ブリュッセルはベルギーの首都として繁栄してきた都市です。EUの本拠地になっているため、ヨーロッパの首都とも呼ばれています。地理的にもヨーロッパの中心に位置するため、フランスやドイツ、スペインなどそれぞれの時代の大国の影響を受けながら、独自の発展を遂げてきました。だからこそ、ブリュッセルの歴史を深堀りすればするほど、その分だけ、ブリュッセル観光は味わい深いものになります。
ブリュッセル観光の魅力をより深く知りたい、旅行の体験をより面白く豊かなものにしたい。そういった方々に、この記事は最適です。ブリュッセルの多彩で豊かな歴史とともに観光地を紹介するためです。ブリュッセルの観光地を厳選してご紹介します。さっそくみていきましょう。
- おすすめの観光スポット11選【2024年版】
- グランプラス(Grand-Place)
- 聖ミカエル大聖堂(Cathédrale Saints-Michel-et-Gudule)
- 小便小僧(Manneken-Pis)
- 国立オペラ座 (La Monnaie)
- 殉教者広場 (Place des Martyrs)
- ロワイヤル広場 (Place Royale)
- ワランド公園/ブリュッセル公園 (Parc de Bruxelles)
- 国民宮殿 (Palais de la Nation)
- 王宮 (Palais Royal)
- ベルギー王立美術館(Musées Royaux des Beaux-Arts de Belgique)
- ヴィクトル・オルタのアール・ヌーヴォー建築
- 伝統行事
- おすすめ参考文献
おすすめの観光スポット11選【2024年版】
グランプラス(Grand-Place)
ブリュッセル観光で欠かせない場所といえば、やはりグランプラス(大広場の意味)です。グランプラスは中世からすでに存在していました。市場が開かれ、政治的あるいは宗教的な儀礼が行われ、あるいは公開処刑の場にもなってきました。現在のグランプラスは市庁舎や市立博物館、ギルドハウスなどの壮麗な建物に囲まれています。この広場と建築物について説明しましょう。
中世ヨーロッパの広場では食料品などの市場が開かれていました。同様に、グランプラスでも肉やパンが売られていました。13世紀には、パンの市場を開くための建物が建っていました。この建物はパンの家(broodhuis)と呼ばれています。14世紀には、市庁舎が建てられました。
その後、ブリュッセルは経済的にも政治的にも大いに発展していきました。それに見合った立派な市庁舎が求められました。というのも、中世ヨーロッパでは、市庁舎はその街の顔だったからです。そこで、15世紀前半には、市庁舎の増改築が行われました。その尖塔の頂上には、ブリュッセルの守護聖人の大天使ミカエルの像が設置されました。市庁舎の増改築のタイミングで、グランプラス自体も拡張されました。
当時のヨーロッパでは、市庁舎は街の中心的な広場に建てるのが一般的でした。よって、グランプラスはブリュッセルの中心的な広場だったといえます。
16世紀初頭、カールがこの地域の王になります。この王はスペイン王カルロス1世であり、神聖ローマ皇帝としてはカール5世です。16世紀ヨーロッパの最も重要な王の一人です。
カールの命令により、パンの家のあった土地に新たな建物が建てられました。そのため、この新たな建物は王の家(maison du roi)と呼ばれました。
16世紀後半、カール5世の息子でスペイン王のフェリペ2世がブリュッセルと周辺地域の支配者になりました。
この地域の貴族たちはフェリペの統治方式に不満を抱き、不穏な情勢が形成されていきます。フェリペは貴族などを弾圧します。その代表的な貴族のエフモント公とホールン公がグランプラスで公開処刑されました。
このような弾圧がきっかけとなり、まもなく、この地域では反乱そして戦争が起こります。その後、エフモント公とホールン公はスペイン王権への抵抗の象徴とみなされ、彼らの像が王の家の前に置かれました。かくして、グランプラスはスペイン王権との闘争の場になりました。
その後、アムステルダムやハーグなどの北部地域はオランダとして独立します。ブリュッセルやアントワープなどの現在のベルギーにあたる地域は、引き続きスペインの支配下に置かれました。
