フランス革命は18世紀末にフランスで起こった大革命である。フランス革命に関する一連の記事によって、その背景や展開、意義や影響を説明していく。
この記事は、「フランス革命の概略(2):革命の勃発から1791年憲法制定へ(1789-1791)」である。
フランス革命の概略(1):背景と原因
フランス革命の概略(2):革命の勃発から1791年憲法制定へ(1789-1791)
フランス革命の概略(3):1791年の国民議会からジャコバン独裁の終焉へ(1791-1794)
フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-)
フランス革命における恐怖政治とは
フランス革命における演劇
フランス革命における植民地と奴隷制
フランス革命の展開
国民議会の成立
全国三部会が1789年5月にヴェルサイユ宮殿で開催された。第一身分と第二身分の聖職者と貴族の議員は300人ずつ、第三身分は約600人だった。彼らは合同で討議をすることになる。6月には、三部会が国民議会になる。
この三部会の初期には、議員たちの大半は革命を起こそうというつもりはなかった。主に財政改革を進めるつもりだった。
だが、彼らは次第に国民議会を、それまでに前例のないほど抜本的な変革の場として利用し始めた。主に第三身分の議員たちがヴェルサイユ宮殿近くのテニスコートに集まり、王の大権や特権身分に対抗する意志を示した。いわゆるテニスコートの誓いである。
そこから、彼らは新たな憲法の作成を開始した。この時代、ヨーロッパには成文憲法は存在しなかった。かくして、議員たちは王権への不満や抵抗から革命へと進んでいった。
革命の始まり:バスティーユ監獄の襲撃
1789年7月11日、ルイ16世は悪化していく事態の責任を宰相ネッケルにとらせた。パリ市民はこれで勢いをえた。7月14日、彼らはパリのバスティーユ監獄を襲撃した。ここには、政治犯が投獄されていた。
また、これは王権の武器庫になっていた。パリ市民はその占拠に成功した。かくして、革命が始まった。現代でも、7月14日が革命記念日となっている。
パリ市長だったフレッセルらが市民に殺害された。市民はその頭を切り離し、槍に刺して、市内を凱旋して練り歩いた。このような光景は、革命に賛同的でない人々に、革命や民衆への恐怖や嫌悪感をもたらした。暴徒化した民衆は大胆に暴れまわった。敵視された人々を実際に処刑したり、あるいは模擬処刑を行い、自分たちが正しいことをアピールした
地方では、農村などでアンシャン・レジームに敵対的な反乱や暴動が起こった。そもそも、当時のフランス人の8割以上が農民だった。革命前夜から、彼らはアンシャン・レジームでの財政負担の重さや、特権身分の特権にたいして、反発を示すようになっていた。
苦しい現状を変えるべく、これらの地方は代表者の議員を三部会に送っていた。三部会が国民議会に変わった後も、議員たちは出身地方との交渉を続け、革命を推進していく。
アンシャン・レジームの解体へ
そのような背景のもと、8月4日、国民議会では画期的な決定がくだされた。アンシャン・レジームでの封建的な特権や領主制が廃止されることになったのだ。その結果、貴族という身分が少なくとも形式的には消滅した。フランスには、もはや貴族は存在しなくなったのである。
領主制は貴族らが地方を領主として治めるという仕組みである。領主は領地内の農民たちに重い財政負担を強いており、彼らを統治し、彼らの罪を裁いていた。そのような制度が廃止された。ただし、この廃止は実質的にはまだ部分的なものだったが。
フランス人権宣言
8月26日、議会は有名な人権宣言を採択した。ラ・ファイエットやシエイエスが草案を作成した。そこでは、国民主権、法の下の平等、人間の生来の自由などの理念がうちだされた。これらの基本理念が受け入れられていなかったフランス社会で大胆に示されたのである。
その結果、実質的に、フランスはこれらの理念をどう具体的に実現するかを実験する場となっていく。同時に、人権はフランス革命に目的を与えることになった。新聞などの報道機関や政治クラブが多数誕生し、この運動を盛り上げていく。
革命の終結を目指して:立憲君主制の推進
フランス革命は1799年まで続いたと一般的に考えられている。よって、現代人の我々からすれば、1790年頃はまだまだ革命が始まったばかりだということになる。しかし、この時期に活動した国民議会の議員たちはそう考えていなかった。むしろ、憲法を制定することで、革命を完結しようと試みた。
この革命初期は、国民議会が立憲君主制の実現を目指した時期だった。この時期に活躍したラファイエットやミラボー伯爵らは、立憲君主制の支持者だった。彼らは既存のフランス王権を新たな憲法によって制限する制度を求めた。
革命派には、共和主義を支持する急進派も存在した。だが、この時点での主流派は立憲君主制の支持者だった。
この立憲君主制の動向に対して、国王自身はどう反応したのか。ルイ16世は立憲君主制に反発したと考えられがちである。だが、実際には、革命勃発以前から、立憲君主制には好意的だった。ルイ14世のような絶対王政を求めてはいなかった。さらに、国民議会の諸改革にたいしても、この時期は好意的であり、協力もした。
だが、上述のように、王権は当初から民衆の不満の的であった。そのため、ルイ16世ら王族は民衆によってヴェルサイユ宮殿からパリへと連行された。王族はパリのチュイルリ宮殿に住むようになった。ただし、この時期において、彼らはまだ厳重な監視下におかれていなかった。
