エカチェリーナ2世は18世紀のロシア皇帝(1729ー1796)。プロイセンのフリードリヒ2世などと同様に、啓蒙専制君主の一人として知られる。ロシアでは「大帝」の称号を与えられている。その理由は啓蒙主義政策の実施ではなく、これからみていくように、エカチェリーナの大いなる野心の実現にあった。
エカチェリーナ2世の生涯
エカチェリーナ2世はもともとロシア人ではなく、ドイツ貴族の出身だった。幼い頃の名前はソフィア・アウグスタだった。
ロシアに移り住んだのは、ロシア大公のピョートルとの婚約がきっかけだった。1745年、結婚した。その際に、エカチェリーナ・アレクセーブナに改名した。
エカチェリーナは早くから聡明で野心的な人物として知られた。啓蒙主義という当時のヨーロッパの先進的な思想を取り込んでいた。ロシア人のほとんどは農民であり、実質的に農奴だった。エカチェリーナはいつか農奴を解放したいとも考えていた。
エカチェリーナはドイツ出身ではあったが、嫁ぎ先のロシアを大国に発展させたいという野心に燃えていた。だが、夫のピョートルがその役割を果たせるようには思われなかった。そのため、エカチェリーナはいずれ自らが実権を握ろうと考えるようになった。
ロシアの女帝へ
1762年、夫がピョートル3世としてロシア皇帝に即位した。当時、ロシアはオーストリアやフランスと同盟して、プロイセンなどと7年戦争を行っていた。ピョートルはプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者だったので、この同盟から離脱した。
このような対外政策などにより、ロシア貴族らの不満が高まった。その結果、同年にクーデターが生じ、エカチェリーナが皇帝に即位した。
ここから、エカチェリーナの34年間におよぶ長い統治が始まった。大部分の貴族や世論はこのクーデターを支持した。夫はその直後に死んだ。
啓蒙専制君主としての試み
当時、フランスでは啓蒙思想が席巻していた。エカチェリーナはその代表者のヴォルテールやディドロなどと交流をもった。啓蒙専制君主を自認し、啓蒙主義的な政策を行おうとした。
1773年には、ディドロがサンクトペテルブルクを訪れてエカチェリーナに謁見した。何度も会談をかさね、啓蒙主義的な社会改革の実施を話し合った。
その流れで、国内の政策としては、エカチェリーナはロシアに法治主義を打ち立てるべく、1767年にロシアの法典編纂を試みた。当時の著名な法学者のベッカリーアやモンテスキューらの著作に影響を受けた試みだった。
だが、数ヶ月以上に及ぶ憲法制定や法典編纂の試みは当時のロシアの法文化にはなじまず、うまくいかなかった。
農奴制をめぐって
上述のように、エカチェリーナは皇帝への即位前、農奴制にたいして批判的であり、農奴の解放を希望していた。さらに、ディドロによって農奴解放を駆り立てられた。
だが、エカチェリーナは皇帝に就いたことで、ロシアの支配者層がどれほど農奴制に依存していたかを理解することになった。農奴を解放すれば、ロシアの支配体制は大きく揺らぐ可能性があった。
プガチョフの反乱:農奴制への姿勢の変化
そのような中で、農奴解放へのエカチェリーナの態度を大きく反転させた出来事が起こった。1773−75年のプガチョフの反乱である。これはエカチェリーナが貴族への優遇政策をとったことや疫病などに起因した。
これは非常に深刻な反乱となった。そのため、エカチェリーナは農奴にたいして憐憫のまなざしよりも恐怖のまなざしを向けるようになった。
エカチェリーナはさらなる農民反乱を予防すべく、制度改革に乗り出した。貴族に農奴の所有権や免税特権を与えるなど、大きな特権を与える仕組みを構築した。これはエカチェリーナの統治が貴族との協力関係に依存していたことを意味している。結果的に、ほとんどの農民たちが貴族の農奴に堕した。
対外政策:クリミア併合と黒海進出
不凍港の獲得などを目指して、エカチェリーナは南下政策を推進した。その中で、オスマン帝国と戦争した。オスマン帝国はロシアの伝統的な敵だった。