1695年、フランスとの戦争により、ブリュッセルの街は甚大な被害を受けました。グランプラスも集中的に砲撃を受けました。ほとんどの建物が倒壊しました。ブリュッセルとグランプラスにとって災厄の年です。
その後、急ピッチで街の復興が進められました。このときから、グランプラスは長方形の広場になりました。市庁舎や王の家は再建の際に、当時のバロック様式を採用しました。
ブリュッセル市は市庁舎の再建費用を得るために、グランプラスの一部の土地を売却しました。そこには、様々な職人の住居の建物などが建てられました。18世紀末、フランス革命が起きた頃、ブラバント公爵の胸像がこの住居の建物に据えられました。そのため、これらの建造物は今日においてブラバント公の家と呼ばれています。ブラバント公は中世にブリュッセルなどの地域を治めていた公爵です。
現在のグランプラスは主にこの再建以降につくられたものです。その際に、注目すべきは、教会がその一角を占めていないことです。一般的に、ヨーロッパの諸都市の中心的な広場には、立派な市庁舎と教会が建てられています。しかし、グランプラスは市庁舎のような公的建物と、ブリュッセルを発展させてきた商人たちの建物で囲まれています。この点がブリュッセルの特徴を表すともいえるでしょう。
19世紀後半、ブリュッセル市が王の家の建物を購入しました。しかし、老朽化がひどかったため、これは取り壊されました。ゴシック様式の建物が新たに建てられ、現在に至ります。この建物には、1887年から、ブリュッセル市立博物館(Musée de la Ville)が入りました。そこには、ブリュッセルの伝統工芸品が展示されています。タペストリーや陶磁器、彫刻品などです。市民の歴史教育と観光スポットとしての役割を期待されています。
同時期に、ブラバント公の家は大規模な修復を行いました。
二つの世界大戦を経て、グランプラスはベルギーを代表する壮麗な広場として世界的に有名になりました。1998年、世界遺産に登録されました。
聖ミカエル大聖堂(Cathédrale Saints-Michel-et-Gudule)
この教会の起源は8世紀頃にあるといわれています。大天使の聖ミカエルに捧げられた教会でした。重要な転機が1047年に訪れます。ブリュッセルの守護聖人の聖女グドルの聖遺物がこの教会に移されたのです。中世ヨーロッパでは、聖遺物(遺骸や形見など)はそれぞれの教会の価値や威信にとって根本的に重要でした。それ以来、この教会は聖ミカエルとグドルの教会になりました。ブリュッセルの主だった教会の一つとして位置づけられます。
現在の大聖堂の建物は13世紀から15世紀の間に建設されました。それまでの教会の建物を取り壊しながら、ゴシック様式の新たな建設が進んでいきます(壊された旧教会の遺構は20世紀になって再発見されることになります)。
大聖堂は16世紀に一通り完成しました。同時に、公爵などの貴族から宗教的な絵画や装飾品を贈与され、教会の内部が飾られていきました。16世紀前半に、見事なステンドグラスが完成します。マクシミリアン1世と妻でブルゴーニュ女王だったマリー、カール5世やスペインの王女フアナを描いたものなどです。彼らは当時台頭してきたハプスブルク家の主要なメンバーです。オーストリアやドイツ、ブリュッセルなどの低地諸国、スペインやアメリカ大陸の一部を支配しました。
16世紀のヨーロッパでは、ルターらが宗教改革を始めました。彼らプロテスタントは16世紀半ばからブリュッセルにも増えていきます。この時期、上述のように、ブリュッセルはスペイン王権との関係で政情が不安定でした。混乱に乗じて、プロテスタントがカトリック教会で建物や装飾を偶像崇拝とみなし、破壊する運動を展開します。
1579年、ブリュッセルの聖ミカエル大聖堂などの主だった教会はプロテスタントの支配下に置かれました。そのため、教会の装飾や聖像・聖画などで甚大な被害を受けました。
17世紀初頭から、ブリュッセルではカトリックの復興と改革の運動が本格化していきます。鍵を握ったのは、オーストリア大公アルブレヒトと妻のイサベルでした。イサベルはスペイン王フェリペ2世の娘です。
彼らはブリュッセルと周辺地域の支配者として、その首都ブリュッセルに到来しました。プロテスタントの痕跡をブリュッセルから消し去り、カトリック一色に染め直そうとしたのです。これは対抗宗教改革と呼ばれる大きな運動でした。17世紀のバロック美術はその影響を大きく受けています。聖ミカエル大聖堂はこの運動の主な拠点の一つとなりました。