ヴァレンヌ逃亡事件
国際問題などが契機となって、ルイは国民議会と対立を深めていく。ルイはミラボー伯爵をひそかに味方に引き込もうとするなどして、事態の打開を図った。だが、事態は膠着していった。
1791年6月、ルイは事態の打開を図るべく、ヴァレンヌ逃亡事件を起こす。これはルイが妻のマリー・アントワネットらとともにパリを脱出し、国境付近の安全な都市まで移動するという計画である。
その場所で身の安全を確保したうえで、自身に有利な仕方で国民議会と交渉しようとしたようだ。だが、準備不足により、この計画は失敗した。ルイらは捕まり、パリに連れ戻された。
シャン・ド・マルスの虐殺
ヴァレンヌ逃亡事件の影響は大きかった。フランス王権への逆風が一気に強まったのである。上述のように、ルイ16世は革命での改革に前向きなことが多かったので、その人気はそれまで必ずしも低くはなかった。だが、その王が逃亡しようとした。これが王への反感を一気に高めた。
パリ市民はパリのシャン・ド・マルスに集まり、王制を廃止するよう訴えた。だが、立憲君主を支持するラ・ファイエットは国民衛兵を用いて、この運動を武力で鎮圧した。ラファイエットの人気も下がることになる。だが、王権廃止の運動は、すなわち共和主義の運動は消え去ることなく続いていく。
民衆がこのように急進的な運動を起こしたので、国民議会の議員たちは憲法の制定を急いだ。憲法の完成による立憲君主制への移行を通して、フランス革命を完了させるつもりだった。
そのため、革命開始後に花開いた報道や政治クラブなどへの締付を開始した。それらを扇動や名誉毀損として訴追できるよう法律を制定し、それらが議会を自由に批判するのを封じ込め始めた。
1791年憲法:立憲君主制の成立
1791年9月、ついに憲法が制定された。これは1791年憲法である。国民議会は2年間をかけて、この憲法の制定にこぎつけた。かくして、フランスは正式に立憲君主制となった。
この憲法では、一院制の議会が設立された。これは立憲議会と呼ばれる。ただし、国民の政治的権利は制限されていた。投票権も参政権も一定の財産を持つ者だけに限られた。よって、労働者や大半の農民はそこから除外された。これは革命へのある種の反動といえる。
以上の革命初期を代表する政治家のミラボーとラファイエットについて、詳しくは次の記事を参照
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革命初期の地方の動き
この革命初期において、地方では多様な動きが見られた。当時のフランスは地方によって特色が大きく異なったので、農民たちの行動や要求も一様ではなかった。それでも、しばしばみられたのは、封建制度や税金への反対や、農地改革をめぐる争いである。
こうした争点をめぐって、地方の人々はパリの国民議会の代議士たちと交渉した。革命の改革プログラムをこれらの点へと拡大するよう圧力をかけた。この時期の地方は革命の進展にたいして期待と不安を抱いていた。革命に危惧を抱く面もあったが、まだ反革命といえるほどではなかった。
教会との関係
この時期、国民議会はカトリック教会を国家の支配下に置き、制度的にも大きな変革をもたらした。なぜなら、議員たちはアンシャン・レジームでのカトリック教会が教育など多面的な仕方で国家に問題を引き起こしてきたと考えていたためである。そこで、たとえば、議会は教会の教区制度や修道院などを廃止した。
革命と教会の関係は、当時の演劇でも取り上げられた。従来の教会の悪弊を描き、革命の理念を商用するようなものが登場し、パリなどで大ヒットとなった。
アイデンティティの変容
以上の大きな変革はフランス人のアイデンティティを大きく変えていく。既成のアイデンティティはなかなか変化しないものだと思われるだろう。だが、フランス革命では、大きな変化が生じた。もっとも、反動も起こっていくが。
たとえば、バスチーユ監獄の襲撃の際のパンフレット『パリの革命』のモットーが興味深い。それは「私たちがひざまずいているから、私たちから見れば上の者たちは大きく見えるだけだ。 立ち上がろう!」であった。これは民衆に投げかけられた言葉である。
それまで、革命の参加者たる民衆は王権の臣下であり、領主たる貴族ら特権身分の従属者だった。かつては身分社会だったので、民衆は生まれながらにして王侯貴族への服従を運命づけられていたのである。その結果、民衆は彼らを、自分の上にそびえ立つような権威者として仰ぎ見ていた。
だが、革命による封建制度の解体の結果、状況は大きく変化した。新たな状況下で、上述のモットーは民衆にこう訴える。王侯貴族がそのように「偉い」のは、彼ら自身の性質ゆえではない。自分たち民衆が卑屈にひざまづいていたから、偉いように見えただけだ。民衆は立ち上がり、本来の関係に戻ろう、と。
民衆や(元)貴族たちのあるべき本来の関係として、人権宣言が提示された。たとえば、法の下の平等である。すなわち、法律上は、すべてのフランス人は平等である。他に、全国民がフランスの愛国者たるべきことでもある。
フランス革命のこの後の動向によって、いくつかの新たなアイデンティティは揺り戻しを受けることになる。だが、この二点はフランス革命のあとも根付くことになる。
革命初期の経済
革命は自由主義経済を推進し、部分的にのみ達成していった。まず、特権身分の解体などによって、封建的な諸制度を解体したことが重要である。
だが、革命を起こしたばかりの政府は慢性的な資金不足だった。さらに、個人の自発性を信じるあまり、政府は経済発展のための直接的な支援をほとんどすべて放棄した。
