ジョヴァンニ・ボッカチオは14世紀イタリアの文人(1313ー1375)。イタリア・ルネサンスの文学の代表的人物として知られる。代表作には、イタリア語での『デカメロン』などがある。もともとは商人の出身だったが、その文才によって王侯貴族とも交わるまでに至った。晩年には、これからみていくように、あのルネサンスの大家と親交を深めるようになり、ラテン語の著作をも手がけた。
ボッカチオ(Giovanni Boccaccio)の生涯
ボッカチオはトスカナ地方出身の商人の家に生まれた。母親が誰かは未詳である。幼い頃にラテン語と算術を学んだ。
1325年頃、ボッカチオはナポリで見習いとして働き始めた。父はフィレンツェの金融業者バルディ商会に属していた。彼はボッカチオにも家業を継がせるつもりだったため、この商会の見習いとして働かせた。ボッカチオはナポリの支店で働き始めた。その支店長は父であった。
ナポリでの生活
ナポリという新天地で、ボッカチオは商人として身を立てる気になれなかった。この頃、南イタリアに位置するナポリは地中海貿易の重要な交易都市の一つであり、賑わっていた。ヨーロッパからだけでなく、地中海の他地域からも、人やモノや情報の交流が活発だった。
ボッカチオは様々な地域から到来する人やモノに興味をもち、交流をもった。さらに、自分より高い身分の人々や学識者とも交流をもつようになった。宮廷にすら出入りするようにもなった。それらの見聞が後に『デカメロン』で役立つことになる。
そのかたわら、公証人となるために勉強を行いながらも、1330年代前半には文学活動も始めた。様々な文献を読み、自らも著述を行った。初期の作品は宮廷愛や神話を扱っていた。同時期のイタリアのダンテやペトラルカの影響を受けていた。
ルネサンスの巨匠へ
1338年、勤め先のバルディ商会が破綻した。よって、ボッカチオの父は破産を宣告された。そこで、1340年頃、ボッカチオはフィレンツェに移った。ここでも、文筆活動を続けた。騎士道や宮廷愛などをテーマとした作品などを世に送り出した。これらはイギリスのチョーサーなどに影響を与えることになる。
ペストの衝撃
1348年、イタリアをペストが襲った。フィレンツェも例外ではなかった。これは1352年までにヨーロッパ全体を襲い、人口の三分の一ほどを死滅させた。この悲惨な状況はボッカチオの心にも強く刻み込まれた。
1350年、ボッカチオはフィレンツェの外交使節としても活躍するようになった。ミラノやブランデンブルク、アヴィニョンなどに派遣された。その公務の一環で、自宅にペトラルカを招き、親交を深めるようになった。
ボッカチオはペトラルカにフィレンツェ大学の教授職を確保した。さらに、ペトラルカ家が亡命中に喪失していた一家の財産の返却の手続きも進めた。だが、ペトラルカはこれらの打診を断り、ミラノに移った。
当時の宮廷
ここで、ボッカチオの代表作『デカメロン』に移る前に、ヨーロッパの宮廷について説明した方がよいだろう。東洋で宮廷が君主の住居を意味するのにたいし、西洋では君主の取り巻き集団を意味した。具体的には、家族・親族・奉公人、役職者、高官である。お抱えなどの学者や芸術家が含まれる場合もある。
中世ヨーロッパでは、君主がこれらの取り巻きや家畜、家具や食器、公文書や宝物などを携えて各地を巡歴した。君主だけでなく貴族も宮廷をもった。
ヨーロッパ中世での宮廷の最たる役割としては、文化創造の中心地だったことが挙げられる。諸学芸や礼儀作法などが洗練された。特に重要な文化事象は宮廷愛だった。これは騎士たちと奥方との愛の作法である。叙情詩や武勲詩、アーサー王物語などの騎士道などに大きな影響を与えた。
この宮廷に、巡歴中の地域の芸術家や成り上がり商人が出入りすることもあった。そこでは、驚異的な出来事や伝説などの会話の種となった。
『デカメロン』