アルブレヒトやイサベルは様々な宗教画などをこの大聖堂に寄贈しました。さらに、彼らの墓やステンドグラスもここに作られました。肖像画も贈られました。17世紀を通して。多くの聖像や装飾が設置されました。
かつてプロテスタントが聖像などを偶像崇拝として破壊していた分、カトリックの復興運動では聖像や宗教画が盛んにつくられたわけです。17世紀末には、非常に凝った説教壇もつくられました。
聖ミカエル大聖堂の説教壇
聖ミカエル大聖堂のみならず、ベルギーの教会では17世紀にカトリック復興の美術が大いに発展しました。壮麗な教会美術の品々は、闘うカトリック教会の象徴だったといえます。これが現在のベルギー観光の柱の一つとなっています。
しかし、18世紀末、この教会に寄贈された多くの宗教美術品は略奪の被害にあいました。この時期にフランス革命が起こり、フランス軍に攻め込まれたためです。
19世紀前半、聖ミカエル大聖堂は大規模な修復が行われ、取り壊しになる部分もありました。
19世紀前半の聖ミカエル大聖堂
ちなみに、明治時代の岩倉使節団は1871年にここを訪れています。20世紀後半にも、大聖堂は大規模な修復作業が行われました。ロマネスク様式の遺構も見学できるようになりました。ブリュッセルの二人の守護聖人に捧げられた中心的な教会ですので、ぜひ訪れてみたいところです。
現在の聖ミカエル教会
小便小僧(Manneken-Pis)
日本人にもおなじみの小便小僧の像です。これは古くからブリュッセルに存在し、少なくとも15世紀にはありました。この像の役割は噴水でした。噴水は観光スポットというより水道の役割を担っていました。ブリュッセルで近代的な上下水道が整備されるのは19世紀半ばです。それまでは、きれいな水は街中に設置された噴水などを通して市民に供給されていたのです。小便小僧の像はそのうちの一つでした。
17世紀に新しい像に取り替えられた頃から、小便小僧の人気は高まっていきました。様々な伝説がうまれるほどでした。そのため、何度も盗難の被害にあいます。
小便小僧といえば、服を着ていない裸の姿が一般的なイメージでしょう。しかし、遅くとも18世紀には、この像は服を着せられていました。18世紀なかばから、ブリュッセル市が衣装係を新設しました。
衣装の総数は1000着を超えています。この衣装のための博物館(GardeRobe MannekenPis)にいけば、みることができます。
国立オペラ座 (La Monnaie)
国立オペラ座はかつてモネ劇場と呼ばれていました。これは1700年に、当時のオペラの中心地ヴェネチアの劇場をモデルとして設立されました。モネ劇場はベルギーの歴史と深い関わりがあります。独立革命の発端となったのです。
そもそも、この劇場が誕生した頃、ベルギーは独立国ではなく、スペインの支配下にありました。18世紀にオーストリアの支配下に移り、フランス革命でフランスの支配下に置かれました。19世紀初頭、オランダ王国の一部になりました。しかし、オランダとの様々な対立により、ベルギー地域の市民は大きな不満を抱くようになります。
その頃、1830年にフランスで7月革命が起こりました。同年8月、モネ劇場で『ポルティチの啞娘』というオペラが上演されました。
劇中で「聖なる祖国愛」というフレーズが歌われました。7月革命に触発されていた聴衆たちはこれを聞くと、祖国愛に駆られ、街に繰り出し、暴動を始めました。ここから、ベルギー独立革命が始まりました。これが成功し、1839年にベルギーは正式に独立し、現在に至ります。モネ劇場はブリュッセルの主要な劇場であるだけでなく、現在のベルギー国家の始まりの地でもあったのです。
その後、この劇場ではワーグナーらが活躍しました。1855年に焼失した後、再建されました。1965年に国立オペラ座になりました。現在もブリュッセルの主要な劇場の一つとして人気です。
殉教者広場 (Place des Martyrs)
ベルギー独立革命との関連で見ておきたいのが、殉教者広場です。この広場はもともと18世紀後半につくられました。当初は別の名前でした。上述のように、1830年8月、ベルギー独立革命が起こります。同年9月、ベルギーの革命軍を鎮圧すべく、オランダが軍隊をブリュッセルに派遣しました。ブリュッセルは4日間かけてオランダ軍を撃退しました。その戦いで犠牲になった450人ほどのベルギー人の遺骨がこの広場に埋葬されました。
