ダランベールは18世紀フランスの数学者、物理学者で哲学者 (1717 ー1783 )。「ダランベールの原理」など、数学や力学で貢献した。文学や音楽と哲学にも関心を深め、著作を執筆した。ディドロとともに、啓蒙の大プロジェクト『百科全書』の編集者をつとめた。だが、これからみていくように、あの著名な哲学者の影響を受けて、ダランベールと『百科全書』の関係は思わぬ方向へ展開していく。
ダランベール(Jean Le Rond d’Alembert)の生涯
ジャン・ル・ロン・ダランベールはフランスのパリで貴族の子として生まれた。だが、パリのサン・ジャン・ル・ロン教会に捨てられた。この捨て子をガラス職人の妻アランベールが拾い、育て上げた。それゆえ、ダランベールと呼ばれるようになった。実父は貴族のシュヴァリエ・デトゥシュだった。彼はダランベールを探し出し、養母アランベールに養育費を与えた。
ダランベールは名門校で学んだ。古典語や宗教、美術などを学び、早くも学才を発揮した。法学の道に進み、1738年には弁護士となった。だが、数学に関心を抱いて、弁護士のキャリアから離れた。
数学や力学などへの貢献:ダランベールの原理
ダランベールはほぼ独学で数学を学び、研究した。1739年には、論文を発表するようになった。すぐに頭角を現し、その学才を認められ、1741年には科学アカデミーへの入会を認められた。その後、天文学や幾何学で助手をつとめ、1765年に正教授となる。
1743年には、力学にかんする「ダランベールの原理」を公にした。ニュートン的な運動としての力学にたいして、つり合いとしての静的な力学を展開した。これを液体にも適用した。ダランベールの名声は他国にも届くようになった。
同時に、1740年代から50年代にかけて、ダランベールは微積分などの研究で数学の発展にも寄与した。さらに、これを弦の振動を理解するために応用するなどした。天文学では、1749年に、歳差の運動や地軸の章動の研究で成果をあげた。
百科全書のプロジェクト
ダランベールはサロンに出入りするようになった。ドゥニ・ディドロらと出会い、『百科全書』の編集や寄稿などを行うようになった。これは啓蒙主義の最も有名で重要なプロジェクトの一つであり、画期的な事業として知られている。
同時に、様々な知識人に『百科全書』への支持を訴えた。モンテスキューやヴォルテールなどの支持をえた。ルソーやレーナルなどもこれに寄稿した。
『百科全書』をめぐる攻防
しかし、『百科全書』は逆風が強く、弾圧や検閲を受けるようになった。ただし、ここで注意が必要である。『百科全書』という啓蒙の新しい知的プロジェクトが旧来のカトリック教会やローマ教皇そしてフランスの旧制度(アンシャン・レジーム)の支持者によって敵対され、弾圧された。このような見方が長らく続いてきた。だが、実際にはそれほど単純ではなかった。
重要な点として、啓蒙主義の代表者とされるヴォルテールが推進してきたロックやニュートンのイギリス哲学はフランスで広く認められていた。これを穏健的な啓蒙主義思想と呼ぶことができるだろう。もしそうならば、たとえばフランスのイエズス会やパリ大学は穏健な啓蒙主義には共感を示していた。
当時の教皇ベネディクト14世も同様だった。もっとも、この新しい哲学が全ての人々に受け入れられていたわけではない。だが、これまで『百科全書』のプロジェクトに断固反対したと思われた人々が必ずしもそうだったわけではなかった。
では、誰が『百科全書』プロジェクトに反対したのか。啓蒙主義への反対者がその中に含まれる。さらに、穏健な啓蒙主義者もまたこのプロジェクトの反対者に加わった。当初はそうではなかった場合もある。だが、ヴォルテールのように、途中から反対に回ったケースもある。
なぜ穏健な啓蒙主義者もまた少なくとも途中からそれに反対したのか。理由は、『百科全書』に急進的な啓蒙主義思想が埋め込まれていたからである。これはディドロやスピノザの唯物論や無神論的な要素だった。
これらの要素は当時のフランスではなかなか受け入れられなかった。ロックやニュートンなどの新しい哲学は唯一神の思想と対立して無神論に結びつくとは考えられていなかったので、受け入れられた。