1352年、彼の代表作となる『デカメロン』が完成された。イタリア語で書かれたもので、最初の近代小説と評されることもある。長らく、ヨーロッパで文芸のために使用されるべき言語といえばラテン語だった。だが、ダンテあたりから、俗語のイタリア語を利用する動きが活発になってきた。『デカメロン』もまたこの流れを代表する著作となる。
上述のペストからの逃亡というシーンからこの作品は始まる。フィレンツェはペストによって人口が激減した。毎日どこかで多くの人が死んだ。人々は法律を軽視するようになった。病人は避けられ、親族によってすら見放された。増え続ける死体を埋める墓地のスペースが足りなかった。街は死体で溢れかえり、死体の腐敗臭で覆われた。
『デカメロン』は10名の紳士淑女がペストを逃れてフィレンツェの別荘に集まり、そこで各々が一人10話ずつ物語るという体裁をとっている。よって、総計で100話の物語集である。物語の舞台はイタリアだけでない。スペインやインド、ペルシャ、フランス、シリア、北アフリカ、イギリスなどに及んでいる。
本作は情報源も様々である。そのため、内容も様々である。上述のナポリでの経験が役に立ったといえる。たとえば、教訓として役立つ寓意的なものもあれば、背徳的で卑近あなものも含まれた。
そのため、ダンテの『神曲』に比して本作は『人曲』と称されることもある。同時に、本作は社会の日常的な事柄を扱った物語を多く含んでいる。当時の社会習俗を理解するのに役立つ。
本作には、ダンテの『神曲』やペトラルカの『カンツォニエーレ』の影響が指摘されている。本書によって、彼の名声はイタリアを越えて高まった。本作は16世紀にイタリア語の模範として重宝されることになる。だが同時に、その内容の一部が上述のように背徳的なものだったので、ローマ教皇庁の禁書目録に加えられることにもなる。
晩年:ラテン語への関心
最晩年には、ラテン語にも力を入れるようになった。ペトラルカがそうであったので、その影響を受けたのも一因である。そこで、ボッカチオは人文主義的な著作に取り組むようになった。より多くのギリシャとローマの古典的著作に目を向けるようになった。
ボッカチオは自ら執筆も続けた。たとえば、当時のナポリが女王に支配されていたように、女王が増えていた時代において、優れた女性や女王の列伝を公刊した。ただし、そこには批判も暗示されていた。
ほかにも、古典古代の神話に関する史料を集めて、古代の神話の百科事典のような著作(『異教の神々の系譜』)を公刊した。ここにも、人文主義者としてのボッカチオの活躍がみられる。
ほかにも、ダンテの『神曲』の注釈をラテン語で行った。これは未完に終わった。ラテン語で注釈を行うことで、フィレンツェから追放されていたダンテの名誉をある面で回復しようとした。1373年にはダンテの神曲にかんする公開講義をフィレンツェ市から依頼されて行った。
1375年、ペトラルカの死を悲しむ中で、自らも没した。
ボッカチオと縁のある人物
●ペトラルカ:ボッカチオの友人で、ダンテとともにイタリア・ルネサンス文学の代表者。『カンツォニエーレ』で知られる。
ボッカチオの肖像画
ボッカチオの主な作品
『フィローコロ』(1336頃)
『フィローストラト』(1338頃)
『テセウス物語』(1340ー41)
『愛の幻想』(1342ー43)
『フィアンメッタの悲歌』(1343ー44)
『デカメロン』(1349−51)
『異教の神々の系譜』(1350ー75)
おすすめ参考文献
ボッカッチョ『デカメロン』平川祐弘訳, 河出書房新社, 2017
Jane Chance, Medieval Mythography: The Emergence of Italian Humanism, 1321-1475, University Press of Florida, 2014
Christopher S. Celenza, The intellectual world of the Italian Renaissance : language, philosophy, and the search for meaning, Cambridge University Press, 2018