そのため、この広場は殉教者広場と呼ばれています。
1830年代終わりには、独立革命の記念碑が建てられました。そこには、この革命での重要なシーンが描かれています。このように、「殉教者」広場というネーミングには違和感がありますが、この広場は祖国のために死んだ人々を追悼し讃える広場です。
ロワイヤル広場 (Place Royale)
かつて、ブリュッセルの宮廷は12世紀に建造されたクーデンベルク宮殿に置かれていました。歴代の統治者たちがここを居城にしていたのです。
しかし、クーデンベルク宮殿は1731年に焼失してしまいます。1772年に、ブリュッセル市がこの土地を獲得しました。オーストリアの女帝マリア・テレジアの許可をえて、ここにロワイヤル広場の建造が始まります。およそ80メートル×110メートルの大きな長方形の広場です。1781年に完成しました。
この広場はもともと宮廷という権力の中心地につくられたこともあり、様々な政治的儀式で利用されました。たとえば、1815年にベルギーがオランダ王国の一部に組み込まれた際には、オランダ王ウィレム1世が王としてこの広場に到来しました。
1830年のベルギー独立革命の際には、1831年に新たなベルギー王としてレオポルド1世がこの広場で宣誓式を行いました。このように、ロワイヤル広場は政治的儀礼の広場として由緒ある歴史空間だといえます。
ワランド公園/ブリュッセル公園 (Parc de Bruxelles)
ロワイヤル広場が建設され始めた頃、隣接するスペースではワランド公園の建設が始まりました。もともとは、このスペースもクーデンベルク宮殿の一部でした。ここでは騎兵が訓練や試合などを行っていました。1830年のベルギー独立革命では、この公園は壮絶な戦いが繰り広げられました。
現在はブリュッセル中心部の緑のオアシスとなっています。文化行事などが定期的に催されています。
国民宮殿 (Palais de la Nation)
ワランド公園とほぼ同時期に、隣接する国民宮殿もまた建設が開始されました。オーストリアが支配していた頃には、ここでは国務評議会が開かれていました。
1830年のベルギー独立革命後には、両院の議会がこの宮殿で開かれるようになりました。
1883年に火災で大きな被害がでたのち、再建されました。
王宮 (Palais Royal)
王宮はベルギー国王の居城です。19世紀初頭、ベルギーがオランダ王国の一部だった頃、王国の首都はハーグとブリュッセルでした。国王は隔年でそれぞれの首都に滞在していました。ブリュッセルでの居城として、1815年からこの王宮の建設が始まりました。
1830年のベルギー革命の後、ベルギー国王の居城となりました。20世紀に改修や火災などを経験し、現在に至ります。
ベルギー王立美術館(Musées Royaux des Beaux-Arts de Belgique)
ベルギーの優れた美術品を堪能したい方は、ぜひベルギー王立美術館を訪れましょう。現在の王立美術館は古典美術館(musée Oldmasters)、世紀末美術館(Musée Fin de Siècle)、マグリット美術館( Musée Magritte)、近代美術館(Musée d’Art moderne)などから構成されています。
この美術館は19世紀初頭、フランスの支配下にあった時代に遡ります。この美術館はナポレオンのもとで、ルーブル美術館の分館の一つとして建てられました。まず、現在の古典美術館の作品が収集されました。オランダ王国時代には、オランダから作品が寄贈されました。ベルギー独立革命後、近代博物館の作品がコレクションに加わりました。その後、世紀末博物館やマグリット美術館の作品がコレクションに加わります。
古典美術館では、15−18世紀のベルギー地域の作品が主に展示されています。ウェイデンやオーリー、メムリンク、ブリューゲルやルーベンスなどです。ほかにも、ファン・ダイクらのオランダの作品や、フランスの作品も展示されています。ウェイデンやオーリーらはブリュッセルの教会建築などでも優れた仕事をしています。ベルギーの伝統的な美術を堪能したい方はぜひとも訪れたい場所です。