とはいえ、『百科全書』はすぐに弾圧の対象になったわけではなかった。理由としては、『百科全書』が非常に浩瀚だったことにある。その内容を精査するには相応の時間がかかった。
他の理由として、ディドロやダランベールらが編集や出版の際に検閲でひっかからないよう工夫していたためだった。たとえば、ダランベールは『百科全書』において、このプロジェクトがロックやニュートンなどのイギリス的な方針をとっていると宣言している。
たしかに、イギリス哲学の要素はみられた。だが、上述の無神論のような危険視される要素も含んだ。同時に、宗教的な項目については、伝統的立場の神学者に寄稿を依頼したこともあった。
『百科全書』は膨大で多様な項目を含んだので、その性格を単純化して理解するのは難しかった。このようにディドロたちは無神論などの要素が露見しないよう巧妙にカモフラージュしたのである。
だが、次第に、『百科全書』への反対者の包囲網が構築されていった。イエズス会やパリ大司教、ヤンセン主義者などが反対した。そこでは、ロックやニュートンらの哲学は主な標的とならなかった。
その代わりに、『百科全書』が唯物論者のプロジェクトであり、人間と動物あるいは魂と肉体を同じとみなしていると指摘され、無神論で宗教の敵だと断じられた。穏健な啓蒙主義の支持者もまた同様に『百科全書』の批判を行うようになった。
その一人がヴォルテールだった。ヴォルテールには『百科全書』でのイギリス哲学の扱われ方が過小であるように思われた。また、フランス宮廷でも『百科全書』への反対派が増大していることにヴォルテールは気付いた。
この頃には、ダランベールは反対派のプロパガンダに意気消沈していた。寄稿者だったルソーと記事にかんして論争するようになったのもやる気を失わせた。だが、ヴォルテールは『百科全書』事業を続けるようダランベールを鼓舞し続けていた。
しかし、ヴォルテールは反対派にまわり、ダランベールにむしろこの事業を断念するよう説得するようになった。もし『百科全書』がダランベールの言っていたように本当にイギリスの方針を中心に据えたなら、このような集中砲火を浴びることはなかっただろうと、ヴォルテールはダランベールに伝えた。
ヴォルテール自身はこの事業から身を引いた。パリ高等法院が本書への弾圧を開始した。1758年、ダランベールはその編集者の職を辞した。
海外への名声の拡大
1750年代から、ダランベールは音楽や文学などの著作も残した。この頃、ダランベールは名声を高めていった。1752年にはプロイセンの啓蒙専制君主として知られるフリードリヒ2世から、ベルリン・アカデミーの会長に就任するよう求められた。
だが、ダランベールはこれを固辞した。1754年、ダランベールはフランス・アカデミーに入会を認められた。1755年と1763年には、フリードリヒ2世のもとを訪問した。
1762年には、ロシアの啓蒙専制君主として知られる女帝エカチェリーナ2世によって、ロシアで息子のピョートル大公の家庭教師をつとめるよう依頼された。だが、ダランベールはこれを固辞した。
1783年に没した。
ダランベールと縁のある人物
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ダランベールの肖像画
ダランベールの主な著作・作品
『動力学論』(1743)
『振動弦の研究』(1747)
『文学・歴史・哲学論集』 (1752)
『哲学要諦』 (1759)
おすすめ参考文献
ダランベール『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』片山千佳子, 安川智子, 関本菜穂子訳, 春秋社, 2012
逸見龍生編『百科全書の時空 : 典拠・生成・転位』法政大学出版局, 2018
Guy Chaussinand-Nogarett, D’Alembert : une vie d’intellectuel au siècle des lumières, Fayard, 2007
Mogens Lærke(ed.), The use of censorship in the Enlightenment, Brill, 2009