム運動や自由主義運動も抑制した。そのため、保守主義や反動主義と評されている。メッテルニヒは1820年から1822年には、この枠組みにおいて会議外交を展開し、国際的な名声を一層高めた。
その頃、1821年、オーストリアの宰相にも選ばれた。ただし、1826年、コロブラートが要職につき、次第に影響力を強めていった。そのため、1830年代には、メッテルニヒの実質的な権限は内政問題については徐々に弱められた。なお、ウィーン体制に関するメッテルニヒの評価は後に詳述する。
フランスの2月革命:失脚から亡命へ
1848年、フランスで2月革命が起こった。この影響が周辺国に波及していった。オーストリアの各地で反乱が生じた。メッテルニヒはすでに反動主義の象徴として国際的に憎まれるようになっていた。
同年、2月革命の影響で、メッテルニヒは辞職を余儀なくされた。イギリスに亡命した。だが、後述のように、この革命の波によってウィーン体制が崩壊したわけではなかった。
1851年に帰国し、1859年に没した。
メッテルニヒの功績:その評価
メッテルニヒはヨーロッパ全体のウィーン体制の主導者である。同時に、オーストリアの宰相であった。メッテルニヒからすれば、ウィーン体制はなによりもオーストリアの国益に資するシステムだった。よって、メッテルニヒの評価においても、オーストリアを中心にみていくべきだといえる。
性格
その前に、まず彼の性格をみてみよう。メッテルニヒは名誉を重んじ、虚栄心が強いともいえる人物だった。権力欲が強く、権力への鋭い直感を持っていた。だが、それを露骨に示さなかった。
彼は世俗っぽく、安っぽい雰囲気を醸していた。魅力的な女性に目がないようなそぶりもみせた。それらが彼の権力欲をカモフラージュした。計算高く、頭脳明晰であった。
国内の再建
ここから、メッテルニヒの功績をみていこう。
メッテルニヒはウィーン体制によって、40年間ほどヨーロッパの大国間の戦争を抑止するのに成功した。この戦争抑止によって、オーストリアの国内再建に大きく貢献した。この点からみていこう。
上述のように、オーストリアは1792年からフランス革命への干渉戦争を開始した。1815年にナポレオン戦争が終わる頃には、戦争の費用や被害、 インフレや農業の混乱などによって、国内が疲弊しきっていた。
国内の再建には長い時間がかかると見込まれた。そのためには、長期の平和が必要だった。実際に、1820年代に至るまで経済不況が続くことになる。
他方、オーストリアは中央ヨーロッパに位置し、広大な領地を有した。よって、どの大国とも戦争のリスクが常にあった。だが、これ以上の戦争はオーストリアを経済的に破綻させてしまう。そのため、長い平和が一層求められた。
メッテルニヒはウィーン体制によってこの平和を実現した。その結果、1815年以降、国防費を大幅に削減することができた。 さらに、メッテルニヒは要塞や拠点防衛のシステムを洗練させることで、兵力をさらに削減できた。
たとえば、イタリアでは、陸軍の駐屯兵は1830年頃に10万人ほどだったが、1846年には5万人ほどになった。オーストリアのイタリア領はオーストリアの税収の4分の1以上をもたらす重要な地域だった。メッテルニヒはその維持費をこれほど削減するのに成功した。
東方では、ロシアやプロイセンらとの同盟によって、これらの軍事力を利用できた。その分だけ、オーストリアは自身の軍事費を削減できた。
広大なオーストリア帝国を自国の軍事力だけで守ろうとすれば、莫大な軍事費がかかる。自身の軍事費によって、その重みによって、帝国は潰れてしまう。メッテルニヒはウィーン体制によって軍事力行使の必要性を大幅に引き下げ、その重みを軽減した。
その結果、オーストリア経済は1815年以降の数十年間で、大幅に回復した。1820年代後半には、それまでの不況から脱した。
この時期、イギリスではすでに産業革命を経験していた。蒸気機関と工場での大量生産はヨーロッパ大陸にも普及していった。オーストリアにもその波が到達した。
オーストリアでは、織物業などで機械化が進み、生産高が増加した。この過程は人口増加と並行して進行した。農業部門の改善が人口増加と高い経済成長を後押しした。さらに、産業革命による交通革命(鉄道など)が経済発展を後押しした。
その結果、オーストリアの工業生産高は急増し、2.5~3.3%という高い成長率に達した。これは当時のフランスやイギリスよりも高かった。オーストリアもまた近代的な経済成長(人口増加と経済成長が並行するもの)に至った。
メッテルニヒはウィーン体制の構築によって、このようにオーストリアの国内再建に大きく寄与したと評されている。
ヨーロッパの集団安全保障システムの構築
上述のように、メッテルニヒはヨーロッパの新たな集団安全保障の体制としてウィーン体制を構築した。これは40年間ほど、大国間の戦争を予防するのに成功した。さらに、1914年の第一次世界大戦まで、100年間ほど、ヨーロッパ全体を巻き込むような戦争を予防したともいえる。