世紀末美術館では、19世紀末の様々なジャンルの作品が展示されています。この時期、ブリュッセルはアール・ヌーヴォー芸術が絵画や建築、写真や映画などで多面的に発展していました。それらに焦点を当てたのがこの美術館です。ムニエやアンソールなどの作品を鑑賞できます。近代博物館では、20世紀初頭から現在までの作品を展示しています。
マグリット美術館はルネ・マグリットの作品に特化した美術館です。マグリットは20世紀前半にブリュッセルで活躍したベルギーの代表的な画家で、シュールレアリストの作風で知られています。ここでは、彼の200点以上の作品を展示しています。
これらの美術館の中には、現在改装中のものもあります。事前にチェックしておくとよいでしょう。2024年時点では、世紀末美術館と近代美術館は一般公開されていません。
ヴィクトル・オルタのアール・ヌーヴォー建築
かつて、アール・ヌーヴォーの建築の創始者がブリュッセルで活躍していました。ヴィクトル・オルタです。1892年に建設したタッセル邸(maison Tassel)が最初のアール・ヌーヴォーの建築物です。これは多くの鉄骨と優美な非対称の曲線を用いたもので、当時は独創的な建築でした。この曲線はオルタ・ラインと呼ばれています。
その後も、オルタは1898年にオルタ邸(Maison Horta)を建てました。これは自宅と工房をかねたもので、現在はオルタ美術館になっています。1899年には社会党の「人民の家」(maison du Peuple)を、1900年にはソルベイ邸(l’hôtel Solvay)を建設しました。これらのアール・ヌーヴォー建築は2000年に世界遺産に登録されました。アール・ヌーヴォーや建築に興味のある方はぜひとも訪れたい場所です。
オルタ邸などの紹介動画(画像をクリックすると始まります)
伝統行事
メイボーム(Meyboom)
ブリュッセルでは、例年、8月9日にメイボームの伝統行事が行われます。これは13世紀初頭に起源をもつといわれています。当時、ブリュッセルは北部のルーベンと戦っていました。その際に、彼らはブルック通りにある聖ラウレンティウス会の建物に逃げ込み、助けてもらいました。ルーベンに勝利した後、ブリュッセル市民は彼らの支援に感謝しました。感謝の意を示すために、8月9日に喜びの木をブルック通りの角に植えるようになりました。8月9日は聖ラウレンティウスの祝日です。
この行事では、カメレンの森で木が伐採され、グランプラスまで運ばれます。ブリュッセル市民が行列をなしながら、この木をブルック通りまで運びます。植樹した後、木のてっぺんにベルギーの旗を掲げたら、行事は完了です。21世紀に世界無形文化遺産に登録された行事ですので、夏に訪れる方におすすめです。
メイボームの動画(画像をクリックすると始まります)
ブリュッセル旅行の魅力をより深く知るには
ブリュッセル旅行の経験をより豊かで面白いものにするには、そアの歴史をより深く知ることが有効な手段だといえます。ブリュッセルの歴史の要点は、この記事で知ることができます。
ベルギーのおすすめ観光地
☆ブルージュ:北西部の都市で、中世ベルギーの街並みを堪能できます。14世紀にはヨーロッパでも屈指の国際商業都市として発展し、その頃の街並みがほぼ変わることなく現在に残っています。
☆リエージュ:東部の都市で、重工業と商業で発展してきた主要都市です。工業関連の優れた博物館をもつ点で特徴的です。宗教芸術では、リエージュならではのモザン美術の作品を堪能できます。
おすすめ参考文献
谷克二, 朝倉利恵『ブリュッセル歴史散歩 : 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP出版センター, 2009
森洋子『図説ベルギー : 美術と歴史の旅』河出書房新社, 2015
今井澄子編『ネーデルラント美術の精華 : ロヒール・ファン・デル・ウェイデンからペーテル・パウル・ルーベンスへ』ありな書房, 2019
Georges-Henri Dumont, Histoire de Bruxelles : biographie d’une capitale des origines à nos jours, Le Cri édition, 2005