アレクサンダー・フォン・フンボルトはドイツの博物学者(1769ー1859)。スペイン領の中南米植民地やロシアで大規模な科学調査旅行を行い、近代的な地理学や生態学などで業績を残した。主著には『 コスモス』がある。自然科学の関心だけではなく、植民地社会への社会的関心も抱いた。これからみていくように、あの革命家に直接会い、影響を与えることになる。
フンボルト(Alexander von Humboldt)の生涯
アレクサンダー・フォン・フンボルトはドイツのベルリンで軍人の家庭に生まれた。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟である。アレクサンダーは家庭教師のもとで学んだ。カントの元教え子のヘルツや植物学者ウィルデノウから学んだ。
1787年、アレクサンダー(以下、フンボルト)は公務員となるべくフランクフルトに移り、法学や経済学を学んだ。だが、身にならなかったようである。ベルリンに戻った。植物学に興味をもつようになり、植物標本の収集などを行った。
1789年、フンボルトはゲッティンゲン大学で学んだ。そこでは、探検家のゲオルグ・フォスターと知り合った。フンボルトはとくに鉱物学に関心を抱いた。
1790年にはフォスターと旅をした。鉱物にかんする著作も公刊した。1791年、フンボルトはフライブルク鉱山大学で学んだ。その後、プロイセン政府の鉱山局につとめた。プロイセン王が所有する鉱山で働いた。
学者としての開花
その頃、弟のヴィルヘルムがイエナ大学で教鞭をとることになった。フンボルトはイエナとワイマールを行き来するようになった。その際に、著名な文学者ゲーテや哲学者シェリングやヘルダー、作家シラーらと交流を持つようになった。
ゲーテとの科学調査
とくに、フンボルトはゲーテとともに活動した。ゲーテは文学者として有名だが、自然科学者の側面ももっていた。たとえば、古代にポンペイを滅ぼしたヴェスヴィオ火山の調査に行ったこともあった。
フンボルトはゲーテとともに自然科学の実験を行った。このような交流の中で、フンボルトは学問への関心をますます深めていった。1797年、母が没したため、フンボルトは多額の遺産を相続した。そこで、1797年に鉱山局を辞して、科学者として生きることを決めた。気象学などを学んだ。
中南米での調査旅行
フンボルトは遠方での科学調査を行いたいと考えた。当初はパリに移り、フランス植民地での科学調査の許可を得ようとした。だが、失敗した。そこでスペインに移動した。
1799年、フンボルトは大きなチャンスをえた。スペイン政府の支援のもと、中南米のスペイン植民地で科学調査を行うことを許可されたのである。
ベネズエラ、キューバ、メキシコ、コロンビア、エクアドルで調査を行った。アマゾンやアンデスの高山地帯などの地域を、徒歩やカヌーや馬で、様々な計器を携えながら移動した。
1804年、フンボルトはアメリカ合衆国に移った。大統領のジェファソンにも会った。奴隷制をめぐって意見をかわした。1805年には『植物地理』を公刊し、ゲーテに献呈した。 パリでの研究
1808年、フンボルトはパリに移った。中南米で収集した科学的探検のデータを用いて、研究に打ち込んだ。生物にたいして外的環境がどのように影響を与えるかなどを分析した。
この時期、フンボルトはスペインの中南米植民地にかんする政治・社会的著作も公刊した。それらの中で、フンボルトはスペイン政府による中南米植民地の統治の問題を指摘し、批判した。
アメリカ植民地の擁護:ボリバルとの出会い
同時に、フンボルトはアメリカ先住民の文化を擁護した。これは当時のヨーロッパの一般的な見方への批判だった。その背景として、18世紀には、アメリカ植民地の先住民はいわば自然人であり、文明や歴史を持たない原始人であるかのような見方がヨーロッパで広く共有されていた。
たとえば、18世紀のフランスで文明社会を批判するために案出された「高貴な野蛮人」の概念がそうである。この流れにたいし、フンボルトはアメリカ先住民の巧みな工芸品などを紹介した。そうすることで、先住民には立派な文化や歴史があり、彼らも真の人間だと示そうとした。
さらに、フンボルトは当時のメキシコが豊かで繁栄していると述べた。これもまた当時のヨーロッパの見方にたいする批判として注目に値する。
その背景として、16世紀に、スペインが大航海時代の流れで中南米を征服し、植民地を築いた。ヨーロッパで最大のスペイン帝国を築き、繁栄を誇った。17世紀以降、イギリスやフランスなどが海外進出を図った。
18世紀には、スペイン帝国が衰退したのに対し、イギリスが海洋帝国の構築に成功し、栄華を極めた。その際に、ヨーロッパではイギリスの成功とスペインの失敗および後進性を対比した。
その証拠として、19世紀には、イギリスの北米植民地が成功しているのに対してスペインの中南米植民地が失敗していると強調された。このような対比はアメリカ合衆国の優位と中南米の失敗として20世紀以降もみられることになる。
だが、フンボルトは18世紀以降にみられた伝統的な見方にたいしても、当時の時点で反論を加えていたのである。
フンボルトはその後も中南米のために論じた。たとえば、キューバの政治に関する著作を公刊し、奴隷制廃止を訴え、その方法を論じた。この時期に、のちに南米の解放者となるシモン・ボリバルとも会い、革命運動への刺激を与えた。
ベルリンへ
1827年、フンボルトはプロイセン王の要請でパリを去ってベルリンへ戻った。プロイセン王に宮廷へと呼び出された。プロイセン皇太子の家庭教師をつとめることになった。ベルリン大学で講義を行った。
1829年、フンボルトはロシアからの招きで、ウラル山脈から東のアルタイ山脈まで訪れることになった。最新の計器を用いて科学調査を行った。
帰国し、主著『コスモス』の執筆に勤しんだ。本書は世界の仕組みと美しさを明らかにしようとするものだった。ほかにも、フンボルトの働きかけで、ベルリン大学では自然地理学の講座が普及した。また、議員にも選ばれた。外交使節として派遣されることもたびたびあった。
アレクサンダー・フォン・フンボルトの肖像画
フンボルトの主な著作・作品
『コスモス』 (1845ー62)
おすすめ参考文献
佐々木博『最後の博物学者アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』古今書院, 2015
Mark Thurner(ed.), The invention of Humboldt : on the geopolitics of knowledge, Routledge, 2023
Dalia Nassar, Romantic empiricism : nature, art, and ecology from Herder to Humboldt, Oxford University Press, 2022