この体制は勢力均衡や緩衝地帯の維持、要衝地の要塞化などによって維持された。
メッテルニヒのオーストリアはこの体制を主導した。しかも、軍事力がイギリスのような大国よりも弱いにもかかわらず、主導国となったのである。オーストリアは軍事力に見合わないほど大きな影響力を国際政治で維持できた。これはメッテルニヒの卓越した外交力が称賛される理由でもある。
メッテルニヒの交渉術:会議は踊る
外交でのメッテルニヒの交渉術としては、時間を管理する巧みさが指摘されている。より具体的には、特に軍事的に強い相手に対して優位に立つために遅延を利用した。
たとえば、ウィーン会議においても、メッテルニヒは遅延戦術をとった。ウィーン会議は1814年に始まった。ナポレオンが一時的に失脚した中で、会議が進められた。当事国の利害は対立し、オーストリアの利益確保が難しい状況だった。
同年、ナポレオンはコルシカ島を抜け出し、パリに戻ってきた。再びフランスで実権を握った。いわゆる100日天下である。情勢が素早く、大きく変わっていった。当事国はこの中で決断を迫られていった。
そのような状況で、メッテルニヒはウィーン会議でオーストリアの利益を確保すべく、様々な交渉を続けた。その際に、時間を稼いで相手を焦らせるなどの手法が有効となった。
そのために、たとえばメッテルニヒは病気になったと言って会議を長期で欠席した。あるいは、会議上での貴族たちの恋愛に意図的にスポットライトをあてて、当事者の関心がそちらに向かうよう仕向けた(ウィーン会議は大勢の貴族が出席していた)。「会議は踊る、されど進まず」はこの遅延戦術の結果でもあったのだ。
軍事力も重要
ただし、メッテルニヒのもとでも、軍事力は一定の重要な役割を果たした。その背景として、オーストリアはウィーン会議後に領土が大幅に増えた。ナショナリズム運動が活発となっていく時代に、これを維持するためには外交だけでは不十分だった。そのために、一定の軍事力を必要とした。
上述のように、軍事力とコストは縮減せざるをえなかった。そのため、オーストリアは要衝地を要塞化するなどして、軍事力を高めた。実際に、ナショナリズム運動の鎮圧などにおいて、軍隊を用いた。
1848年の2月革命と連動する諸反乱:ウィーン体制の崩壊?
上述のように、1848年、フランスで2月革命が起こった。この革命の波が周辺国に波及していった。特に、オーストリア・ハプスブルク帝国においては、革命の波はイタリアやボヘミア、ハンガリーやウィーンをも席巻した。その結果、上述のように、メッテルニヒは失脚し、亡命を余儀なくされた。
そのため、1848年の革命の波はウィーン体制を崩壊させたとしばしば考えられてきた。しかし、この見方には有力な批判がみられる。
たしかにメッテルニヒというウィーン体制の主導者を失うことで、この体制は大きな打撃を受けた。だが、以下のように、1848年の荒波を乗り切ることができたのである。
1848年の革命の波において、オーストリア・ハプスブルクは自身の複数の領地での戦いをバランスよく行うという課題に直面した。複数の地域で同時に反乱が生じたためだ。
その際に、オーストリアは軍事費で財政破綻しないよう、軍事作戦を管理する必要があった。具体的には、まず最も弱く差し迫った敵に戦力を集中し、鎮圧した。同時に、その他の地域では、ウィーン体制で築いた要塞システムで時間を稼ぐことができた。このような仕方で、標的を順番に倒していった。
イタリアでは、反乱軍がオーストリア領のミラノを陥落させ、ロンバルディア-ヴェネチアの町々が武装蜂起した。それでも、オーストリア軍は要塞を用いて、この攻撃に耐えた。
その間に、1848年6月、オーストリアはプラハでの反乱を鎮圧した。7月には、イタリアで反転攻勢に出て、反乱側のサルデーニャ軍を撃破するのに成功した。その後、ウィーンでの反乱を鎮圧した。その間、オーストリアの外交官たちは時宜を得た宥和策を用い、時間稼ぎに成功した。
ついに、オーストリアは最も強力な敵のハンガリー軍に戦力を集中できるようになった。その際に、神聖同盟のもとで、ロシアは20万の軍隊をハンガリーへとオーストリアの援軍として送り込んだ。 オーストリアはハンガリーの反乱をも鎮圧した。
かくして、オーストリア・ハプスブルクは1848年の革命の荒波をすべて乗り越えた。たしかに、メッテルニヒという主導者を失ったのは大きな痛手だった。だが、メッテルニヒのウィーン体制は存続するのに成功したのである。
以上のように、メッテルニヒはナポレオン戦争後のオーストリアの再建と発展およびヨーロッパの集団安全保障体制の構築において大きな貢献をした。それは1848年の革命の波を乗り越えられるほどのものだった。
メッテルニヒの肖像画
おすすめ参考文献
堀越孝一編『西洋編』清水書院, 2018
M. Wess, The Grand Strategy of the Habsburg Empire, Princeton UP, 2018