同時に、政府は財政改善のために、1789年、カトリック教会の土地を強制収用した。教会の土地を国有化し、翌年には競売にかけた。そのほとんどが裕福な都市中産階級や裕福な農民の手に渡った。
なお、1793年には、王侯貴族の土地の大部分も同様に競売にかけられることになる。この土地の再分配と小規模農業の増大が革命後もフランス社会に大きな影響をもたらすことになる。
政府は没収した教会財産を担保に、アッシニアの国債を発行した。当初、政府は3%の利子を支払った。これが翌年に利子がつかなくなり、法定通貨になった。
他方、民衆もまた経済に影響を与えた。たとえば、彼らは1000台ほどの先進的な機械を破壊した。これは数十万リーブルに相当する政府と民間の長年の投資を無に帰した。
さらに、民衆は革命における大規模な生活危機の中で、政府の経済政策に大きな影響を与えていく。フランスの国際的な競争力を犠牲にしてでも、自分たちの職や賃金、生活を守るために、議会に強く圧力をかけた。これが革命期の政府の経済政策に影響を与え続けることになる。
【より詳しく】革命とカトリック
上述のように、議会は財政改善のために、教会財産を国有化して売却した。
さらに、議会は聖職者の身分を大きく変更した。聖職者はそれまでは第一身分という特権身分であった。だが、1790年の聖職者民事基本法により、聖職者は国家から俸給を支払われる役人となった。さらに、彼らはこの法律に従うよう宣誓を求められた。
だが、それらは教会に大変革をもたらすものだったので、その宣誓を拒否する聖職者が少なからず現れた。彼らは反革命の勢力を形成していった。
議会はその他にも多面的な改革を進めていった。たとえば、教会の教区制度や司教を廃止するなどした。この教会改革はフランスのカトリック市民から両義的な反応を受けた。
カトリック市民は革命による教会改革が表向きには自分たちの共同体の福祉にどのように作用するかという基準によって、議会の教会改革を評価することが多かった。
一方で、この教会改革を歓迎する者がいた。財政面での利益を受けたものは、議会による改革を歓迎した。たとえば、伝統的に、村落などの共同体は自分たちの地域の教会に対して、十分の一税を支払うよう義務付けられていた。だが、国民議会の改革により、彼らは支払いの義務から開放された。他にも、旧教会財産の売却による利益が歓迎された。
だが、多くのカトリック市民はその教会改革に反対した。アンシャン・レジームにおいて、カトリック教会の活動はただ単に宗教的だったわけではなかった。むしろ、多くの場合に社会的な面を含んでいた。
たとえば、教会が村の伝統的な祭りや救貧活動、教育などを主導していた。それらが議会の教会改革で廃止された。その結果、共同体の半ば公的な交流や組織も失われることになった。
さらに、この改革が強引な外部の介入を招き、地方の自治を損なわせた。革命の教会改革はこのような複合的な仕方で共同体の福祉に反するとして、反対を惹起した。ここから、反革命の火種がでてくる。
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おすすめ参考文献
Whiteman, Jeremy J., Reform, Revolution and French Global Policy, 1787–1791 (Aldershot, 2003)
Dubois, Laurent, A Colony of Citizens: Revolution and Slave Emancipation in the French Caribbean, 1787–1804 (Chapel Hill, 2004).
Aberdam, Serge, et al., Voter, élire pendant la Révolution française, 1789–1799: Guide pour la recherche (Paris, 2006).
Martin, Jean-Clément, Violence et révolution: Essai sur la naissance dʼun mythe national (Paris, 2006).
Doyle, William, Aristocracy and its Enemies in the Age of Revolution (Oxford, 2009).
Biard, Michel (ed.), La Révolution française, une histoire toujours vivante (Paris, 2009)
Feilla, Cecilia, The sentimental theater of the French Revolution (Routledge, 2016)
Andress, David (ed.), The Oxford handbook of the French Revolution *Oxford University Press, 2019)
von Güttner, Darius, French Revolution : the basics (Routledge, 2022)
山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生』刀水書房, 2018
高橋暁生編『 「フランス革命」を生きる』刀水書房, 2019