1768ー1774年に最初の露土(ロシア・トルコ)戦争を、1787ー1791年に二度目の露土戦争を行った。これらに勝利して、クリミア半島を併合し、黒海の北岸を支配した。
かくして、地中海進出の足場を構築した。これらの功績で、エカチェリーナは大帝の称号をえた。この称号はロシアの近代化を実現したピョートル1世に与えられていたものだった。エカチェリーナの功績はそれほど大きいものだった。
ポーランド分割とフランス革命
同時に、エカチェリーナはポーランドの後継者問題に乗じて、1772年に第一回ポーランド分割に参加した。かくして、当時のポーランドの領土の一部を得た。その後、1775−83年にアメリカ独立革命が起こった際には、中立を決めた。
1789年、フランス革命が起こった。これはフランスの議会勢力がフランス国王ルイ16世にたいして起こした革命である。革命議会は人権宣言を発表するなど、自由主義的な色合いを帯びていた。
ルイ16世や王妃マリー・アントワネットはオーストリアなどに救援を求めた。その結果、オーストリアやプロイセンがフランス革命を妨害すべく、革命政府への干渉戦争を開始した。
エカチェリーナは同様の革命が周辺国さらにロシアに波及するのを危惧した。そのため、反革命の干渉戦争に参戦した。
その頃、ポーランド人は、フランス革命に刺激を受けて、自由主義的な憲法を定めようとした。 1792年、そこでの革命の危機を回避するという口実で、エカチェリーナはポーランドに軍隊を派遣した。
1793年に第二回ポーランド分割を行い、ウクライナ西部の大部分をロシアに併合した。1795年、第三回ポーランド分割がロシア、プロイセン、オーストリアの間で行われた。ポーランドはヨーロッパの地図から姿を消した。
ロシアと日本の大黒屋光太夫
エカチェリーナの時代、1780年代に、大黒屋光太夫が漂流してロシアに至った。彼はエカチェリーナに謁見し、その似顔絵を作成している。
彼を帰国させるのを口実としながら、1791年にロシアは日本に使節のラクスマンを送り、通商を交渉した。日本では、まさに林子平が『海国兵談』を公刊して、ロシア南下の脅威を説いていたときだった。
文芸趣味とエルミタージュ美術館
エカチェリーナは文芸への関心が深く、様々な芸術作品を収集した。それらを宮殿近くの私設ギャラリーで所蔵し、鑑賞した。このギャラリーが現在のエルミタージュ美術館の起源だといわれている。
エカテリーナ2世の肖像画(刺繍画)
この肖像画は絹織物の刺繍でできている。リヨンの著名な織物職人フィリップ・ド・ラ・サールがヴォルテールを介してエカチェリーナと知り合い、制作した作品である。リヨンは15世紀から絹織物の産地として有名だった。
エカチェリーナ2世と縁のある人物
☆ピョートル1世:エカチェリーナより前に大帝の称号をえたロシア皇帝。当時ヨーロッパでは遅れていたロシアの近代化を図り、ロシアを列強国へと押し上げた。その近代化の方法が実にユニークだった。
●フリードリヒ2世:エカチェリーナとほぼ同時代のプロイセン国王。エカチェリーナやオーストリアのヨーゼフ2世らとともに、代表的な啓蒙専制君主として知られる。
●ディドロ:フランス啓蒙主義の理論家の一人。エカチェリーナに啓蒙主義的な改革の実践を促した。その会談について、この記事ではより詳しく説明しよう。
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エカチェリーナ2世の肖像画
おすすめ参考文献
田中良英『エカチェリーナ2世とその時代』東洋書店, 2009
Isabel De Madariaga, Catherine the Great, Yale University Press, 2002
Kelly O’Neill, Claiming Crimea : a history of Catherine the Great’s southern empire, Yale University Press, 2017